本分を失ったことへの反省

2022年4月5日

韓国 王林

私には溶接の技術があったので、2017年に教会の仕事を任されました。それは肉体的にきつい仕事で、残業も珍しくなく、食事や集会の時間に間に合わないこともありました。ですが最初は気になりませんでした。自分の技術を本分に役立てられるのは、光栄なことだと思ったからです。なので全力を尽くそうとしました。その後、チームの業務量が増え、私の本分も多忙を極めるようになりました。やがて私は燃え尽きたようになり、腹立たしくもなってきました。

そしてある日の集会で、ある姉妹から突然、荷下ろしを手伝ってほしいと言われたのです。私は正直嫌でした。集会が終わるまで待てないのか? それほど急ぎなら、他の連中に任せればいいだろう! なのにどうして僕らに? 力仕事のためだけにいるわけじゃないんだぞ! そんな反発が胸の内にあったので、行くには行きましたが、わざとのろのろ動きました。全力で荷下ろしをするのではなく、働くふりをするだけでした。それからも急な仕事が入ると、みんなは残業してでも片付けようとするのですが、私は極力手を抜くようになりました。可能であれば重労働を避け、数時間の残業を強いられようものなら、ひどい理不尽に遭ったかのように腹を立てて、表面的には仕事を済ませても、内面は不満で一杯でした。チームリーダーに命じられた仕事さえ終えればゆっくりしたいと思うばかりで、まだ仕事中の仲間を手伝おうともしませんでした。それは他人の仕事で、自分とは無関係だと考えたのです。チームリーダーは私の手抜きを叱責し、取り扱いました。ところが私は反省もせず、リーダーが小うるさいだけだと決めつけたのです。私は日々の本分を、そのように受動的にこなすばかりで、最小限で済ますことに満足していました。他の兄弟たちが身を粉にして働くのを見ても、羨むどころか、内心あざ笑ってさえいました。ある時、木材を運ぶ仕事があって、私が一束ずつしか運んでいないのに、他の兄弟は二束ずつ運んでいました。私は思いました。「どうしてそんなに頑張るんだ? バカだなあ。力があっても惜しんで使わなきゃ、疲れきってしまうぞ」実際、私は彼より若かったので、二束ずつ運んでも、何のことはないはずでした。ですが、それほど背負うと肩が痛むので、私は嫌でした。私がダラダラ仕事をするのを見た兄弟たちはもっと本腰を入れて本分に当たれと小言をいいました。ですが私はどこ吹く風でした。仕事なら遅れずにやっているじゃないかと。しかし本分への態度を改めなかったことから、神の裁きと刑罰が降りかかったのです。

今年の7月21日、仕事の最中に、チームリーダーがいきなり告げたのです。私の人間性に問題があり、己の本分を怠けているから、それにふさわしくないと。それを聞いて、深い淵に突き落とされる心地がしました。尽くすべき本分がなければ、私はもう終わりではないか? 救いの望みなどあるだろうか? 考えれば考えるほど、落ち込むばかりでした。私はすぐにひざまずき、神に祈りました。「神よ! 本日我が身に起きたことは、あなたのお許しを得たものだと承知しています。ですが、あなたの御旨がどこにあるのかも、どんな教訓をこの事から学ぶべきかも私には分かりかねます。恨み言をいわずあなたの働きに従えるよう、私の心をお守りください」と。そう祈り終えると、だいぶ落ち着きました。荷物をまとめて出て行く前に、遠くの兄弟たちに目を向けました。みんなは忙しく働いているのに、自分は去ろうとしている。嫌な心地でした。信者になってもう10年以上、我こそは真理の追求者だと常に思い込み、自己犠牲も厭わない気でいましたが、そんな私が本分を解かれるとは思ってもいませんでした。本分を尽くす資格もないなら、いったい何ができるでしょう? 私の人間性に問題があるとチームリーダーが言った理由も分かりませんでした。いつも仲間内に波風を立てず、まわりと仲良く過ごせていたからです。人間性に問題があるとは思いませんでした。本分についても、力を惜しんでなんかいないと思っていました。ですが、神は義だと思い出しました。本分をきちんと尽くしていれば、外されることはなかったはず。本分を失ってからは、毎日忙しく働いたり、苦労したりする必要はなくなりましたが、ひどく失望し、落ち込みました。絶えず神の前に出て、祈りながら、己を知るために啓きたまえと願いました。そしてある時、こんな神の御言葉に出会ったのです。「中には、自分は善い人間性を備えていると常に自慢し、悪事を犯したことも、他人の物を盗んだり羨んだりしたこともないと言い張る人がいます。このような人は、利益を巡って紛糾すると自分が損するほうを好み、自分の利益を犠牲にしてでも他人に得をさせ、誰の悪口も決して言いませんが、それは単に誰からもいい人だと思われるためです。しかし神の家で本分を尽くすときはずる賢くいい加減で、いつも自分のために策を巡らせます。神の家の利益を考えることも、神が緊急としているものを緊急として扱うこともなく、神が考えるように考えることもなければ、本分を尽くすために自分の利益を脇にのけることも決してできません。自分の利益を決して手放さないのです。たとえ悪人が悪事を犯すのを見ても、彼らはその人を暴きません。原則が一切ないのです。これは善い人間性の見本ではありません。そうした人が言うことに注意を払ってはいけません。その人が何を生きているのか、何を露わにするのか、本分を尽くすときの態度はどうか、そして内なる状況はどのようなものか、何を愛しているのかを見る必要があります(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。御言葉を噛みしめるうち、腑に落ちました。表面的に良い行動をしているから人間性が良いのだと、勝手に思い込んでいたことを。それは、真理にはほど遠いことでした。神は、本分への態度とそのできばえを物差しに人間性を判断されます。己の利益を脇にのけ、神の家の利益を守れるかどうかを、基準にされているのです。真に人間性の優れた人は、神に忠実に己の本分を尽くし、苦しみや代償も厭いません。いざとなれば己の肉に背いて、神の家の働きを守れるのです。それからは、神の言葉に照らして、果たして己に人間性があるのか、本分への態度はどうかと反省するようになりました。

