5. 堕落した人類が受肉した神の救いをさらに必要とすると言われるのはなぜか。

関連する神の言葉

神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。最初の受肉は人を罪から贖うもの、つまりイエスの肉体によって人を罪から贖うものだった。言い換えると、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的性質が依然として人の中に残っていたのである。二度目の受肉はもはや罪の捧げ物として仕えるためのものでなく、罪から贖われた人たちを完全に救うものである。そうすることで、赦された人は罪から解放され、完全に清められる。そして変化した性質を獲得することでサタンの闇の影響から自由になり、神の玉座の前に戻るのである。この方法でしか、人は完全に清められない。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている

神が受肉したのは、自身の働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体を持ち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体を持つ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象なので、神は救いの働きの全段階で、人間を自身の働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在であり、血と肉から成っているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、自身の働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために、人間と同じ属性を持つ肉とならねばならない。神が働きを行うために受肉しなければならないのはまさに、人間が肉体を持つ存在であり、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないからである。受肉した神の実質と身分は、人間の実質および身分とまったく異なるものだが、その外見は人間と変わらず、普通の人と同じように見える。受肉した神は普通の人間の生活を送り、その神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性は、受肉した神が普通の人間性において神性の働きをするのに十分である。受肉した神の肉体は普通の人間として働きを行うことを可能にし、人々のあいだでの働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は、人々のあいだで救いの働きを遂行するのに役立つ。受肉した神の普通の人間性は人間のあいだに多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、受肉した神の普通の肉体による働きは、人間にとってこの上なく有益なのである。たいていの人は受肉した神の普通の人間性を受け入れないが、それでも神の働きは成果を上げることができ、そうした成果は受肉した神の普通の人間性のおかげで達成される。この点に疑問の余地はない。肉における神の働きから、人間は、神の普通の人間性について人間のあいだに存在する観念から受け取る物事の十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念は最終的に、神の働きに残らず飲み込まれる。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間が持つ神についての認識は、人間が神について抱く観念をはるかにしのぐ。神が肉において行う働きは想像もできないし、測りようもない。神の肉体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、実質は異なっている。神の肉体は、神に関する数多くの観念を人間のあいだに生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得られるようにする。そして、似たような外見を持つすべての人を征服することさえできる。受肉した神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、神を完全に把握する、あるいは理解することは誰にもできないからである。目に見えず、触れることもできない神は誰からも愛され、誰からも歓迎される。神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人々は自分の想像を自由に働かせ、神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それに喜んで満足していられる。このように、人々は自分の神が最も好むこと、この神が人に望むことなら何でも、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人々は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神への信仰が漠然としていて、教義に基づいている人々が求めるものだと言える。彼らが求めているのはどれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その実質は実際のところ同じなのだ。

