福音を伝える経験

2022年4月5日

韓国 复苏

私は、終わりの日の全能神の働きを受け入れた後、福音を広め始めました。どんな困難があっても、神の羊が神の御声を聞き、神の前に来られるよう、懸命に本分を尽くそうと心に決めました。

2018年2月、オンラインでフィリピン出身のメル兄弟に会いました。彼は神学を学ぶ学生で、賢い乙女と愚かな乙女についてや、携挙についてなど、たくさんのことを話しました。誰が天国に行けるかという話になって、私はこう聞きました。「主を信じる者は皆、最後には天国に行けると思う?」と。メル兄弟は「当然です。『エペソ人への手紙』でパウロはこう言っている。『あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである』。私たちは信仰により義認されたから、最後まで耐え抜けば救われる。主が再来したら、そのまま天国に導かれます。そのことを少しでも疑うことは、主イエスの救いを否定する、信仰心に欠ける行為です」そう話したメル兄弟に、さらに尋ねました。「信仰に義認され、恵みに救われたから天国に行けるというのは聖書に書いてあるの? 主イエスが仰ったの? 聖霊が仰ったこと? 聖書には、信仰による義認や救いについては書いてあっても、それが私たちを天国に導くとは書いていないわ。根拠がないなら、それは人間の観念ではないの?」

メルは驚いて、静かな声で呟きました。「信仰による義認と天国に導かれることは違うのか?」と。そこで、聖書の抜粋を送りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう(マタイによる福音書 18:3)。「彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった(ヨハネの黙示録 14:5)。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)。そして言いました。「主の言葉は、天国に入る条件を明確にしているわ。主は聖いのだから、私たちも幼子のように清く、誠実で、汚れなき存在でなければ。堕落から逃れ、清められ、神に従い、神の旨に沿う人こそが、天国にふさわしいのです。私たちはその条件を満たしていますか? 今まで嘘をついたことがないと言えますか? 罪を犯したことがなく、清められていると言えますか?」メルが黙ったままでいたので、交わりを続けました。「罪を告白し悔い改めれば、信仰により義認され、恵みにより救われる。それは事実です。でも信仰による義認や恵みによる救いとは、どういう意味なんでしょう。知っての通り、律法の時代には、神はモーセを通して律法と戒めを発し、人々の生活を導いた。でもその時代の終わりには誰も律法を守らず、皆が罪を犯し続け、律法の下に断罪され、命を奪われる危険にさらされた。この状況の中、神は受肉され、人の罪を贖うために十字架にかけられ、人を律法から救った。それ以降人は、主イエスを救世主として受け入れ、悔い改めれば、罪は許され、律法を破ったとして断罪されなくなった。つまり、主は人類を罪人とみなさず、主の贖罪のおかげで、義なる者と呼ばれることができ、神の御前で祈りを捧げ、神の恵み、平和、喜びを享受することができた。信仰により正され、恵みにより救われるというのは、信仰により罪が赦され、律法の下に断罪されないという意味ですが、罪が消えたわけでも清められたわけでもなく、天国にふさわしい義なる者となったとは言えません」。

メルは驚いてこう言いました。「信仰による義認というのは、罪を赦され、罪人とみなされないだけで、義なる者になったわけでも、天国に入れるわけでもないのか。牧師からは、そんな話聞いたことがない」と。その後、全能神の御言葉のこの部分を読みました。「当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪ある人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。「人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、いったいどのように降臨するのだろうか。贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいないあなたがたのような罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたが、イエスによって救われ、神の救いのおかげで罪人と見なされなくなったことは事実だが、これは、あなたに罪や汚れがないという証拠ではない。いまだ変わっていなければ、あなたはどうして聖いものとなれるのか。あなたの内側は汚れに満ち、自分勝手で卑劣である。にもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではあり得ない。あなたは神を信じる上で一つの段階を見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。さもないと、罪から贖われただけのあなたは、聖さを得ることができない。このように、神のよき祝福を共にする資格はあなたにない。と言うのも、神が人を経営する働きの一段階、つまり変化させ、完全にするという重要な段階を逸したためである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたが、神の嗣業を直接受け継ぐことはできない(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)

