地位を捨てることの難しさ

リーチュン 中国

わたしは農家に生まれましたが幼いころに両親を失い、兄と頼り合いながら暮らさざるを得ませんでした。わたしたちはとても貧しく、他の人たちに見下されていましたが、わたしは「学校に行って、いつかみんなと肩を並べて追い越そう」と考えたものです。しかし残念なことに、わたしたちにはお金がなかったので、高校二年で中退せざるを得ませんでした。みんなと肩を並べて追い越すという夢ははかなく消えてしまい、わたしは完全に打ちひしがれました。

1990年、わたしは主イエスへの信仰を見つけました。説教師いわく、わたしたちは主を信じることで、現世で平安を見出せるだけでなく、来世で永遠のいのちを得るとのこと。また、福音を広めることでより多くの人が改宗すればするほど、わたしたちは祝福され、報酬と冠を受け取って神と共に王として君臨するとも言いました。そのころ、わたしは聖書のこの聖句を読みました。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(テモテへの第二の手紙 4:7-8)。そこでわたしは家族を捨て、神のために福音を広めることにしました。当時はやる気にあふれ、1年もしないうちに数百もの人たちを改宗させました。改宗する人の数が増える中、わたしたちは1997年までに数百もの教会を築き、そこには3万名以上が属していました。教会に関することはすべてわたしに決定権があり、どの教会へ働きをしに行っても、兄弟姉妹はいつも尊敬のまなざしでわたしを出迎え、行きたいところがあればどこにでも連れて行ってくれました。出される食事も泊まる場所も素晴らしく、そのうえ旅費まで相手持ちです。わたしはそうしたことを楽しむようになりました。

ある日のこと、上層の指導者がわたしたちをある集会に出席させた上で、東方閃電と呼ばれる教派が存在し、主イエスが全能神として戻られたと宣べ伝えており、彼らの説教はとても高尚なものだと言いました。そのため多くの善良な会衆が彼らに奪われ、わたしたちの教会の同労者、ワン兄弟とウー兄弟までもが東方閃電を受け入れたとのことです。指導者はわたしたちに対し、その兄弟2人を完全に拒絶するよう求めるとともに、東方閃電の説教に耳を傾けている人物が他にもいれば、その人もすぐ追放するようにと言いました。わたしはそれを聞いて驚きました。その兄弟2人のことはよく知っていますし、いずれも聖書に精通しており、心から主イエスを信じています。どうして東方閃電を受け入れたのか、まるで理解できません。年の瀬も近づいたころ、驚いたことにその2人が我が家を訪れました。わたしは玄関の扉を開く前に、かなりためらいました。わたしを惑わしに来たのではないかと不安だったのです。しかし、こう思い直しました。「いずれにせよ、自分は主を信じているし、2人の兄弟を門前払いするわけにはいかない」。そこで2人を中に招き入れました。彼らはまず、主をお迎えするには神の御声を聞くことに集中しなければならず、惑わされることへの不安から、真の道を求めたり調べたりするのを拒んではいけないと言いました。その上で、神の御声を聞く賢い乙女になるにはどうすればいいか、真の道と偽りの道を見分けるにはどうすればいいかを詳しく説きました。2人の言うことは新鮮で、光に満ちているとわたしは思い、完全に納得しました。立ち去り際、2人はわたしに1冊の本を手渡しました。そして、この本には全能神の発する言葉が収められているので、これを読んで主をお迎えする機会を逃さないようにと言いました。2人が去ったあと、わたしは不安を感じ始めました。自分は惑わされてしまったのではないか。あの兄弟2人を我が家に招き入れたことが上層の指導者に知られたら、教会を追放されてしまうのではないか。しかしそのとき、こう思いました。「全能神が本当に再臨された主イエスで、追放されることを恐れてそれを調べなければ、神を拒み、神に抵抗する人にならないか?」。そう考えたわたしはその場ですぐ、全能神による終わりの日の働きを調べてみることにしました。