人間は、自分の信仰がいいかげんなものであっても気に留めず、好きなように神を信じる。これは、誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つである。人々は他の誰のものでもない、自分自身の神を信じているからである。これはその人自身の私有財産であって、ほとんど誰もがこうした私有財産を持っている。人間はこの資産を貴い宝とみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上に、神への敵対をはっきり示すものはないからである。神が具体的な形態でもって肉となり、人が見て触れることのできる存在になったのは、受肉した神の働きの故である。受肉した神は形のない霊ではなく、人間が見て触れることのできる肉体である。しかしながら、人々が信じる神々のほとんどは、形がなくて曖昧模糊としている、肉体を持たない神である。このように、受肉した神は、神を信じる大半の者たちの敵となり、また同様に、神の受肉という事実を受け入れられない者たちも神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のせいで観念にとらわれている。大半の人が死ぬのはこの私有財産のせいであり、人間のいのちを損なっているのは、見ることも触れることもできず、現実には存在しない、この漠然とした神である。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のせいではなく、ましてや天の神のせいでもなく、人間が想像で思い描く神のせいである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人類のためであって、神自身の益のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもとから持つもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人類のために行うこと、人類のために犠牲にすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人類のためである。受肉した神の働きには想像を絶する困難が数多く伴うが、それが最終的に上げる成果は、霊が直接行う働きの成果をはるかに超える。肉体による働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分を持たないし、受肉した神は霊のような超自然的な業を行えず、ましてや霊と同じ権威など有していない。しかし、この平凡な肉の行う働きの実質は、霊が直接行う働きの実質をはるかに上回る。そしてこの肉自体が、全人類の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉のそれよりはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きは、神が接するすべての人とより効果的に結びつく。そのうえ、触れることのできる形を持つ神の肉体は、人間に理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識をいっそう深めることができ、神の実際の業の深い印象を残すことができる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかし、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊富な知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間は神の働きの知恵を直に経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要はない。これが受肉した神の働きの正確さと本物の価値である。霊は、人間の目に見えず、想像し難いことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなどである。しかし、頭脳を有する人間にとって、こうしたものは何ら明瞭な意味を持たない。こうしたものは感動や、漠然とした意味しかもたらさず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りしながら歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、ましてや推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きに取って代わることができない。肉の働きは、霊の働きよりもはるかに正確な、必要とされる目標と、ずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与える働き、そして見て触ることのできる働きである。現実的な働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間を堕落した邪悪な性質から救える。それを成し遂げられるのは受肉した神だけであり、受肉した神だけが、人間をかつての堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に本来備わる実質だが、こうした働きは受肉した神の肉体にしかできない。霊が単独で働きを行なうとすれば、その働きが効果を上げることは不可能だろう――これは明確な事実である。大方の人は、この肉体の故に神の敵になっているが、神が働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけでなく、逆に神の証人となる。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神から切り離すことのできない証人になる。神は肉体における働きの重要性を人間に知らしめる。そして人間は、人間の存在意義にとってこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長に対するその本当の価値を知り、さらにこの肉体が、人間にとって離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神の肉体は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の実際の地位と相容れないものと思われるだろう。しかし、神の真の姿や身分を持たないこの肉体は、神の霊が直接行うことのできない働きを行える。それが神の受肉の真の意味と価値であり、この意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。人類はみな神の霊を仰ぎ、神の肉体を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関係なく、この肉体の真の意味と価値は霊のそれをはるかに上回る。もちろん、これは堕落した人類だけに関連することである。真理を求め、神の出現を待ち望むすべての人にとって、霊の働きは感動や啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、そして、それは偉大で、超越的で、崇めるべきものだが、誰にも達成できず手に入れることのできないものだという感覚しか与えられない。人間と神の霊は、両者のあいだに遠い隔たりがあるかのように、互いを遠くから見ることしかできない。また、人間と神が目に見えない境界で隔てられているかのように、似ることが決してない。実際のところ、これは霊から人間に与えられた幻影である。なぜなら、霊と人間は種類を異にしており、同じ世界で共存することは決してなく、霊には人間的な要素が何もないからである。だから、人間は霊を必要としない。霊には、人間に最も必要な働きを直接行うことができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的で、正常で、謙虚で、普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を畏れているかもしれないが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすく、また遠くの不可思議な存在ではなく、見て触れることができる存在だと感じられる。なぜなら、この肉体は人間と同じ世界にあるからである。

肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには追い求めるべき目標が必要であり、また神を知るには、神の本当の業と神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した肉体でのみ可能なことであり、いずれも普通の現実の肉体でのみ成し遂げられる。だからこそ受肉が必要なのであり、堕落した全人類がこれを必要としている。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の姿を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずはその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の姿を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られない。人々の心にある漠然とした神の姿を言葉だけで暴いたり、捨て去ったり、一掃したりすることはできない。そうしたところで、これら深く根付いているものを人々から消し去るのは不可能だろう。そうした漠然とした超自然的なものを、実際の神と神の真の姿によって置き換え、人々にそれらを徐々に知らしめることでのみ、目指すべき成果が得られる。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであることに気づく。この成果を上げられるのは、霊による直接の導きではなく、ましてや特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が正式に働きを行うとき、人間の観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然的な神とは正反対なものだからだ。人間が本来持つ観念は、受肉した神と対比して初めて明らかになる。受肉した神と比較しなければ、人間の観念が明らかになることはない。言い換えれば、現実を引き立て役としなければ、漠然とした物事は明らかにならないのである。言葉によってこの働きを行える者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者も誰一人いない。神の働きを行えるのは神自身だけであって、他の誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がいかに豊かだろうと、神の現実性と正常さを言い表すことはできない。神が人間のあいだで自ら働き、自分の姿と実在とを完全に示して初めて、人間はより実際的に神を知ることができ、よりはっきり神を見ることができる。肉体を持つ人間には、この成果を上げることができない。もちろん、神の霊もまた、この成果を上げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救えるが、この働きは、神の霊が直接成し遂げることのできないものである。そうではなく、神の霊がまとう人間の肉体、そして受肉した神の肉体だけが成し遂げられるのだ。この肉体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備える一人の人間だが、完全な神性を備えた神でもある。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、やはり人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。結局、どのような名で呼ばれようと、それはやはり人類を救う神そのものなのである。神の霊は肉体から切り離すことができず、肉の働きは神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊の身分を用いて行われるのではなく、肉体の身分を用いて行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、肉体が行う必要のある働きは、霊には直接できないものであり、受肉した神だけが可能である。これがこの働きに必要なことであり、また堕落した人間が必要とすることである。神の働きの三段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接行うことはない。霊が行った律法の時代の働きは、人間の堕落した性質を変えることを伴わず、神に関する人間の認識と何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代における、受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにとって重要かつ不可欠な一部である。ゆえに堕落した人間には、受肉した神による救い、受肉した神の直接的な働きのほうが必要なのである。人間は、受肉した神による牧養、支え、潤し、滋養、裁き、そして刑罰を必要としており、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要である。受肉した神だけが人間の心を知る者となり、牧者となり、現実に存在する助けとなれる。そのすべてが、現在と過去の両方において受肉が必要とされる所以である。