御言葉を読んだ後、交わりを続けました。「恵みの時代、人類の需要に基づき主イエスは贖いの働きをした。人々が自分の罪を悔い改め、主の愛を求め、光や塩となり、自分を愛するように他人を愛せるよう、悔い改める道を表した。人が良い行いを学べたのは、贖いの働きの成果です。主イエスによって贖われた時、私たちの罪は赦され、罪人とみなされなくなった。しかし、罪が消え、清められたわけではないのです。私たちの罪深い本性は根深く、人は常に堕落した性質を見せます。ごう慢さ、心の歪み、ずる賢さ、邪悪さ、凶悪さなどです。例えば、自分に才能や力や素質があると、自分はすごい人間だと思い、傲慢になり、人を見下します。働きのために犠牲を払ったり、多少苦しんだだけで、それを人に見せつけて、みんなに尊敬されたがります。自分より優れた人を見ると、嫉妬にかられ、その人を嫌います。自分の利益に影響が及ぶと、嘘をついたり騙そうとしたりします。苦難や、試練、災難、病気、身内の不幸に直面すると、神を誤解し、恨み、否定したり裏切ったりすることさえある。これらすべてが表すのは、私たちはまだ罪に捉われていて、罪を犯し神に抵抗するということ。2千年もの間、人は罪を犯しては悔い改めるという悪循環を繰り返し、そこから逃れた者は誰一人としていません。これは明らかな事実です。今の私たちは、嘘をつかず欠点がなく、清められた存在であれ、という神の求めから、ほど遠い状態です。神を崇めることも、証を立てることもできない、そんな私たちは、天国に入るのにふさわしいでしょうか? 主イエスは言われました。『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)。ですから、清められ、天国に入りたいと思うのなら、終わりの日に神が再来し、私たちの罪を消し、サタン的性質を解決し、罪や神への抵抗心を根絶する働きを行うことが必要です」。

この交わりを聞き、メルは理解したと言いました。主イエスは贖いの働きをしただけ。信仰により正されても、私たちはまだ罪を犯し、罪に縛られている。だから天国には行けないんだと。でも、しばらく考えた後、こう聞かれました。「主が、終わりの日に改めて救いの働きをするというのは主イエスの救いを否定することになるのでは? 信仰によって私たちの罪は赦された。義なる人になっていなくても、神の救いは完璧だ。主イエスの働きが完成したことで救いは終わり、これ以上の救いはない。救われた者がまた救われるなら、主の救いは意味がなかったと言うこと? あなたがの救いを信じていないから、そんな疑いが生まれているのでは?」と言いました。

それを聞いて思った。「若いのに、かなり強い観念をもっているわ」と。「信仰による義認で天国に行けないとわかっても、終わりの日の神の救いの働きを受け入れられないなんて」私は神に祈り、導きを求めました。祈りの後、私はこう言いました。「終わりの日に新たな働きをすることは聖書に預言されています。コリント人への第二の手紙の第1章10節に、『神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる』とあります。へブル人への手紙の第9章28節には、『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』とある。ペテロの第一の手紙の第1章5節には、『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである』とあり、ヨハネによる福音書の12章47-48節には、『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』とあります。ペテロの第一の手紙の4章17節には、『さばきが神の家から始められる時がきた』とあります。『また救い出して下さるであろう』『彼を待ち望んでいる人々に、二度目に現れて』『終りの時に啓示さるべき救にあずかる』『さばきが神の家から始められる時がきた』などの言葉は、神が終わりの日に新たな働きをすることを意味しています。その目的は罪を贖うことではなく、人類を裁き、清め、完全に救うこと。主イエスの贖いの働きは私たちの罪を赦した。そして神は終わりの日に裁きの働きを行って、私たちの罪深い本性を解決し、罪から完全に解放し、清めるのです」。