それ以降、わたしは全能神の御言葉を毎日読みました。その一方、兄弟2人はわたしに対し、人類を救う神の3段階の働き、神の受肉の奥義、神が終わりの日の裁きの働きで人を清めて救い、時代を終わらせる方法、そしてキリストの国が地上でいかに実現するかなどについて交わってくれました。主を信じるようになってからかなりの年月が経ちますが、そのようなことを聞いたのは初めてで、聞けば聞くほど、全能神の御言葉には権威と力があるように思われました。全能神こそ再臨された主イエスで、自分はそれを調べなければとますます感じたのです。ただ、心の中ではいつも葛藤していました。牧師や長老は以前からずっと東方閃電を非難しており、わたしも彼らに同調して、教会をできる限り固く閉ざし、東方閃電との接触を一切許しませんでしたし、東方閃電の道を受け入れた人は誰であっても追放していました。そんな自分が東方閃電を受け入れたら、わたしの下にいる3万人の信者はどう思うでしょうか? その人たちが全員わたしに従って東方閃電を受け入れれば、それは素晴らしいことでしょうが、そうならなければわたしは拒絶されるはずです。どんな天気でも外に出かけ、昼夜を問わず教えを宣べ伝えて必死に働いたこと、共産党に追われる危険を犯したこと、そして血と汗と涙で教会を築いたことを振り返りました。いまの立場に上り詰め、大勢の人にこれほど尊敬されるまで、自分は多くのことを犠牲にした――それをこんな簡単に投げ捨てられるだろうか? それに、教会でわたしの下にいる人がみんな全能神を受け入れたとしたら、それでもわたしは彼らの指導者でいられるだろうか? しかしそのとき、こう考えました。「全能神は本当に再臨された主イエスなのに、わたしがそれを受け入れなければ、主をお迎えする機会を逃すのではないか?」。心の中でそれを何度も考えましたが、どうすべきか決心がつきません。まさにそのとき、全能神の御言葉を聞いた妻が興奮も露わに駆け込んできて、こう言ったのです。「全能神の御言葉を聞いたんだけど、神の御声に違いないわ。全能神が本当に再臨された主イエスなら、すぐにそれを調べて受け入れなきゃ」。わたしは苛立ちを覚えながらこう返事しました。「それはわかってるが、そんなに単純なことじゃない。指導者と同労者は教会を固く閉ざし、東方閃電のことを調べるのを誰にも許していない。彼らの道を受け入れたら、きっとみんなに拒絶される」。しかし、妻はそれを聞いて怒りだしてこう言ったのです。「長年主を信じてきたのは何のため? 主がいらっしゃるのを待ち望んでいたんじゃないの? そうすれば天国に引き上げていただけるって。主はもう戻られたんだから、たとえ指導者でなくても、神の働きを受け入れて主をお迎えしなきゃ!」。わたしはその通りだと答えましたが、心の中ではこう思っていました。「それは女性の単純な考えだ。自分は3万もの人のことを考えなければならない。注意深く進まなければならないんだ。それについてはもっと考える必要がある」。それから東方閃電を受け入れることなく、何ヵ月もの時間が流れました。その間、全能神教会の兄弟姉妹がしばしばわたしを訪ね、辛抱強く交わりをしてくれたので、これは本当に神の働きだと心の中ではっきり感じるようになりましたが、自分の地位を諦められないせいで、それを受け入れようとはしませんでした。しばらくすると、兄弟姉妹もわたしの状態に気づきました。そしてある日、バイ兄弟それにソン兄弟と集会を開いていたところ、ソン兄弟が自分の経験を話してくれたのです。彼も以前は教会指導者で、数十の教会を担当していたとのこと。ある人に福音を伝えられたあと、全能神の御言葉を読むことで、全能神こそ再臨された主イエスだと確信したものの、現実にそれを受け入れる段になると、こう思い直したそうです。「全能神を受け入れたら、それでも指導者でいられるだろうか? 大勢の人間を率いることができるだろうか?」。そして『マタイによる福音書』21章33~41節にある、悪しき農夫についての主イエスのたとえ話を思い出したのです。「ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。彼らはイエスに言った、『悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう』」。そしてソン兄弟は、自責の念を強く感じていると言いました。主はわたしにご自身の会衆を託されたのに、主がお戻りになったいま、自分は兄弟姉妹を導いて主をお迎えするどころか、主の会衆を我が物にして主を拒絶しようとしている。自分はあの悪しき農夫たちと一緒で、主に逆らう悪しき僕だ。そして、彼は自分にこう問いました。「わたしは指導者になれるようにと、神を信じていたのか? 地位と暮らしのためなのか? 自分は本当に神の信者なのか?」。そうしたことを考えると強い後悔を覚え、そこで神に告白して悔い改め、全能神を受け入れた上で、自分の下にいる兄弟姉妹全員に福音を広めたのです。その交わりを聞いて、わたしは恥ずかしくなり、同時に動揺しました。全能神の働きが本当に神の働きだとわかっていながら、自分の地位を守るため、ぐずぐずしてそれを受け入れようとしなかった。しかも、兄弟姉妹がそれを調べるのも許さず、神の羊を神に引き渡すのを拒んだ。自分は悪しき僕で、きっと呪われ懲罰される!しかし、自分が教会を固く閉ざしたため、教会の誰一人として全能神による終わりの日の働きを受け入れていないことを考えると、こう思いました。「もし受け入れたら、自分の足を撃つことにならないか? どうしてみんなに顔向けできるだろう? 全能神による終わりの日の働きを受け入れたことを知られたら、教会のみんなは間違いなくわたしを憎んで拒み、自分には何も残らないはずだ」。それで、受け入れないのが一番いいと判断しました。