そして、こんな神の御言葉に出会いました。「神の要求に由来するすべてのもの、神の要求に関する労働や働きの様々な側面など、これはどれも人間の協力を必要とし、どれも人の本分です。本分は極めて広範囲にわたります。本分はあなたの責任、あなたがなすべきことであり、本分についていつも及び腰であれば、それは問題です。穏やかな言い方をすれば、あなたはあまりに怠惰で、あまりに不実で、怠けていて、享楽を愛し労働を嫌っています。厳しい言い方をすれば、あなたは進んで本分を尽くそうとしておらず、も従順さもありません。このささやかな作業にさえ努力を注げないのなら、あなたに何ができますか。あなたは何を正しく行なえますか。本分に対して真に献身的で責任感がある人なら、神から要求される限り、また神の家が必要とする限り、選り好みすることなく、求められたことを何でも行ないます。自分にできること、自分がなすべきことは何でも引き受け、成し遂げるのです。これが人の理解すべきこと、人の成し遂げるべきことですか。(そうです。)中にはこれに賛成せず、こう言う人がいます。『あなたがたは一日中ずっと自分の部屋で本分を尽くし、風や日光から守られている。苦しむことなんて何もない。あなたがたは自分が何を話しているかわかっていない――日光の下で数時間立ち、多少苦しむ必要があると一体どうなるか、確かめてみようじゃないか!』この言葉は間違っていません。言うは易く行うは難し、です。人が実際に行動する際、一面ではその人柄に目を向けなければならず、別の面では、その人がどれほど真理を愛しているかを見なければなりません。まず人の人柄について話をしましょう。ある人が優れた人柄の持ち主であれば、何事でも肯定的な面を見て、物事を受け入れ、肯定的で積極的な観点からそれを捉えようとします。つまり、心と人柄と気性が正しいのですが、これは人柄の観点から見たものです。もう一つの側面は、どれだけ真理を愛しているかです。これは何と関係していますか。これが意味するのは、何かについて頭の中にある意見、思考、見方がどれほど真理と一致していようと、またどれほど理解していようと、神からそれを受け入れることができるということです。従順で誠実であればそれで十分なのです。従順で誠実であれば、働く際に手を抜かず、本当に努力します。働きに心を込めれば、手があとに続きます。心を失って努力することをやめると、不実になり始め、頭の中でこう考えるようになります。『夕食はいつ? どうしてまだこんなに早いんだ? いつになったらこの果てしない仕事が終わるのか? 実にイライラする。わたしも馬鹿ではない。最低限のことだけをして、全力投球はしないでおこう』。この人の人柄はどのようなものですか。この人の意図は正しいですか。(正しくありません。)意図は暴かれました。このような人は真理を愛していますか。どれほど真理を愛していますか。このような人には本分を尽くそうという気がわずかしかありません。良心はそれほど悪いものでなく、多少の働きを行なえますが、それに努力を傾けることはせず、表面的な仕事しかしません。働く時になると、よこしまな意図が現われ、怠ける方法を常に見つけようとしています。働きを行なっても、彼らの生産性は極めて低く、道具を使うたびに壊してしまいます。時間が経つにつれ、人々は彼らに問題があり、暴かねばならないことに気づき始めます。実際のところ、神はそのすべてをすでに見ており、人々が目覚め、彼らを暴いて淘汰するのをひたすら待っています。しかし、その人はこう考えます。『わたしの賢さを見るがいい。同じものを食べているが、働きのあと、彼らは完全に疲れ切っている。一方、わたしはほら、楽しむ方法を知っている。賢いのはわたしのほうで、本物の働きをする人は愚か者だ』。彼らが正直な人たちをこのように見ているのは正しいことですか。事実を言えば、賢いのは本物の働きをしている人たちのほうです。なぜ賢いのですか。彼らはこう言います。『わたしは、神から求められないことは一切せず、神から求められることはすべて行なう。神がお求めになることは何でもするし、それに自分の心、捧げられるすべてのものを捧げる。ごまかしは一切しない。わたしはこれを人のためでなく、神のためにしている。神がご覧になれるよう、神の前でしているのであって、誰か人に見られるためではない』。では、その結果はどうですか。ある集団はずる賢い人を残らず淘汰し、正直な人だけが残ります。こうした誠実な人たちの状態はますます力強くなり、何が降りかかろうとも神に守られています。では、彼らはこの加護をなぜ得られるのでしょうか。心の中で正直だからです。彼らは困難や疲労を恐れず、託されたことについて選り好みをしません。理由を訊かずただ言われたとおりにし、検証することも分析することもなく、また他の何かを考慮することもなく、それに従います。隠れた計画を抱いておらず、万事において従順になれます。彼らの内なる状態は常に極めて正常で、危機に直面すると神は彼らを守ります。病気や疫病に見舞われても、神はやはり彼らを守ります。彼らは大いに祝福されているのです(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは真理を忌み嫌い、公然と原則に反し、神の家の采配を無視する(4)」)。御言葉を読み終えて、私は確信しました。本分に対する私の態度や見方、そして進捗を、神の御言葉はさらけ出していると。神は人の魂を見通し、その人の一挙手一投足、心をよぎる考えに至るまで、観察しておられるのです。己の本分に初めて取り組んだ時、私は神のために己を費やし、神の愛に報いようと決意をみなぎらせていました。しかし時が過ぎ、努力や苦しみを重ねるうちに、私の本性が顔を覗かせました。少ない労力で本分を尽くそうと、手抜きをするようになり、仕事量が増えて肉体的に苦しくなると、不当に扱われたと反発を抱くようになりました。他の人たちは一生懸命取り組んで、疲労など意にもかけませんが、私はわざとのろのろ動き、楽な仕事ばかり選んでいました。他の兄弟が仕事に精を出しているのを見ると、腹の中でバカにして笑いさえし、自分は彼らより賢いのだから、肉体的に消耗することなく本分を尽くしつつ、神の祝福に浴せると思っていました。つまりは一石二鳥です。おまけに損得勘定を己の本分に持ち込みさえしました。私はそこまで卑劣で狡猾だったのです! 神の言葉からわかったのは、身を粉にして働く人たちを笑っていた私こそが、大馬鹿者だったということです。一緒に本分に取り組んでいた兄弟たち、私が小馬鹿にしていた人たちは誰一人、本分から外されていないというのに、自分は賢いと思い込んでいた私が任を解かれ、本分を尽くす機会を失ったのですから。私は己の「賢さ」の犠牲者で、実際にはまさしく大馬鹿者であり、己の本分にも神が厭うやり方で取り組んでいたんです。本分をきちんと尽くすことは、天が与えた被造物の使命であり、創造主が人類に委ねた行いですが、それでも私は、まるで臨時雇いの労働者のように本分に向き合い、責任感の欠片もなくいい加減に片付けていました。被造物が備えるべき良心も理知もまるでなく、番犬にも劣る存在でした。番犬なら少なくとも飼い主の庭を監視し、邪険に扱われても飼い主にはあくまで忠実ですが、それなのに私は、神の賜物をただ飲み食いし、神の恵みを享受するばかりで、神から与えられた本分をきちんと尽くしていませんでした。獣にも劣る、人間の名に値しない者だったのです。本分から外されたのは、神の義なる性質の現れで、ひとえに私の反抗心が招いた報いなのです。私はそう確信しました。

