生まれ変わる

2019年10月30日

私は遅れた考え方をする貧しい田舎の家庭に生まれました。小さいころから虚栄心が強く、地位に対する欲望は特に強いものがありました。時が経つにつれ、私は社会の影響と伝統的な教育を通して、サタンのありとあらゆる生存法則を取り入れました。「自分の手で美しい祖国を築き上げる」「名声は人を不死身にする」「木が樹皮を必要とするように、人は面子を必要とする」「出世して頂点にのぼる」「人は先祖に名誉をもたらすべき」といったあらゆる詭弁が、評価と地位を求める私の欲望を育んだのです。このような詭弁が次第に私の生き方そのものとなり、この世界で生きるからには努力して人に尊敬される必要があるのだと、頑なに信じるようになりました。どのような人たちと一緒にいようと、地位をもち、最も傑出した人であるべきなのです。このように生きて初めて高潔さと尊厳を手にすることができ、このように生きる人生にのみ価値があるのです。自分の夢を叶えるため、私は小学生の時から一生懸命勉強し、嵐の日も病気の日も決して授業を休みませんでした。このように毎日努力して、ついに中学校へ進みました。夢にどんどん近づいているのを感じ、怠けることなど考えもしませんでした。このまま耐え抜き、先生やクラスメートの前ではきちんとしなければならないと、私はいつも自分に言い聞かせていました。しかしそんな時、不測の事態が起きました。教頭と校長を取り巻く不祥事によって騒動が起きたのです。先生も生徒も全員それについて知っていました。ある日の授業中、先生がこの件について聞いているかと尋ねたところ、自分以外の生徒は全員「知りません」と答えましたが、私だけが正直に「聞きました」と答えました。それ以降、この先生は私をしゃくに障る生徒として見るようになり、何かと理由をつけてはしょっちゅう私に大変な思いをさせ、私を懲らしめようとしました。クラスメートも私から距離を置き、私を仲間外れにするようになりました。馬鹿にされたり、恥をかかされたりした私はついにこのような苦しみに耐えられなくなり、学校を中退してしまいました。こうして、出世して頂点に上り詰めるという私の夢は崩れ去りました。地面に這いつくばって生きる自分の将来を考えると、言葉では表現できないほどの悲しみと憂鬱を感じました。「私の人生はこのまま平凡に過ぎ去ってしまうのか。地位も名声もなければ、将来もないじゃないか。こんな人生を生きる意味があるのか」当時はこの事実を本当に受け入れたくありませんでしたが、状況を変えるには無力でした。自力で脱出できない苦痛と絶望感の中で生きていたまさにその時、全能神が私を救い、消えていた希望を心に蘇らせてくださいました。ここから私の新たな人生が始まったのです。

私は遅れた考え方をする貧しい田舎の家庭に生まれました。小さいころから虚栄心が強く、地位に対する欲望は特に強いものがありました。時が経つにつれ、私は社会の影響と伝統的な教育を通して、サタンのありとあらゆる生存法則を取り入れました。「自分の手で美しい祖国を築き上げる」「名声をとこしえに伝える」「木が樹皮を必要とするように、人は面子を必要とする」「出世して頂点にのぼる」「人は先祖に名誉をもたらすべき」といったあらゆる詭弁が、評価と地位を求める私の欲望を育んだのです。このような詭弁が次第に私の生き方そのものとなり、この世界で生きるからには努力して人に尊敬される必要があるのだと、頑なに信じるようになりました。どのような人たちと一緒にいようと、地位をもち、最も傑出した人であるべきなのです。このように生きて初めて高潔さと尊厳を手にすることができ、このように生きる人生にのみ価値があるのです。自分の夢を叶えるため、私は小学生の時から一生懸命勉強し、嵐の日も病気の日も決して授業を休みませんでした。このように毎日努力して、ついに中学校へ進みました。夢にどんどん近づいているのを感じ、怠けることなど考えもしませんでした。このまま耐え抜き、先生やクラスメートの前ではきちんとしなければならないと、私はいつも自分に言い聞かせていました。しかしそんな時、不測の事態が起きました。担任の先生と校長を取り巻く不祥事によって騒動が起きたのです。先生も生徒も全員それについて知っていました。ある日の授業中、先生がこの件について聞いているかと尋ねたところ、自分以外の生徒は全員「知りません」と答えましたが、私だけが正直に「聞きました」と答えました。それ以降、この先生は私をしゃくに障る生徒として見るようになり、何かと理由をつけてはしょっちゅう私に大変な思いをさせ、私を懲らしめようとしました。クラスメートも私から距離を置き、私を仲間外れにするようになりました。馬鹿にされたり、恥をかかされたりした私はついにこのような苦しみに耐えられなくなり、学校を中退してしまいました。こうして、出世して頂点に上り詰めるという私の夢は崩れ去りました。地面に這いつくばって生きる自分の将来を考えると、言葉では表現できないほどの悲しみと憂鬱を感じました。「私の人生はこのまま平凡に過ぎ去ってしまうのか。地位も名声もなければ、将来もないじゃないか。こんな人生を生きる意味があるのか」当時はこの事実を本当に受け入れたくありませんでしたが、状況を変えるには無力でした。自力で脱出できない苦痛と絶望感の中で生きていたまさにその時、全能神が私を救い、消えていた希望を心に蘇らせてくださいました。ここから私の新たな人生が始まったのです。