人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物の中で最高のものである。そのため、人間は神の救いを必要としている。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉体、人間の魂であって、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神の救いの対象である。人間の肉体はサタンによって堕落させられているので、まず人間の肉体が救われなければならない。人間の肉体は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっており、公然と神に敵対し、神の存在を否定するまでになっている。この堕落した肉体はまったく手に負えず、肉体の堕落した性質以上に取り扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の肉体に入って混乱させ、人間の肉体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。そのため、神はなそうと意図した働きを行い、サタンと戦うべく、挑戦に立ち上がり、受肉したのだ。神の目的は堕落させられてしまった人間の救いと、自分に反抗するサタンを打ち負かし、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人類を救う。したがって、それは二つの目的を一度に果たす働きである。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において引き受ける。人間とよりよく交わり、人間をよりよく征服するためである。神の最後の受肉において、神による終わりの日の働きは肉において完結する。すべての人間を種類ごとに分け、自身の経営全体を完結させ、また肉における働きもすべて終わらせる。地上での働きがすべて終わると、神は完全に勝利する。神は肉において働きを行いつつ、人類を完全に征服し、自分のものとしている。これは、神による経営がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利しているので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しだった。そして今、それは人類を征服して完全に自分のものとする働きであり、サタンには働きを行う術がすでになく、完全に敗れ、神が完全に勝利する。これが肉の働きであり、神自身が行う働きである。神による三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったものであり、肉によるものではなかった。しかし、神による働きの三段階のうち、最後の働きは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。経営の働き全体を通して最も重要な働きは、人間をサタンの影響から救うことである。主要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への畏敬の念を回復し、正常な生き方を送れるようにする。つまり、神の被造物としての正常な生き方である。この働きこそが最も重要で、経営の働きの核心である。三段階にわたる救いの働きのうち、最初の段階である律法の時代の働きは、経営の働きの核心から遠いものだった。それは救いの働きをわずかに表したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う神の働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったから、律法の時代の働きには、人間の性質の変化がほとんど関わっておらず、人間をサタンの領域からいかに救うかという働きとは、さらに関係がなかったからである。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関係ない段階の働きを終わらせた。この段階の働きは、経営の核心とはほとんど無関係で、人間の救いという正式の働きともあまり関係がなかった。ゆえに、神が受肉して自ら働く必要はなかった。霊の働きはさりげなく行われ、測り難いものであり、人間にとっては非常に恐ろしく、近寄り難いものである。霊は救いの働きを直接行うのに適していないし、人間に直接いのちを施すのにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることであり、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きを行うということである。これには、神が受肉して霊に取って代わり、働きを行うことが必要であり、人間にとって、神が働くのにこれ以上ふさわしい方法はない。これら三段階の働きの中で、二つの段階は肉体によって行われたが、その二つの段階は経営の働きの中の肝要な部分である。二度の受肉はそれぞれ補い合うもので、互いを完全に補完する。神による受肉の第一段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、神の二度の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は経営の働き全体にとってまことに重要なものなので、神が受肉した身分においてこの二段階を実行する。こう言ってもいいだろう――神による二度の受肉の働きがなければ、経営の働き全体が停止し、人類を救う働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要かどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実、サタンの不服従のひどさ、およびサタンによる働きの妨害の深刻さに左右される。この任務にふさわしい者は、その働き手が行う働きの性質と、その働きの重要性によって決まる。この働きの重要性という点で言えば、どのような方法を用いるか、つまり神の霊が直接働きを行うか、それとも受肉した神が行うか、あるいは人間を通して行うかという観点から見て、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通して行う方法である。また働きの性質という点では、霊による働きの性質と肉の働きの性質を比べたとき、霊によって直接なされる働きよりも、肉によってなされる働きのほうが、人間にとってより有益で、多くの利点をもたらすと、最終的に判断される。霊と肉のどちらによって働きを行うべきか決める際、神はこのように考えたのである。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、恣意的に行われるものでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神によるすべての働きの背後にある真実である。とりわけ、受肉した神が自ら人間のあいだで働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そのため、神の知恵と神の存在全体があらゆる行為、考え、および働きの構想に反映されている。これがより具体的かつ体系的な神のありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間にとって想像し難く、信じることも難しく、またそれ以上に、知ることが困難である。人間による働きは一般的な原則に沿って行われ、それは人間にとって極めて満足のゆくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは壮大な規模を誇っているが、その陰には、人間には想像もできない数多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階は原則に沿って行われるだけでなく、人間の言語では表現できないことが数多く含まれている。そしてそれらは、人間には見えないものである。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働くとき、そこには神の目標がある。また神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変えるとき)、そこにはさらに多くの神の目標がある。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなければ、卑しく見なされ迫害される人に、どうして進んでなるだろう。

