生死を分ける闘い
全能神の御言葉にこうあります。「あなたが肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンはあなたを肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする――しかし、神の言葉はあなたの目を開き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや観念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。」(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」〔『言葉』第1巻〕)この神様の御言葉を読むたびに、次のように考えたものです。「真理を実践することは本当にそんなに難しいものだろうか。人々が真理を理解していない時は、それを実践することはできない。一度理解したら、神様の御心に則して行動するだけで十分ではないのか。本当に『心の奥底では生死を分ける闘いが起こる』と言うほど深刻なものだろうか。」後に実際に体験するまで、真理を実践することが簡単ではないということを実感できませんでした。神様が言われたことは、事実に完全に則しています。誇張は少しもありません。
少し前のことですが、私は一緒に働いている教会の姉妹が傲慢で、私を見下していると感じ、自分自身が正しくない状態に陥るのを止めることができませんでした。彼女のせいで、あれこれと自分を束縛するようになり、働きにおいてもそれを払拭することができませんでした。何かを言うときにはおとなしくし、何かをするときは慎重にし、しばらくすると、私の言動への彼女の反応を見ずにはいられなくなるほどで、もはや私は自分の働きを担っておらず、完全に暗闇の中で生きていたのです。自分の状態が危険なものであると知りつつも、そこから抜け出すことができないでいました。苦しみの最中、神様に何度も祈り、そのうち私の中に神様の照らしと導きを得ました。それは、「その姉妹と心を割って話し、光の道を見つけなさい」というものでした。しかし、姉妹の部屋の前まで行くと、別の考えが浮かびました。「私の話を聞いて、彼女は何と思うだろうか。私がつまらないことをあれこれ考える人間で、やっかいで、扱いにくい人間だと言うだろうか。」そう思った途端、彼女の何とも言えない目つき、軽蔑したような態度が目に浮かびました。その瞬間に私の勇気は失せて力が抜け、まるで全身が締め付けられたようになってしまいました。神様の言葉によって、再び次のように啓かれました。「話し合えないような私的な問題を沢山抱えているのであれば、暗闇から抜け出すのは困難です。このままの状態を続けたいのですか。」私は静かに自分を奮い立たせました。「勇気を出して、難しく考えず、ありのままを話せばいい。真理を実践することは恥ずべきことでも何でもないのだから。」けれども同時に、別の思いも浮かびました。「何も言わないほうがいい。彼女以外の人達は恐らく私は問題ないと考えている。敢えて話せば、他の人達も私があれこれと考える人間だと考えて、嫌われてしまう。ああ!それなら何も言わない方がきっと良い。」私の心が再び揺らぐと、神様は再び私を導いてくださいました。「誠実な人間であるなら、恥ずかしがったり、恐れたりしていてはなりません。」神様のこの啓示に私は奮い立たされましたが、驚いたことに、僅かばかりの力を得た途端、サタンの考えが再び浮かんだのです。「そんな話をすれば、他の人達もあなたの本性を知ることになり、惨めになるだけだ。」私の心は瞬時に握りつぶされたようになってしまいました。このように、私の心は肯定と否定、白と黒の間で揺れ続けました。私には、はっきりと分かっていました。自分のメンツを守りたいという虚栄心から、話したくないのだ、と。かと言って今のままでは自分の状態は変わらず、自分の働きにも何の益ももたらしません。話してこの問題を解決することのみが私の働きにとって益となり、神様の御心にかないます。けれども彼女が私の気持ちを知った途端に私をもっと見下すようになるかもしれないという考えが浮かんだ瞬間、私は真理を実践する勇気を失ってしまいました。私が自身の醜さについて話したら、もう生きていられない!一瞬、私はひどく動揺し、まるで火に焼かれているかのように心に強い痛みを感じました。これは、まるで生か死かの選択に直面しているかのように難しく、気付かないうちに涙が溢れてきて、できることといえば心の中で神様に助けを叫び求める以外にありませんでした。そして、まさにその瞬間に、神様の言葉が再び私の心に浮かびました。「真理を失うことなく、あるいは偽善や不義を隠すことなく、……若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。」(『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」(『言葉』第1巻)より)。神様の言葉により、ようやく動揺する心を落ち着かせることができました。「何があろうと、私はこれ以上、サタンの嘲りの対象ではいられない。これ以上、神様に反抗することはできない。自分自身を捨て、真理を実践しなければならない。」私が勇気を奮い起こし、彼女に会い、心を割って話すと、結果は期待した以上でした。姉妹は私を見下さなかっただけでなく、彼女自身の堕落を告白し、欠点を反省して認め、私に謝ってくれました。そして、これからは問題に遭遇したなら真理について話し合い、互いに理解し合い、真理に従うことを自分たちの原則として、互いの強さから学びあい、弱さを補い合い、ともに教会の仕事をしていこう、と言ってくれたのです。このようにして武器なき闘いが終わりました。問題が解決し、私の心も軽くなりました。あの時の心の中の激しい葛藤と、生か死かの闘いのような苦しみを味わったことを思い返すと、初めて自分のメンツを保つという無意味な問題がいかに深刻だったかが分かりました。私は闇の中を生き、神様に幾度となく呼びかけられていたにも関わらず、自分をそこから解放することができないほど、この問題は私の生き方に染みついていたのです。真理を理解しながらも実践することができませんでした。私は本当に、あまりにも深くサタンにより堕落させられていました。また、真理を実践し誠実な人でいることは簡単ではないことを身をもって体験しました。
この経験があって初めて、神様の次の御言葉を理解することができました。「真理を実践し、神を愛することを実践する度……心の奥深くで生死を分ける闘いが起こる。」この言葉が人類の堕落した本性について言及しているのは、人間のサタン的な本性が肉体にあまりに深く根付いているからです。人間はその本性にがんじがらめになってしまっており、それが私たちのいのちになってしまっています。私たちが真理を実践する時、そして肉の生活を捨てる時、そのプロセスは生まれ変わるのと同じであり、一度死んで復活するのと同じなのです。それは本当に生か死かの闘いであり、辛い痛みを伴うプロセスなのです。自分自身の本性をよく知らず、苦しんだり対価を払ったりする意志がない時、私たちは決して真理を実践することはできません。かつて私は、真理を実践するのは簡単だと考えていました。それは、自分の堕落した本性について理解しておらず、自分がいかに深く堕落しているかを知らなかったためです。今後、経験を通じてさらに自分自身を深く知り、あらゆることにおいて真理を実践し、自らを捨てていきたいと思います。
河南省鄭州市 常黙仰
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