メルは驚いて言いました。「神は終わりの日に裁きと清めの働きをするんですね。それがもうひとつの救いだと。神はその裁きの働きをどのように行うのですか?」

私は交わりを続け、「へブル人の手紙の4章12節に、『というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる』とあります」と言い、この御言葉を一部を読みました。全能神は言われます。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。「神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性と実質、堕落した性質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考えを一掃することであり、人間の知識と文化は神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする(『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」〔『言葉』第1巻〕)。読んだ後、さらに交わりを続けました。「終わりの日に、主イエスの再来、つまり全能神は受肉して地上に降り、真理を使って裁きの働きを行っています。人類を清め、完全に救うあらゆる真理を表して、、人のサタン的性質を明らかにし、私たちの観念や神へのばかげた誤解や、サタン的哲学、毒、観点などを暴こうとしています。これによって私たちはすべての真理を理解し、神の義なる性質、聖く美しい本質、そして全能性と知恵を知るのです。神の御言葉は自分たちが認識していなかった堕落を暴き、御言葉が明かす真理によって、私たちは神と自分自身を認識します。それにより堕落した性質が清められ、変わっていくのです。全能神の御言葉を多く読み、ある程度の真理を理解し、信仰による義認と恵みによる救いについての自分の観念を認識し始めると、自分の穢れや堕落を差し置いて天国に入ることを望むのは傲慢で理知のないことだとわかり、真の意味で悔い改められるようになる。これが、神の御言葉の裁きを受け入れる始まりです」。

これを聞いてメルは微笑んで言いました。「神の裁きを受けている気がします」と。「主イエスを長年信仰してきたけど、信仰による義認と、恵みによる救いは、天国に入る資格を意味していると、そう思って疑わなかった。でも今、自分の信仰が観念と想像の上に成り立っていて、神の旨に沿っていないとわかった」と。

私は、「そうなの。全能神の御言葉がすべてを暴いてくれなかったら、誰も理解できなかったはず」その後、全能神の御言葉の別の一節を読みました。「なぜ征服の働きは最終段階なのか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることではないのか。それは、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程において、あらゆる人が自分のありのままの姿をあらわし、その後それぞれの種類に分類されるようにするためではないのか。人類の征服というよりも、これはむしろ各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方が良いくらいである。つまり、これは人の罪を裁き、それから人の様々な種類を明らかにし、それにより、人が悪であるか義であるかを判定することである。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は、神の働きを全宇宙に広める次の段階に配置される。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を浴びることがない。義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。「神の御言葉に裁かれ、暴かれることで、堕落した性質が清められ、真の意味で義と認められた人が、神に守られ、災難を生き抜き、神の国に入ることができるのです。でも終わりの日の神の裁きの働きを拒み、恵みと救いを受けることしか考えない者は、神に暴露され淘汰され、災難が来た時に泣くことになります。これは黙示録第22章11節の預言のとおりです。『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ』。このように義と不義が区別され、神は善行を誉め悪行を罰し、人を、その行いに応じて取り扱います」。

メルは嬉しそうに言いました。「終わりの日の裁きの働きは、人を清め、さらに分類するのですね。本当に知恵にあふれていますね! 牧師がよく言っていた、信仰による義認と恵みによる救いは、間違っていた。僕は分別もなく、そのような観念に頑なに固執し、主の救いはすでに完成していて、人が再び救われることはなく、義認と救いにより天国に入れると思っていた。そんなふうに考えていたなんて恥ずかしい。主の憐れみにより、この話を聞けたことを感謝し、終わりの日の裁きの働きを喜んで受け入れます」と。