数日後に兄弟二人と開いた集会で、わたしは自分の懸念を伝えました。そのときはとてもずる賢く、要点に触れるのを避けてこう訊いたのです。「わたしに導かれている人たちが全能神を信じるようになったら、誰が彼らを導くのでしょう? いまと同じ指導者と同労者たちですか?」。その真意はこうです。「彼らを導き、管理するのはやはり自分でなければ」。しかしバイ兄弟が次のように答え、わたしを驚かせました。「全能神による終わりの日の働きを受け入れたあと、わたしたちを導き、潤し、牧すのは神自身です。わたしたちの教会では、キリストと真理が実権を握っています。だから教会指導者の選挙では、真理を理解して現実を自分のものにしている人、兄弟姉妹を潤し、彼らの実際の問題を解決できる人が選ばれます」。そしてこう続けました。「あなたも真理を追い求めれば、指導者に選ばれるでしょう。教会には様々な種類の本分があります。指導者や福音伝道師など、一人ひとりにそれぞれの役割があるんです。本分について言えば、『重要』や『つまらない』、あるいは『立派』や『立派でない』といった区別はありません。なぜなら、神の御前では誰もが平等だからであって、これが宗教界の各教派とはまったく違うところです」。バイ兄弟の話を聞けば訊くほど意気消沈してしまい、しまいにうなだれ、「そうなったら、こんなに多くの人を率いるなんて二度と無理だろうな」と思いました。

するとわたしの思いに気づいたソン兄弟が、ニネベの王の経験について交わってくれました。「ニネベの王は国の支配者でした。ヨナが神の御言葉を宣べ伝え、ニネベはいずれ滅ぼされると言うのを聞いた王は、玉座から下り、民全体を導いた上で、彼らが荒布をまとって灰の中に座し、ひざまずいて神に告白し、悔い改めるようにさせました。神は彼らを憐れみ、かくしてニネベは災いを免れました」。そしてこう続けます。「あなたは教会指導者なのですから、主の到来という大事件に直面しているいま、ニネベの王にならって兄弟姉妹を導き、神に告白して悔い改めさせるべきではないのですか?」。その言葉にわたしは深く心を動かされました。そのとおりです。ニネベの王は国の支配者。かくも高い地位にいる人が自ら謙虚になり、神に告白して悔い改めることができたなら、どうしてわたしが自分の地位を捨て、神による終わりの日の働きを受け入れられないというのでしょう? すると、ソン兄弟が話を続けました。「主イエスが働きをなさったとき、パリサイ人は自分の地位と暮らしを守ろうとし、そのため主イエスに逆らって断罪し、信徒を自分の支配下に置くことしかできなかったのです。主イエスはこう言って彼らを叱責なさいました。『偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない(マタイによる福音書21:13)」。そしてこう続けます。「終わりの日に神が真理を表わし、裁きの働きをなさるのは、天国が到来した福音なんです。最初、あなたはご自分が耳にした嘘を信じ、宗教界の指導者に同調して教会を閉ざし、兄弟姉妹が神による終わりの日の働きを受け入れるのを妨げました。そうする中で、あなたは神に逆らったんです。そしていま、あなたは全能神の御言葉を読み、全能神こそ再臨された主イエスだという結論に至りました。あくまで神の御言葉を受け入れることも、兄弟姉妹に主の再臨の知らせを伝えることもせず、彼らを天国から締め出してしまうなら、あなたはそうと知りながら悪事を行ない、またしても過ちを犯すことになるんですよ。それは神に対する重大な悪行です! わたしたちが邪魔したせいで兄弟姉妹が救いの機会を失ってしまえば、それは血債になります! たとえ何度も死んだところで、その負債を返済することはできません。しかし、兄弟姉妹を神の御前に導けば、その人たちはあなたを恨まないだけでなく、天国の福音と永遠のいのちの道を分け与えてくれたと、あなたに感謝するでしょう」。