受肉した神の働きはこの上なく有意義である。それは働きについて語られ、最終的に働きを完結させるのは受肉した神であって霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人残すことなく人類全体を自ら裁き、一人ひとり試みると信じる人がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人ひとり裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。人類の堕落はどれも同じではないか。人類の実質はすべて同じではないか。裁かれるのは人間の堕落した実質、サタンのせいで堕落した人間の実質、そして人間のあらゆる罪である。神は些細で取るに足らない人間の過ちを裁かない。裁きの働きは代表的なものであり、特定の誰かのために行われるものではない。そうではなく、この働きでは、一群の人々が全人類を代表して裁きを受ける。受肉した神は一群の人々に自ら働きかけることにより、自身の働きを用いて人類全体の働きを代表し、その後、その働きは徐々に広まる。裁きの働きもそのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、人類全体の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害などである。裁かれるのは人類による神への敵対の実質であって、この働きが終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に行われる大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が着想したものだが、受肉した神が現在行っている働きこそまさに、大きな白い玉座の前での裁きなのである。今日の受肉した神は、終わりの日に人類全体を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そして性質全体が神の総体である。受肉した神による働きの範囲は限られているし、宇宙全体に直接関わるものではないが、裁きの働きの実質は、全人類に対する直接の裁きであって、中国の選民のためだけでも、少数の人のためでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表しており、受肉した肉体による働きの範囲内でその働きを終えた後、神は直ちにこの働きを宇宙全体に広める。それはちょうど、イエスの福音が彼の復活と昇天の後、全宇宙に広まったのと同じである。霊の働きであろうと、あるいは肉の働きであろうと、それは限られた範囲内で実行される働きだが、宇宙全体への働きを代表している。終わりの日、神は受肉した身分において現れ、それによって自身の働きを行うが、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神である。霊であるか肉体であるかにかかわらず、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人類を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたことであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうした言葉について観念を抱いているが、受肉した神が全人類を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう考えようと、事実は結局のところ事実である。「働きは神によってなされるが、その肉体は神ではない」とは誰も言えない。これは戯言に過ぎない。この働きは、受肉した神以外にはできないからである。この働きはすでに完了しているのだから、それに続き、神による人間の裁きの働きが再度出現することはあり得ない。二度目に受肉した神は経営全体の働きをすでにすべて完結させており、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、すなわち肉体を持つ堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではないのだから、裁きの働きは霊の世界ではなく、人間のあいだで行われる。人間の肉体の堕落を裁くことについては、受肉した神以上にふさわしい者はおらず、その資格がある者も神以外にいない。仮に神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないだろう。そのうえ、そうした働きは、人間にとって受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができないからであり、そのため効果は即座に上がらず、まして人間が神の侵しがたい性質をより明確に見ることはできないだろう。受肉した神が人類の堕落を裁かなければ、サタンを完全に打ち負かすことはできない。受肉して普通の人間性を備えた神は、人間の不義を直接裁くことができる。これが神本来の聖さと非凡さのしるしである。人間を裁く資格は神だけにあり、また神はその地位にいる。神には真理と義があり、ゆえに人間を裁くことができるからである。真理と義のない者は、他人を裁くのにふさわしくない。この働きが神の霊によって行われたなら、サタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉体に優る。仮にこの働きを霊が直接行ったならば、人間の不服従を残らず裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた、神に関する人間の観念を通して行われ、人間は霊について何の観念も抱いたことがないからである。そのため霊は、人間の不義をよりよく暴くことができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らないすべての者の敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人類のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、全人類の裁きは霊が直接行うのではなく、受肉した神の働きなのである。受肉した神は、人間が目で見て触れることができる。また、受肉した神は人間を完全に征服できる。人間は受肉した神との関係の中で、敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして拒絶から愛へと進化する。これが受肉した神による働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることでのみ救われ、また神の口から出る言葉を通してのみ、徐々に神を知るようになり、神に敵対しているあいだに神に征服され、神の刑罰を受けているあいだにいのちの糧を受ける。この働きはどれも受肉した神の働きであって、霊としての身分を持つ神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深遠な働きであり、神による三段階の働きの中で最も大事な部分は、二段階にわたる受肉による働きである。人間の甚だしい堕落は、受肉した神の働きにとって大きな障害である。とりわけ、終わりの日の人々に対する働きは極めて困難で、その環境は敵意に満ちており、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、滞りなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神による三段階の働きは、肉において完結する。そしてそれらは、受肉した神によって完結しなければならない。最も重要かつ肝要な働きは肉においてなされ、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人類はみな、受肉した神は人間と関係なさそうだと感じているが、実際には、この肉体こそが、人類全体の運命と存在に関わっているのだ。