それは1999年3月のことでした。私は終わりの日の全能神の福音を偶然耳にしました。私たちをサタンの支配から救い、私たちが苦痛と堕落の中で生きる生活を捨て去って新たな天地で生きられるようにすべく、受肉した神が降臨して自ら人類に語りかけ、導いていらっしゃることを知ったのです。また兄弟姉妹による辛抱強く熱心な交わりで、神の6千年にわたる経営(救いの)計画、神の受肉の奥義、堕落した人々が受肉した神の救いを必要としていること、被造物が有するべき理性、万物の創造主を崇拝する方法、正しい人間性の生き方、真の人間の人生とは何かなど、それまで一度も聞いたことがない数多くの真理を聞きました。私はこれらの真理に深く引き込まれ、これは本当の神の働きであると確信しました。その日、兄弟姉妹はいのちの経験に関する讃美歌も歌ってくれました。「全能神よ。どうか私に耳を傾けてください。過去を思い出すと泣いてしまいます。心は闇で光がなく、いのちに希望はなく、人生の苦しみを語ることもできず、無力感の中で日々を過ごすことしかできませんでした。これがどうして心を惨めにしないでしょう。全能神よ、お聞きください。過去を思い出すと心が痛みます。悪魔サタンが私を傷つけ、堕落させて陥れたのです。あなたの御言葉が私を照らし、闇から導いてくれました。ああ真の神よ。私は心からあなたを愛します。」この賛美歌は暗闇をさまよっていた私の心と霊をまるで一筋の光のように照らし、私は思わず泣き出してしまいました。そして長年受けていた抑圧、不正、悲しみから突然解放された気分になり、心がとても軽くなりました。この興奮に加え、神が何百万という人の中から私を選んでくださり、私の疲れて悲しんでいた魂が暖かい安息の地を見つけられるようにしてくださったことに、さらに深く感謝しました。それ以降、私の生活は根本的に変わりました。もう絶望することも落胆することもなく、神の御言葉を読むこと、集会に参加すること、そして真理の交わりに心のすべてを捧げたのです。毎日が充実して幸せでした。後に、私は福音を説く本分を尽くし始めました。とても熱心かつ積極的で、しかも一定の素質を兼ね備えていたため、しばらくすると私の働きは見事実を結び始めました。福音グループのリーダーから褒められるようになり、教会の兄弟姉妹も私を尊敬してくれました。彼らは福音を説く上で分からないことがあれば、いつも私に聞きに来ました。私は気づかぬうちに少しばかり自己満足に浸るようになり、「俗世で何年も望んできた評価と地位を、教会ではあっという間に手にすることができた。私の『ヒーロー』的な部分がようやく居場所を見つけられた」と思いました。自分の成し遂げたことを省みると、とても満たされた気分になり、より懸命に働いて自分の本分を尽くしました。どれだけ困難な状況に出くわしても、精一杯努力して乗り越えました。教会からの指示が何であれ、私はそれに快く従い、全力を尽くして遂行しました。時には、本分をよく尽くさなかったことを理由に、教会のリーダーから自分の諸々の側面を取り扱われ、刈り込まれることもありましたが、どれだけ動揺しても、あからさまに言い訳をしたりはしませんでした。当時、私はとても大変な思いをしていましたが、兄弟姉妹の間で高い地位を得て、彼らから尊敬さえされていれば、それだけの価値が十分あると感じていました。しかし、神は人の各部分を見抜くことがおできになります。私の間違った人生観と価値観を変えるため、そして神への信仰と本分を尽くすことにおける不純を清めるため、神は折に触れて環境を整えられ、私を裁いてお救いになったのです。