そしてバイ兄弟が、神の御言葉を二節読んでくれました。「神が肉になり、人の間で働くようになると、すべての人が神を見、神の言葉を聞き、神がその肉体の内側から為す業を見る。そのとき、人の観念はすべて泡となる。神が肉に現われるのを見た人は、喜んで神に従うならば断罪されることはないが、意図的に神に敵対する人は神の反対者とみなされる。そのような人は反キリストであり、故意に神に対抗する敵である(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)。「荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)。バイ兄弟が読むこれらの御言葉を聞いて、わたしは心苦しくなりました。顔を平手打ちされたような気分で、顔が真っ赤になりました。穴があったら入りたいとはこのことです。主イエスがお戻りになり、多くの真理を表わすとともに、人を裁いて清める働きをなさっていることを、わたしは完全にわかっていました。しかし自分の地位と暮らしを守るため、神による終わりの日の働きを受け入れようとせず、教会を閉ざしました。そのせいで神の羊は神の御声を聞けず、神のもとに立ち返れなかったのです。はるか昔、主イエスに逆らったパリサイ人とどこが違うでしょう? 主イエスはわたしたちの羊飼いであり、その主がいま、ご自身のもとに羊たちを呼び戻すべく再臨なさいました。わたしは神の羊を主にお返ししなければなりません。どうして自分の地位になおもしがみついていられるでしょう? 神の懲罰が降りかかるまで待つということでしょうか? これ以上神に反抗することはできないと、わたしは判断しました。たとえ指導者でなくなってしまい、みんなから拒絶されても、神による終わりの日の働きを受け入れ、兄弟姉妹を神の御前に導き、神の会衆を神にお返ししなければ。そう考えながら、全能神による終わりの日の働きを受け入れ、自分が率いる人たちに福音を宣べ伝えようと決意を固めました。

それからしばらくして、聖霊の導きにより、わたしの教会に所属する1万名以上の人たちが神による終わりの日の働きを受け入れました。神のおかげでようやく神の会衆を御前に導き、深い安心感と安らぎを覚えました。

半年後、各地のさらに多数の人たちが教会に加わったため、各教会を地域ごとに分割し、指導者と働き手を選出することになりました。しかしわたしは傲慢にも、こんな考えを抱いたのです。「教会がどう分割されようと、能力に優れて経験豊富な自分はやはり指導者だ。複数の教会を管理できるし、何の問題もない」。ところが数日後、兄弟2人と集会を開いていたところ、教会指導者が姿を見せてこう言いました。「神の国の福音を広めるときが来ました。他の地域へも福音を広めに行くので、素質に優れて聖書に精通している兄弟姉妹が何名か必要です。これはとても大事な任務ですが、あなたがた3人は行く気がありますか?」2人の兄弟はそうしますと喜んで言いましたが、わたしはさほど嬉しくありませんでした。「自分は長年にわたり、以前の教派で教会を率い、数千の人を任されていた。自分の下にいる一部の同労者が指導者になったのに、いま再び福音の伝道に戻るとは。どうしてみんなに顔向けできるだろう? こんなの屈辱だ!」。そして指導者として仕え、どこに行っても尊敬されて崇められ、自分が欲しいものを何でも提供されていた年月のことを思い出しました。しかしいまは何もなく、再び苦しんで福音を説きに行かなければならない。とても受け入れられない。しかし他の人たちの前で拒むのはあまりに面目ないことなので、わたしは渋々同意し、心の中でこう考えました。「立派に福音を説かなければ。大勢の人を改宗させられれば、引き続き兄弟姉妹に仰ぎ見てもらえる」。そして実際に取りかかると、福音の伝道をしっかりこなし、程なくして400名以上が神による新しい働きを受け入れました。そのときは、どこに行っても兄弟姉妹に心から歓迎され、尊敬されていると感じたものです。地位がもたらす喜びに再び浸り、福音を広める熱意も増すばかりでした。

2000年8月、わたしは福音を広めるべく、リウ兄弟と町の外へ赴きました。リウ兄弟はわたしよりも長く全能神を信じており、真理の交わりも明快です。彼の長所を引き出して自分の短所を補えるのは素晴らしいことだと、わたしは嬉しく思っていました。そんなとき、ある宗教の教派に所属する一団に福音を説きに行きました。彼らは宗教的な観念を述べ立てており、わたしは交わりをしようと思いました。しかし真理の理解が足りないので、助けたくても無理でした。結局、リウ兄弟が穏やかに交わりをして彼らの観念に反論したのですが、それは事実に基づく理知的な話しぶりでした。わたしたちが交わった人たちは最初こそ受け入れませんでしたが、話を聞くにつれ、リウ兄弟の言うことは真実だと納得し始め、最後はうなずくまでになりました。この光景を見たわたしは、リウ兄弟に嫉妬と羨望を感じてこう思いました。「リウ兄弟の交わりは実に明快だ。この調子でいけば、自分は彼の引き立て役に過ぎなくなるし、みんなも彼のほうが優れていると言うだろう。それでは駄目だ! 自分も真理を備え、リウ兄弟をしのがなければ」。帰宅後、福音伝道の真理を身につけようと、わたしは朝から晩まで神の御言葉を読むようになりました。次は福音対象者とどう交わるべきかを突き止め、それによって少なくともリウ兄弟に見劣りしないようにと、食事中でさえもリウ兄弟の交わり方を考えていました。