神の働きのどの段階も人間のために実行され、いずれも全人類を対象とする。それは肉における神の働きだが、それでも全人類を対象とする。神は全人類の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは範囲が限られており、この働きの目的も限られているが、神は働きを行うために受肉するたび、自身の働きの対象として極めて代表的なものを選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉における働きの代表となれる人々の集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神の肉における働きの範囲が限られているからであり、神の受肉した肉体のために特に用意され、神の肉における働きのために特に選ばれる。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則に沿ってなされる。働きの対象は、肉における神の働きに有益なものでなければならず、人類全体を代表できなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自身による贖いを受け入れる中で、人類全体を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け入れる中で、人類全体を代表できる。ユダヤ人が人類全体を代表したことには根拠があり、中国人が神自身による征服を受け入れる中で人類全体を代表することにも根拠がある。ユダヤ人のあいだで行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人のあいだでなされる征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の人々の集団にだけ向けられているように見えるが、実際は、この小集団のあいだにおける神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものである。肉における神の働きが終わった後、神に付き従う人々は、自分たちのあいだで神が行った働きを広め始める。肉における神の働きで最もよい点は、神に付き従う人々に正確な言葉と勧告、そして人類に対する具体的な旨を残せることであり、ゆえにその後、神の信者はこの道を受け入れる人に対し、肉における神のすべての働きと全人類への旨をより正確に、より具体的に伝えることができる。受肉した神による人間のあいだでの働きだけが、神が人間と共に存在し、共に生活する事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きを目撃したい、神自身の言葉を聞きたいという人間の願望を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人類に示された時代を終わらせ、また、人類による漠然とした神への信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な美しい時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけでなく、さらに重要なこととして、現実的かつ正常な神、義にして聖い神、経営計画の働きを明らかにする神、奥義と人類の終着点を示す神、人類を創り、経営の働きを終わらせる神、そして数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにする。神は漠然の時代を完全に終わらせ、人類全体が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、人類全体がサタンに仕えた時代を終わらせ、全人類をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな、受肉した神が神の霊の代わって行った働きの結果である。神が肉において働くとき、神に付き従う者たちは、存在するように見えると同時に存在しないように見えるものを、それ以上求めて手探りせず、漠然とした神の旨を推測することをやめる。神が肉における働きを広めるとき、神に付き従う人々は、神が肉において行った働きをすべての宗教、すべての教派に伝え、神のすべての言葉を全人類の耳に伝える。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実であり、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、そして事実であって、噂ではない。これらの事実は、神が働きを広める証拠であり、働きを広めるために用いる道具でもある。事実がなければ、神の福音はすべての国、あらゆる場所に伝わらない。事実がなく人間の想像だけであれば、神は決して宇宙全体を征服する働きを行えない。霊は、人間には触れることも見ることもできないものであり、また霊の働きは、神の働きのさらなる証拠や事実を人間に残せない。人間は決して神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じるだろう。人間は決して神の顔を見ないし、神自身が語る言葉を聞くこともない。結局、人間の想像など虚しく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、そして神自身の働きを、人間が真似ることはできない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が人間のあいだで自ら働いて初めて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法によって人間は神を見て、神の真の顔を知るようになる。そして、これは受肉していない神には不可能なことだ。神は自身の働きをすでにこの段階まで実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神自身の肉における働きは、その経営全体の働きをすでに九十パーセント完了させている。この肉体は、神によるすべての働きによき始まりをもたらし、また神によるすべての働きを要約しており、神によるすべての働きを広め、この働きのすべてに最終の周到な補足をした。したがって、別の受肉した神が第四段階の働きを行なうことはなく、第三の受肉した神による不思議な働きも存在しない。