メルが終わりの日の裁きの働きを受け入れる気持ちになり、本当にうれしく思いました。でも、数日後にメルに会うと、驚くことを言われました。週末にメルが牧師の家に行った時に、私の交わりの内容を話したところ、牧師から私は間違っている、信仰による義認と恵みによる救いは正しく、終わりの日の神の裁きは必要ない、私とは金輪際連絡を絶つようにと言われたそうです。そう話すメルが、とても落ち込んでいるのが分かりました。そして終わりの日の神の裁きを受け入れるかどうか迷っていることも。私はすぐに神に祈り、証を立てられるよう導きを求めました。すると、この御言葉が頭に浮かんだのです。「神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、どのような試練を用いて人々を精錬し、あなたがたの性質を変えるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたがたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。本当の物事を、自分の実際かつ本物の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」)。神の証を立てるには、ただ終わりの日の神の働きについて話すのではなく、自分自身の経験を使って、神の裁きの働きが本当に人を清め、救うことを示す必要があります。自分も神の裁きを経験したのだから、その自分の経験をメルに話したらどうだろう? そう思うと、心が落ち着き、進むべき道が見えました。

メルにこう言いました。「神は終わりの日に、さらなる救いを行います。主は再来し、裁きの働きをする。それは誰にも否定できない事実です。サタンに堕落させられた私たちは、本性から真理を愛せず、真理を実践できず、自制したり、断食や祈りを捧げることはできても、完全に罪から逃れられる人はいません。『人の本性を変えるのは、山を動かすより難しい』というでしょう。終わりの日の神の裁きと清めを受け入れなければ、サタン的本性は私たちの中に深く根を張ったまま残り、そのせいですぐにサタン的性質を表したり、神に抵抗、反抗してしまうのです。例えば私も、かつてはとてもごう慢な人間で、多少素質があって、主のために多くの犠牲を払ったので、神に喜んでもらえる人間だといつも思っていました。でも、主イエスが再来し、終わりの日の裁きの働きを行っていると聞いた時、すぐに受け入れなかった。信仰による義認と恵みによる救いを信じていたので、その当時は深く考えようともせず、『あり得ない、神はもう働きを行うことはないから、裁きの働きなど受け入れる必要はない』と言った。その後、兄弟姉妹が全能神の御言葉を繰り返し伝えてくれて、やっと自分の観念を正せました。終わりの日の全能神の働きを受け入れた後、デボーションの時に全能神の御言葉を読んで、本当に恥ずかしくなったわ。全能神は言われます。『自分は生まれながらの天才で、天より少し低いものの、地よりは無限に高いなどと考えないことだ。あなたは他の人ほど賢くないどころか、理知ある地上の誰にも増して、ほれぼれするほど愚かだとさえ言えるだろう。なぜなら、あなたは自分を過大評価しており、わたしの行動の些細な点まで見抜けるとでもいうように、いまだかつて劣等感をもったことなどないからだ。しかし実際には、あなたは根本的に理知を欠いた人である。なぜなら、わたしが何を行なうつもりなのかをまったく知らず、ましてやわたしが現在していることに気づいていないからだ。だからこそわたしは言う。あなたは懸命に働く年老いた農夫にも匹敵しない。人生というものを一切自覚していないにもかかわらず、天の祝福に頼り切って土地を耕している、そのような農夫にも匹敵しないのだ(『神の出現と働き』「学習しない無知な者たち。彼らは獣ではなかろうか」〔『言葉』第1巻〕)。『「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)。『もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかを、自分に問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)」。