しかし驚いたことに、あの人たちに再度福音を説きに行ったところ、新たな疑問を持ち出されてしまい、わたしは明快に交わることができませんでした。自分でも何を言っているかわからず、顔から火が出るような感じです。その瞬間、リウ兄弟が急いで話を引き取りました。すると一同は熱心に耳を傾け、時おりうなずき、最後はすべてきちんと理解したのです。一方のわたしは恥をかいただけで、穴があったら入りたい気分になり、こう思いました。「自分はリウ兄弟と一緒に来たのに明快に交われず、何の役にも立たなかった。彼らが問題を解決するには、リウ兄弟の手助けと支えがまだ必要だ。なんて屈辱なんだ!」わたしは威厳を取り戻そうと、リウ兄弟の交わりが一段落した隙にいくつか言葉を差し挟みました。数日後、全員が福音を受け入れたので、心から嬉しく思いましたが、内心では少し落ち込んでいました。彼らが福音を受け入れたのは自分の力でなく、いいところを見せることもできなかった。その後それら新信者と食事をしたのですが、食後にわたしたちの経験を話してくれるよう頼まれたので、わたしはこう思いました。「いつもなら目立つのはリウ兄弟のほうだが、今回は取るに足らない存在だと思われないよう、この機会に自分の経験をしっかり話そう」。そこで以前に行なった働きや耐えてきた苦しみのこと、そして1万名以上の人を神のもとへ導いた経験を長々と大げさに話しました。兄弟姉妹の中には驚いている人もいれば、尊敬のまなざしで見る人、ただじっと耳を傾けている人もいました。わたしは嬉しくなり、胸を張って自信満々に話を続けました。

その日家に帰ったあと、わたしは考えました。「福音伝道になると、自分の真理はとても足りない。これについてリウ兄弟と一緒に探求すべきだろうか?」。しかしそこで思い直しました。「リウ兄弟とこの件について探求するなんて、彼のほうが優れている証明にならないか? そんなことはほっといて、このままこっそり真理を身につけよう。彼に頼むなんて駄目だ」。その後、再び二人で福音を説きに行ったところ、兄弟姉妹はリウ兄弟を温かく出迎え、彼の周りに集まってあれこれ質問しました。わたしはそれを見て心から動揺し、うなだれながら脇に立つばかりでした。「リウ兄弟がこんなに見事な交わりをしている以上、自分がここにいる意味なんてないじゃないか。みんなにとって、僕はどうでもいい存在なのか? 目立つのはいつもリウ兄弟で、このままなら僕は誰にも評価されない」。そのとき、リウ兄弟と一緒に本分を尽くすのはもう嫌だという反抗的な考えが突如浮かびました。そんな考えを抱くようになったあと、リウ兄弟と一緒に福音を説きに出向こうとするたび、体調が悪いからここに残りたいなどと、言い訳をするようになりました。一緒に出かけることがあってもわたしは交わりをせず、誰かに質問されて初めて、渋々短い交わりをしたのです。リウ兄弟と協力する気などありませんでした。結局、わたしたちは2ヵ月以上にわたって共に働きましたが、わたしは絶えず名声を巡って張り合い、自分の個人的な利益を求めて奮闘していました。ますます暗くてよくない状態になりましたが、それでも悔い改めが頭に浮かぶことはありませんでした。神がわたしを懲らしめられたのはそのときでした。

ある日のこと、福音を広めに中国北東部へ出向くよう言われました。わたしはそれを聞いて大喜びし、こう考えました。「ようやくリウ兄弟と一緒に行動せずに済む。今度は僕が輝く番だ。福音を説いて人々を改宗させられれば、その功績は自分だけのものになる。兄弟姉妹もきっと尊敬のまなざしを向けるだろう」。ところが思いもよらぬことに、現地へ出向く途中、身分証がないという理由でわたしは警察に逮捕されました。逃走中の殺人犯か何かだと思われたのです。どんなに説明を試みても、警察は耳を傾けず、三昼夜にわたってわたしを拷問しました。食事や睡眠はおろか、水を一口飲むことさえ許さず、また口と鼻から出血するまで暴行を加えられたので、両目が腫れ上がって開けられないまでになりました。わたしはぼろぼろになり、何度も気絶しました。死が救済に思えるほどです。心は絶望に沈み、かくも邪悪な悪魔たちを憎みました。警察は徹底的な捜査をせず、証拠も何一つないのに、わたしを残酷に尋問しました。そのとき、わたしはひたすら神に祈り、加護と導きを求めました。すると、これはどれも神のお許しを得て起きているのであり、自分は真理を求め、この事態から教訓を学ばなければならないのだと気づき、「なぜこの事態が自分に降りかかっているのか」と自己反省を始めました。まさにそのとき、神の御言葉の一節が頭に浮かんだのです。「あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉をじっくり考えるにつれ、地位に対する自分の欲望がいかに大きかったかに気づきました。そして、リウ兄弟と一緒に福音を説いていたときのことを考えました。リウ兄弟が優れた交わりを行ない、みんなが彼に尊敬のまなざしを向けているのを見て、自分は嫉妬して彼と張り合い、どちらが優れているか確かめようとした。新信者の前で自分の経験を話すことで、自分を高めて誇示し、みんなから尊敬され、崇められようとした。兄弟姉妹から何の尊敬も得られないと、否定的かつ反抗的になり、リウ兄弟と一緒に行動するのはもう嫌だと考え、型通りに本分を尽くすだけだった。自分は神の証しをするために本分を尽くしていたのでなく、それと引き換えに名声と地位を得ようとしていたのだとわかりました。わたしはあまりに卑劣です! ひたすら名声と個人の利益を追い求め、かくも深く闇に落ちたにもかかわらず、悔い改めが脳裏をよぎることすらありませんでした。何と反抗的なのでしょう! それを考えれば考えるほど自分が憎くなり、そこで神に祈りました。「神よ、わたしは本分を尽くす中でいつも地位を追い求め、名声と利益を巡って争っていました。あなたはどれほどそれを憎まれたことでしょう! いま、あなたはわたしを懲らしめていらっしゃいます。わたしは真剣に自分を反省し、あなたの采配と指揮に従ってまいります。無事に生き延びられれば、自分の地位など脇に捨て、真摯に真理を求めたいと思います」。すると驚いたことに、服従して教訓をいくつか学んだところ、神が慈悲を示してくださいました。警察がシステムからわたしのIDを見つけ、殺人犯でないと気づいてわたしを釈放したのです。