肉における神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表し、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神による最後の受肉の働きが終わったからといって、神の働きが完全に終了したということではない。肉における神の働きは、時代全体を代表するものであって、神が肉において働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代の働きをすべて終え、それからその働きがあらゆるところに広まるということに過ぎない。受肉した神は自身の職分を終えた後、将来の働きを神に付き従う人々に託す。このようにして、神によるその時代全体の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まって初めて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける者たちは、神に用いられる者たちである。人間による働きはみな、受肉した神の職分の中にあり、その範囲を超えることはできない。受肉した神が働きを行うために来ていなければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできないだろう。人間による働きは、人間に可能な本分の範囲内に留まるものであり、神の働きを表すものではない。受肉した神だけが、なすべき働きを完了しに来ることができるのであり、神を除き、神に代わってその働きを行える者は誰一人いない。もちろん、わたしが述べているのは、受肉の働きのことである。この受肉した神は、まず人間の観念に合致しない働きの一段階を行い、その後はさらに別の、人間の観念に合致しない働きを行う。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致せず、それに加え、神は人間の観念に合致しない働きを行うので、人間は神についてますます批判的な見方をするようになる。神はただ、神について無数の観念を抱く人々のあいだで、征服の働きを行う。人間がどのように神を扱おうと、ひとたび神が自身の職分を果たすと、人々はみな神の支配の対象になっている。この働きの事実は、中国人のあいだで反映されるだけではなく、人類全体がいかに征服されるかをも表している。これらの人々になされた成果は、人類全体になされる成果を予告するものであり、神が将来行う働きの成果は、それらの人々に対する成果さえも上回る。肉における神の働きは、鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、不明瞭なものに取り巻かれているものでもない。それは現実かつ実際のものであって、一足す一は二といったような働きである。それはすべての人から隠されているものではなく、誰かを欺くものでもない。人々が見るのは本物の現実的な物事であり、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に追い求める者は、もはや神に関して何の観念も持たない。これは、中国の人々に対する神の働きの成果というだけでなく、人類全体を征服する神の働きの成果を表している。と言うのも、人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、そしてこの肉体にまつわるすべての事柄以上に有益なものはないからである。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体は人類全体を征服し、人類全体を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るにあたり、これ以上に優れた働きはない。人間が行う働きは限られた範囲のものに過ぎないが、神が働きを行うときは、特定の人に語りかけるのではなく、人類全体、そして神の言葉を受け入れるすべての人に語りかける。神が告げる終わりは全人類の終わりであって、特定の人の終わりではない。神は誰かを特別扱いすることも、不当に罰することもせず、人類全体のために働き、彼らに向かって話しかける。したがって、この受肉した神は、すでに人類全体を種類に応じて選り分け、人類全体を裁き、人類全体にふさわしい終着点を整えている。神は働きを中国でのみ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを決意している。神は、言葉を発して一歩一歩采配するのに先立ち、自分の働きが人類全体に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎはしないか。今、神は将来の働きを前もって完了させることが完全に可能である。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲内で行い、その後、人間が尽くすべき本分を尽くすようにさせる。これが、神の働きの原則である。神は一時的に人間と共に生活できるだけで、時代全体の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が自分の働きを前もって予言する神だからである。後に、神は言葉によって人類全体を種類に応じて選り分け、人類は神の言葉に沿って、神の順を追った働きに入る。免れる者は誰一人おらず、誰もがその通りに実践しなければならない。ゆえに将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。