その後、こんな神の御言葉を読みました。「本分を尽くすときに真の代価を払わず、忠誠心を持っていなければ、それは規準に適っていないのです。神への信仰と本分を尽くすことに対して真に自分を捧げず、上司のために働く不信者のようにいつも形だけのおざなりな行動で済ませ、努力しているふりをするだけで、毎日を何とかやり過ごし、問題を見て見ぬふりをし、倒れたものを起こそうもせず、自分の利益にならないことは一切取り合わないとしたら、それは問題ではないでしょうか。そのような人が、どうして神の家の一員になれるでしょうか。そうした人々は部外者であり、神の家に属していません。本分を尽くす上で誠実であるかどうか、自分を捧げてきたかどうかは、自分の心に聞けば明らかです。そして神も、記録をつけています。では皆さんは、本分を尽くすことに対して真に自分を捧げたことがありますか。それを真剣に受け止めたことがありますか。深く心に刻んだことがありますか。自分の責任、義務として扱ったことがありますか。それを自分のものとしたことがありますか。本分を尽くす上で問題を見つけたとき、声を上げたことはありますか。問題を見つけても声を上げたことはなく、そうしようと思ったこともなく、そうしたことに関わる気がなく、事なかれ主義でいるなら――それが問題に向き合う際の行動原則なら、あなたは自分の本分を尽くしていません。ただ頑張って、形式的に仕えているだけです。そのような人は神の家に属しておらず、従業員に過ぎません。仕事が済んだら報酬を受け取って退社するだけで、各自がわが道を行き、互いに他人同士となります。こうした人々と神の家との関係は、その程度のものなのです。神の家の一員はそうではなく、神の家のあらゆる事柄に苦心し、責任を負います。神の家で何をしなければならないかに目を配り、そうした任務を常に心に留め、考えたり見たりしたことをすべて覚えているし、重荷を負っており、責任感があります。それが神の家族の姿です。あなたがたはその段階に達していますか? (いいえ。)そうであれば、まだ先は長く、努力を続ける必要があります。自らを神の家の一員とみなさず、自分自身を淘汰するなら、あなたは神からどのように見られているでしょうか。神はあなたを部外者として扱いはしません。あなたを神の家の扉の外に置いているのは、あなた自身なのです。ですから客観的に言えば、あなたはいったいどのような種類の人間ですか。あなたは神の家の中にいません。これは神が語ったり決定したりすることと何か関係があるでしょうか。あなたの目的地と立ち位置を神の家の外に置いているのは、あなた自身なのです。他に誰のせいにすることができるでしょうか(『終わりの日のキリスト講話集』の「神の義なる性質をどのように認識するか」)。御言葉を熟考するうち気づきました。万事において神の家の利益を考え、神の家を我が家と見なすことでのみ、神に喜びと慰めをもたらして、神の家の住人になれるのだと。私は神の家で本分を尽くしていましたが、本分への態度や取り組み方に照らせば、神の家の住人とは言えませんでした。言うなれば神の家の臨時雇いで、表面上は苦労していても、心は上の空だったのです。自分に直接関係しないことは、我関せずの態度でいたのです。自分には人間性の欠片も、高潔さもないとわかりました。効力者の資格すらなく、まさしく不信者そのものだったのです。教会で本分に取り組む資格などまるでありません。