帰宅後、わたしは病院で検査を受けました。すると、右足が骨折し、肋骨も1本折れているとのこと。それから数ヵ月は自宅で療養しつつ、神の御言葉を飲み食いし、自己反省に励みました。そしてある日、神の御言葉の一節を読みました。全能神は言われます。「あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、『わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう』と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす。あなたがたの現在における考え方や見方は、このようなものではないだろうか。『わたしは神を信じているのだから、ひたすら祝福を浴び、地位は決して下がらず、不信者の地位よりも高いと保証されているはずだ』。このような見方があなたがたの中にあるのは、一、二年間のことではなく、長年にわたってである。あなたがたは取引しようという考え方をあまりに発達させている。あなたがたは現在のこの段階まで達したが、依然として地位を捨て去っておらず、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかと深く恐れ、地位について尋ね回り、観察しようと日々奮闘している。人々は安楽への欲求を決して捨て去らなかった。……あなたがたにとって、自分の将来の見込みや終着点を脇にのけるのは難しい。あなたがたは今や信者であり、働きのこの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇にのけていない。自分の地位が高ければしっかり追求するが、地位が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことが常に心の中にあるのだ。大半の人が自分から消極性を取り除けないのはなぜか。その答えは常に、将来の見込みが厳しいせいではないか(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)

また、神の御言葉の賛美歌にも耳を傾けました。「人は肉の中で生きているが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰がなければ、人間はサタンと同様に汚れている。神の刑罰と裁きは人間にとって最高の加護、そして最も素晴らしい恵みであり、人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい懲らしめは、人間をサタンの支配から解放し、自分の狭い世界から解放するとともに、神の臨在が放つ光の中で生きられるようにする。刑罰と裁き以上に優れた救いはない(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の刑罰と裁きは人の救いの光」より)。この賛美歌を聴いていると、涙がこぼれて仕方ありませんでした。神が裁いて懲らしめるのは、人を憎んでいらっしゃるからでなく、人を救おうとされているからだと、わたしはようやく気づきました。名声と地位を追い求めるというわたしの誤った見方を、神は正そうとしてくださったのです。わたしは子どものころから、「出世して先祖に栄誉をもたらす」や「人は上をめざし、水は下に流れる」といったサタンの害毒に頼って生きてきました。機会があるたび他の人たちの上に立とうとし、それを夢見るまでになったのです。主を信じるようになったあとは、犠牲を払って自分を費やしましたが、それはただ兄弟姉妹から尊敬され、崇められるよう、高い地位を得るためでした。キリストの横に並び、王のように支配することさえ望みました。わたしの野心には際限がなかったのです! 全能神の福音を聞いて、主が到来されたことを知ったものの、指導者の地位を諦めきれないせいでそれを受け入れるのを嫌がり、信仰心の篤い人たちを神の御国に入らせない悪しき僕になるところでした。全能神を信じてからの2年間、表面的には指導者の地位に恋々としていないように見えていましたが、心はいまだ名声と地位に支配されていました。兄弟姉妹に尊敬され、崇められると嬉しくなり、本分にも力が入りましたが、彼らの関心がこちらに向かないと、意気消沈して動揺し、本分を尽くすのが嫌になりました。自分が本分を尽くしているのは、真理を追い求めて性質を変えるため、あるいは神に認めていただくためでなく、みんなの上に立って他の人たちに尊敬されるため、自分の野心と欲望を満たすため。厚かましくも神を利用し、神を騙そうとしていたのではないでしょうか? わたしは神に反抗していたのです! そうしたサタンの害毒に頼って生き、ますます傲慢になって、人間性や理知などひとかけらもありませんでした。神の御言葉による裁きと暴き、また神の懲らしめがなければ、わたしはサタンによる堕落の深さにも、地位への欲望の大きさにも気づかなかったでしょう。地位の祝福をさらに追い求め、ますます腐敗し、しまいには神に呪われ、懲罰されていたはずです。神が何をなさろうと、それが裁きであろうと、懲らしめであろうと、刑罰であろうと、あるいは鍛錬であろうと、どれも人類のための救いと愛なのだと、わたしはようやく認識するようになりました。