肉における神の働きは、肉において行われなければならない。仮に霊が直接行ったとしても、それでは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くだろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義かどうか、それが何を表すのか、何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものかどうか、また、最高の価値と意義を持つものかどうかを知りたいと願う。神が行う働きは人類全体の救いのため、サタンを打ち負かすため、そして万物のあいだで自身の証しをするためになされる。したがって、神が行う働きには大きな意義があるはずだ。人間の肉体はサタンによって堕落させられており、何も見えなくさせられていて、まことに深く傷つけられた。神が自ら肉において働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉体を持つ人間であり、サタンもまた人間の肉体を用いて神の働きを妨げているからである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉体を堕落させ、人間はサタンの化身となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければならない。この働きは極めて実際的なものである。神が肉において働いているとき、実際は肉においてサタンと戦っている。肉において働くとき、神は霊の領域で働きを行っており、霊の領域における働き全体を地上で現実のものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの化身(もちろん、これも人間である)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形を持つ人間になることがますます必要であり、それによってサタンと真の戦いを繰り広げること、神に対して不服従で、神と同じ外形を持つ人間を征服すること、そして神と同じ外形を持ち、サタンによって傷つけられた人間を救うことができる。神の敵は人間であり、神の征服の対象は人間であり、神の救いの対象も神の被造物たる人間である。そのため、神は人間にならなければならない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなる。神はサタンに勝利し、人類を征服し、そのうえ、人類を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は人間に過ぎない肉体ではなく、人間でありながら神性を有する肉体なのだ。これが神と人間との違いであり、神の身分のしるしである。神が意図する働きを行い、肉における神の職分を果たし、人間のあいだで働きを完全に成し遂げられるのは、このような肉体だけである。そうでなければ、神による人間のあいだでの働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利を収めることができても、それでは堕落した人間の古い本性は決して解消されないし、神に不服従で敵対する者たちが神の支配に心から服従することもあり得ない。つまり、神は決して人類を征服できず、人類全体を得られないということである。地上における神の働きが完了しなければ、神の経営は決して終わらず、人類も誰一人安息に入れない。神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営の働きに成果はなく、結果として神の栄光が消えてしまう。神の肉体には何の権威もないが、神が行う働きは成果を上げることになる。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神自身の働きを遂行できるなら、それは神自身である。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がなすべき働きを行えるのは、この肉体が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉体が人間にはできない働きを行えるのは、その内なる実質が人間のそれと異なっているためであり、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからである。この肉体が人類にとって極めて重要なのは、それが人間で、またそれ以上に神であり、通常の人間にはできない働きを行うことができ、地上で共に暮らす堕落した人間を救うことができるからである。神は人間と同じ外見を持つが、受肉した神はいかなる重要人物よりも人間にとって重要である。それは、神の霊には不可能な働きを行い、神自身について神の霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人類を得ることができるからだ。その結果、この肉体は普通で平凡であっても、その人類への貢献と、人類の存在に対する意義により、極めて尊いものとなる。そしてこの肉体の真の価値と意味は、誰にとっても計り知れないものである。この肉体は直接サタンを滅ぼせないが、神は自身の働きによって、人類を征服してサタンを打ち負かし、完全に支配下に置くことができる。神がサタンを打ち負かして人類を救えるのは、受肉したからである。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、その代わりに肉となり、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きを行う。このようにして、神は自身の被造物のあいだで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、自身の被造物のあいだでよりよく自分自身を証しできる。

神の出現と働き(『言葉』I)

前へ: 4. 神は終わりの日に裁きの働きをするためになぜ人を使わないのか。なぜ神自らが受肉し裁きの働きを行わなければならないのか。

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