それからは、絶えず神に向かって祈りながら、自分は何に囚われて、そのような態度で己の本分に向き合ったのだろうかと考えるようになりました。そうしてこんな神の御言葉に出会ったのです。「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたはそのような強い感情を持っているのですか。なぜそうした不義な物事を楽しむのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因は、サタンの毒があなたの中にあることだと、あなたがたは今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、『人はどのように生きるべきか。人は何のために生きるべきか』とあなたが尋ねたら、人々は『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』と答えるでしょう。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの哲学が人々のいのちとなったのです。何であろうと、人は追い求め、自分のためにそれを行ないます――ゆえに、人は自分のためだけに生きているのです。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』――これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。こうしたサタンの言葉こそサタンの毒であり、人がそれを取り込むと、それは人の本性となるのです。サタンの本性はこれらの言葉をとおして暴露され、これらの言葉がサタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました(『終わりの日のキリスト講話集』の「ペテロの道を歩むには」)。御言葉のおかげで理解できました。自分はこんなサタンの生存法則によって生きていたのだと。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「己に関わりのないことは見過ごせ」そして「鶏頭となるも牛後となるなかれ」。それらが私の中に深く根づいて、本性そのものになっていました。それらによって生きることで、ますます卑劣で利己的になっていき、本分でも自己の利益ばかりを考えて、自分に有利で肉体的な楽なことだけを選び取り、神の御旨を思いやって本分に当たることなど考えませんでした。神が肉となって地に来られ、人類を清めて救う真理を表わすため、大きな屈辱と苦痛に耐えながら、決して見返りを求めなかったことを思いました。神はかくも人を愛しておられるのです。そして私は、御言葉がもたらす糧と潤しを享受しながら、感謝の心も持たず、本分でわずかに苦しんだだけで腹を立てていました。良心にも理知にもまるで欠けていたわけです。かくまで素質に欠けた私に、重要な本分を尽くせるはずがありませんが、それでも神は私を拒まず、私に見合った本分を与え、真理を得て救われる機会を与えてくださいました。それが神の愛なのですね。それを考えると、私は後悔で一杯になり、だらしなく怠けて本分に当たっていた自分を憎みました。とりわけ、サタン的な堕落の深さや人間性のなさが厭わしくてたまらず、そんな生き方は二度としたくありません。私は決心しました。今後いかなる本分を与えられようと、心をこめて、全力でそれに当たり、神を騙すことはもう決してするまいと。私は神の御前で祈りました。「神よ! 裁きと刑罰をありがとうございます。お蔭で自分が本分を軽んじており、利己的で卑しく、人間性にも欠けていることを自覚できました。非を認めて悔い改めます。己の本分を尽くし、恩に報いて、御心を安らげるべく努力いたします」と。それ以来、私はすべての時間と努力を、福音を広めることに費やし、本分に最善を尽くして過去のあやまちを償うことばかりを考えてきました。