その後、この神の御言葉を読みました。「人が本来の本分と地位に立ち返ることを要求するというのが、神の観点である。人は神の被造物なのだから、自分の立場を越えて神に要求をしてはならず、ただ神の被造物として本分を尽くすべきなのである(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。「神の被造物である人間も、人の本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうと管理者であろうと、また万物の中で人の地位がどれほど高くても、所詮は神の支配下にある取るに足らない一人の人間、神の被造物に過ぎず、神の上に立つことは決してない。神の被造物である人間は、被造物の本分を尽くすこと、そして他の選択をせずに神を愛することを追い求めねばならない。神こそが人の愛にふさわしいからである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益を求めたり、自分が切望する物事を追求したりしてはならない。これが追求の最も正しい形である。あなたの求めるものが真理であり、実践するものが真理であり、あなたの得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しい。あなたの求めるものが肉の祝福であり、実践するものが自身の観念の中にある真理であり、自分の性質に変化がなく、受肉した神にまったく従わず、いまだ漠然とした状態の中で生きているのであれば、あなたが追い求めるものは必ずや、あなたを地獄へと導く。なぜなら、あなたが歩む道は失敗の道だからである。あなたが完全にされるか淘汰されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するか失敗するかはその人が歩む道にかかっているのだ(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んだあと、被造物である自分は正しい場所を占め、神を愛し、神に従い、自分の堕落した性質を捨て、被造物として立派に本分を尽くさなければならないのだと理解しました。正しい追求はこれしかありません。また、人が救いを得て完全にされるかどうかは、その人に地位があるかどうかとは無関係なのだと気づきました。どのような本分を尽くしていようと、神はその人の誠実さと従順さをご覧になっており、その人が真理を求めているかどうか、いのちの性質が変わったかどうかを確かめようとなさっています。それに気づいたわたしは、神に祈りを捧げました。「この先どのような本分を尽くそうと、また自分に地位があろうとなかろうと、わたしは真摯に真理を追い求め、被造物としての本分を立派に尽くしてまいります」。怪我が回復に向かい、再び福音を広めに出かけられるようになるまで、それから2ヵ月以上かかりました。その間に変わったことと言えば、自分に地位がないとはもはや考えなくなったこと、そして他の人たちと一緒に働くとき、自分が一番になろうとは思わなくなったことです。ただ自分の本分を尽くしていることが、神に引き上げていただいたことの証明だと感じたのです。

それから何年も過ぎ、自分は地位の束縛と足かせから解放されたと思っていました。しかし神が新たな状況を用意なさると、地位への欲望がまたも醜い頭をもたげたのです。それは2012年の冬のことでした。当時、警察は狂ったようにクリスチャンを逮捕しており、とても厳しい時期だったのですが、ある日のこと、指導者と執事の一団がわたしたちの村で集会を開きました。すると、わたしがいくぶん時間を持て余していることを知った指導者の1人が、街頭に立って見張り役を務めてくれないかと頼んできました。わたしはそれを聞いてとても不満でしたが、兄弟姉妹の安全を考えて同意しました。そしてその指導者が去ったあと、心の中でこう考えました。「自分は長年指導者を務め、いつも福音を宣べ伝えていた。見張りなんてつまらない仕事、一般信者を何人か見つけて任せればいいのに。どうして僕がしなければならないんだ? みんながここで集会をしている間、僕は寒さに晒されながら、危険を冒すことになる。これは自分に地位がないせいじゃないか? 指導者だったなら、こんな風に見張りを務める必要なんかないはずだ」。すると突如、地位への欲望が再び悪事を働こうとしていることに気づいたので、急いで神に祈りました。「神よ、わたしはいま、この屈辱的な本分を押しつけられ、地位への欲望がまたも湧き上がっています。神よ、地位に縛られるのはもう嫌です。地位の足かせを捨て去れるよう、どうかわたしをお導きください」。その後、この神の御言葉を読みました。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます(『終わりの日のキリスト講話集』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」)。御言葉を読んだあと、自分はいつも高い地位を求め、他の人たちに尊敬され、崇められることを常に望んでいるのだと気づきました。他の人たちの心の中で位置を得たいと望んでいたわけですが、それは実質的に、他の人たちの心を占領したいということです。わたしは人を巡って神と競っていたのです! 何と傲慢な本性でしょう! パウロがいつも自分を高めて自分の証しをし、他の人たちに自分を尊敬させ、また崇めさせ、そのために「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ人への手紙 1:21)と言ったことを、わたしは考えました。そのせいでほとんどの人が彼を尊敬して崇め、人の心の中で彼の占める地位が、主イエスのそれを上回るまでになりました。そのときわたしが考え、追い求めていたことは、パウロとまったく同じではなかったでしょうか? わたしはまさに、神に逆らう反キリストの道を歩み、神と人を心から嫌悪させ、懲罰に値する存在になっていました。終わりの日、神は人々を清めて救うために真理を表わされますが、わたしは長年にわたる信仰にもかかわらず、真理を追い求めるべく努力することも、神に従い、神を崇める人に変わろうと考えることもありませんでした。その代わり、地位の追求に思考と精力を残らず注ぎ込んだのです。このまま続けていれば、神に呪われ懲罰されるでしょう。自分はなんと馬鹿だったのか!