メルに言いました。「この御言葉が心に刺さりました。自分のごう慢さを自覚したんです。終わりの日の神の働きについて聞いた時、深く調べようともせず、御言葉を真剣に読んで、神の御声か判断しようともしなかった。ごう慢にもこれ以上神は働きを行わない、と言って、まるで神の働きを見透かしたかのような態度をとった。サタンにより堕落していただけだったのに。神の働きを見透かすなんてできません。神は創造主で、その働きは神の経営計画に基づいているのに、神が私の承認を求め、私の観念に従って、働きを行うかのように考えた。『ありえない』という断定は、神の力を限定し、神に抵抗し、断罪することに等しい。それはまるで、救世主の到来を待ちわびていたのに、主イエスが現れ働きを行った時に、救世主だと気づかず、自分たちの観念に基づき主イエスを裁き、断罪し、十字架にかけたパリサイ人のよう。彼らは神の性質に背き、神の懲罰を受けたのです。私の行動は主イエスに抵抗したパリサイ人と変わりません。それに気づき、わかりました。主の恵みを享受し、善行をしたからと言って、性質が変わるわけではないと。神の裁きと清めがなければ、少しでも気に入らないことがあっただけでごう慢さが顔を出し、まったく理知のない人間になってしまう。神に抵抗し、神を断罪しながら、自分は真の道を守り、神に従っていると思いこんだ。恐ろしいほどに、自覚に欠けた人間でした。御言葉の裁きを通して自分のごう慢な性質をある程度理解した私は、ごう慢さが顔を出しそうになると、神の裁きと刑罰の御言葉を読んで、自分を振り返るようになった。そして気がつけば、謙虚な人間になっていました。本来の良心と理知を取り戻し、気に入らないことがあった時には真理を求め、でたらめに決めつけたり、非難したり、自分の考えに固執しなくなりました。神への畏敬の念も覚え、少しずつ人間らしさを取り戻せた。そしてわかったんです。裁きと刑罰とは、段階的な変化と清めのことなんだと。これが、神の御言葉を通してサタン的性質を変える過程です。神の御言葉は厳しく、鋭い。でも神が人類に与える愛は、もっとずっと大きく、ずっと深い。『良薬口に苦し』というように、このような神の裁きと暴露は、人の堕落した性質を変えるためのもの。人に対する神の深い愛ゆえなのです。それが分かってからは、神の御言葉の裁きと刑罰を進んで受け入れ、ごう慢さを捨て、人間らしく生きようと思うようになりました。そして終わりの日の神の裁きの働きこそ、人生に必要なものであり、このような裁きだけが、人を罪から救えるのだと分かりました。裁きと刑罰は、本当の意味で神の救いであり、恵みや贖罪をこえる、神の愛なのです」。

私の交わりを聞いて、メルは嬉しそうに言いました。「主イエスを長年信仰しているが、教会の人が自分の堕落について話をしているのを聞いたことがない。みんな自分の自慢ばかり。表面上は、お互いに寛容の精神を実践しているけど、自分の利益が絡んだとたん、愛は消えてなくなる。今やっとわかりました。それはサタン的性質のせいで、裁きと清めの働きなしには、自己を認識することも、神の御言葉を聞き、神に従うこともできない。自分を愛するように人を愛することなどできない。裁きと刑罰は人類への救いであり、私たちがまさに必要とするもの。全能神の御言葉は本当に真理です。これ以上、他の人の話は聞きません。全能神だけを信じ、その御言葉を受け入れます!」そして、チャットグループの名前を「私の本当の家族」に変えると、大粒の涙をこぼしながら言いました。「神を見つけた、家族を見つけた、御言葉を読める場所が私の家族だ!」と。それを聞いて、心から感動しました。

メルに福音を広めた経験は、私に大切なことを教えてくれました。真理を理解しなければ、人はさまざまな宗教的観念や邪説に惑わされ、捕らわれてしまう。私たちが本当にすべきなのは、神を頼り、御言葉を読み聞かせ、真理を交わり、神の働きの経験から得た自分の理解を使って神の救いを証言すること。人が本当の意味で、神の御前に来るには、真理を理解し、観念についての分別をつける必要がある。そして人を救う神の働きがどれほど大変な事かも経験した。神のそばでともに働き、多くの人を真の信仰に導き、神の心を慰めたいと思います。

次へ: この私の試練

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