それから一か月あまりを経て、私の状況が改善し、本分に対する態度も改まったのをリーダーは見てとり、私に電話をかけてきて、元の本分に戻ってもよいと告げました。私はいたく興奮し、小声でこう答えました。「己の本分を尽くす新たな機会を与えてくださった神に感謝します」電話を切るなり、涙が目にあふれてきて、心は神への感謝と、いつか恩義に報いねばという思いに満たされました。また、かつての自分が本分で反抗的だったことを振り返り、後悔と恥ずかしさで一杯になりました。私はひざまずいて神に祈り、何を話してよいか分からずに泣くばかりで、何を言っても足りない気がして、同じ言葉を繰り返すばかりでした。「神よ! 感謝します!」と。神がどれだけ多くの働きを私になされ、裁き、罰し、清め、救ってくださったのかを思えば、私にできるのは感謝を示すことだけでした。己の全てを神に捧げることだけが望みであり、己の本分に全力を注ぐことで神の愛に報いたかったのです。本分を解かれたあと、それを取り戻したことで、私はそれを心から大事にできるようになり、この御言葉もようやく理解できたのです。「神の要求に由来するすべてのもの、神の要求に関する労働や働きの様々な側面など、これはどれも人間の協力を必要とし、どれも人の本分です」。もう、仕事に精を出すことを苦しく、卑しいこととは思いません。むしろそれは名誉であり、神の依託、神の要請である上に、何より己の本分なのですから。私はかつて間違った考えを抱き、神の家で働くことは世間で働くのと同じで、苦しいばかりの仕事だと思っていましたが、自分の経験からわかりました。世間で働くのは生計を立てるためだけの行為で、どんな苦しみも自分の利益のためでしかなく、意義がないのだと。一方神の家で働くことは、己の本分を尽くすことであり、本分での苦しみにはどれも価値があり、神に認めていただけるのだと。

本分の捉え方をそのように改めたことで、私は神の愛を真に経験することができ、もはや神の家の臨時雇いには留まらず、その一員になりたいと願うようになり、それ以来、本分に全力を注いでいます。仕事が大変で疲れることもありますが、もう文句は言いません。全身全霊でしっかり仕上げようと取り組んでいます。私はとても感謝しています。私の本分への態度を変え、馬鹿げた見方を改めてくれた神の裁きと刑罰に。おかげで堕落した性質も多少変わりました。

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