その後、この神の御言葉を読みました。「人は概して何も誇るべきことがない被造物である。あなたがたは神の被造物なのだから、被造物の本分を尽くさなければならない。あなたがたに要求されていることはそれ以外にない。あなたはこのように祈るべきである。『神よ、わたしに地位があろうとなかろうと、わたしは今や自分を理解しています。わたしの地位が高いのであれば、それはあなたの称揚のためであり、わたしの地位が低いのであれば、それはあなたがそのように定められたからです。すべてはあなたの御手の中にあります。わたしには選択肢も不満も一切ありません。わたしがこの国で、この民のもとに生まれること、そしてわたしが行なうべきことは、ただあなたの支配に完全に服従することであると、あなたは定められました。なぜなら万事はあなたの定めの中にあるからです。わたしは地位を考えません。つまるところ、わたしは一つの被造物でしかないからです。あなたがわたしを底なし穴や、火と硫黄の池に落とされたとしても、わたしは被造物に過ぎません。あなたがわたしを用いられるとしても、わたしは被造物です。あなたがわたしを完全になさっても、わたしはやはり被造物です。あなたがわたしを完全にされなかったとしても、それでもわたしはあなたを愛します。なぜなら、わたしは被造物でしかないからです。わたしは創造主によって造られた極めて小さな被造物、造られたすべての人間の一人でしかありません。わたしを造られたのはあなたであり、そして今、あなたはわたしを再度ご自身の御手に取られ、あなたの御心のままになさってきました。わたしはあなたの道具となり、引き立て役となることをいといません。なぜなら、万事はあなたが定められたことだからです。それは誰にも変えられません。すべてのものと出来事は、あなたの御手の中にあります』。その時になると、あなたはもはや地位を考えず、そこから自由になるだろう。そのとき初めて、あなたは確信をもって堂々と求めることができ、そうして初めてあなたの心はあらゆる束縛から自由になれる(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉を読んだあと、ある人が高い地位にいる場合、それは神がその人を引き上げられたからであり、また低い地位にいるとすれば、それは神によって予め定められたことなのだと、わたしは理解しました。神が人をどう扱われようと、またどこに置かれようと、わたしたちは常に服従し、立派に本分を尽くすべきであり、文句を言ってはなりません。そうするのが理知のあること、本物の被造物が行なうことです。これを理解したわたしは、進んで服従して真理を実践するようになり、それ以降は見張りの任務に専念しました。自分が見張りに立つことで、指導者と執事は安全に集会を開けるのです。その後も何度か、見張りに立つよう指導者から頼まれましたが、わたしは地位の高低をもはや考えず、心はとても解放され、穏やかでした。

この年月、神はわたしを暴く状況を何度も用意され、御言葉を使ってわたしを裁き、罰しました。わたしはそのおかげで、サタンによる堕落の深さと、地位への欲望の大きさを本当に理解するようになりました。また地位とは、サタンが人を縛りつけておくために用いる手段なのだとはっきり気づきました。地位を追い求めれば追い求めるほど、サタンはその人を傷つけ、もてあそび、その人はますます神に逆らい、抵抗するようになります。さらに、人は救われるべく、神への信仰の中で何を追求すべきなのかも理解するようになりました。地位への欲望がかくも強く、野心がかくも大きかった私がいまのように変わり、神の指揮と采配に従い、従順に本分を尽くせるようになったのは、ひとえに神の裁きと刑罰のおかげです。神はわたしのために、かくも血のにじむような努力をしてくださいました。全能神による救いに心の底から感謝します!

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