私が福音グループのリーダーに昇任したのは2003年のことでした。地位が上がるにつれて私の業務範囲も拡大し、「黄金はどこでも輝くものだ。絶対に仕事を上手くこなして順調に地位を上げてみせる。そうすれば兄弟姉妹はますます私を羨んで憧れるようになるだろう。そうなったら最高だ」と、さらに自己満足に浸るようになりました。これから本分を尽くす現場に到着すると、私がこの種の働きに就いたばかりで経験も手段も乏しいことを考慮した指導者が、近隣地域から福音の働きのリーダー達を集め、互いに学び合える機会を用意してくれました。しかし交わりを続けるうちに、彼らが全員私よりも年上で、素質も私に劣っていることがわかりました。神の御言葉について交っていたときも、彼らは私ほど明確に話すことができませんでした。私は傲慢にならずにはいられなくなり、彼らはまったく大したことがないと思いました。自分はきっと自力でよい働きができると感じていたのです。集会の後、私はすぐに各グループをまわり、それぞれの働きを理解しようとしました。それらの働きに誤りや手抜きがあり、福音を説いて神の証しをすることができない兄弟姉妹が何人かいるのを突き止めたとき、私は不安と憤りを同時に感じ、思わず兄弟姉妹を叱りました。「このように本分を尽くすことが、本当に神の御心に叶いますか。あなたは代価を払おうとしないのに、神に救っていただくことを望みます。そのような人に理知はありますか……」また交わりのさなか、自分がかつて福音の働きに加わっていたことや、その際に挙げた成果を語り、自分を誇示することもありました。兄弟姉妹の顔に浮かぶ羨望の表情を見た私は有頂天になり、自分は他の人よりも重い責任を担っているのだと感じました。時間が経つにつれ、兄弟姉妹はいつも私と問題を話し合いながら、もはや神に祈りを捧げたり、神に頼ったりすることに集中しなくなりました。私はこの状況に不安を感じるどころか、それを楽しんでいました。ついに、私は聖霊の働きを完全に失い、これ以上働くことができなくなりました。2004年の初頭、教会は私を本分から外し、霊的自省のために帰郷させました。このような結果になり、もの凄い速さで底なしの深淵に落ちていくような気分になりました。強烈ないら立ちのせいで全身から力が抜けて弱ってしまい、思わず「本分を尽くし始めたときはとても素晴らしかったのに、これから恥さらしの帰郷か。故郷の家族や兄弟姉妹にどう顔を合わせたらいいんだ。どう思われるだろう。馬鹿にたり、見下されたりしないだろうか」と考えました。他の人が抱く私の印象や地位を失ってしまうかと思うと、自分がばらばらになりそうでした。私は自力で脱出できない否定的な状態の中で生きており、神の御言葉を読み続けることすらできませんでした。この苦しみの中、神に祈りを捧げないわけにはいきませんでした。「ああ、神よ!自分が解任された事実を受け入れられないせいで、私はいまとても弱り、霊も暗闇の中にいます。また教会の采配にも従いたくはないのですが、あなたがなさるすべてのことは善であり、あなたの慈悲深い御心が込められていることは知っています。私は進んであなたの啓示を受け、あなたの御心を理解したいと思います」この祈りを捧げた後、神のこの御言葉が私に啓きをもたらしました。「あなたがたは追求において、個人的な観念や希望や未来を多くもちすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望やとりとめもない欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望[a]、そして観念はどれも典型的なサタン的な性質の表れである。…あなたがたは現在の段階まで達したが、依然として地位を捨て去れないままであり、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかという強い恐怖を感じて、地位について調べ、観察しようと日々奮闘している。…あなたがたは今や信者であり、この働きの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇に置いていない。あなたがたは自分の地位が高いと、しっかり追求するが、身分が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことを常に考えている。なぜ大部分の人が否定的な状態から脱出できないのであろうか。それは常に厳しい将来の見通しのためではないだろうか。」(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」(『言葉』第1巻)より)神の御言葉にあらわされた裁きは私を揺さぶって目覚めさせ、あのときの神の働きは私の地位に対する欲望を取り扱い、私に人生の正しい道を歩ませるためだったのだと理解させました。本分を尽くし始めたころを振り返ると、自分に地位があるときはとても積極的でした。自信満々で苦しみや困難を恐れることもありませんでした。自分の諸々の側面を誰かに取り扱われたり刈り込まれたりしても、それに逆らいませんでした。しかし、解任されて帰郷を余儀なくされてからは、自分の否定的な状態から這い上がることができませんでした。表面的には自分の本分を尽くしていたように見えても、実際には本分を尽くすという旗を振りながら自分勝手に物事を処理していたことがわかったのです。出世して尊敬されたいという長年潜んでいた自分の欲望を満たすべく、神を利用していただけでした。それは真理の追求ではなく、まして被造物の本分を尽くして神に満足していただくことでもありませんでした。本分を尽くしていた最中に兄弟姉妹の欠点を見つけたとき、私は愛のゆえに彼らを助けるどころか、自分の地位を利用して彼らを叱りました。私は意図的に自分を高く掲げ、自分の証しを立てるとともに、誰もが自分を尊敬して敬愛することを切望していたのです。最初から最後まで、私の考えと行動には一つの目標しかありませんでした。これは神への露骨な抵抗ではないでしょうか。人類は神によって創造されたのですから、私たちは神を崇拝して尊敬すべきです。神の地位だけが私たちの心を占めるべきなのに、私は他人の心に地位を占めたいと願う、汚れて堕落した卑しい人間でした。これはとてつもなく傲慢ではないでしょうか。恥知らずで神に背いてはいないでしょうか。この振る舞いは神の性質に対する深刻な背きではないでしょうか。このように考えると、自分の傲慢な本性に対する恐怖で思わず身震いしました。実はすでに、神の懲罰を受ける危険な状況に陥っていたのです。神の性質は義にして聖く、人類が背くことを許しません。不従順の子のような私が勝手気ままに神の働きを邪魔したり、狂わせたりすることを、神がどうしてお許しになるでしょう。そのとき初めて、自分が解任されたことは神の偉大なる寛容さと愛だったことに気づきました。それがなければ、私はより深刻な悪事をさらに働き、神が私をお赦しになれないまでになっていたでしょう。そうなってはきっと手遅れです。そのことを考えれば考えるほど、私はますます怖くなり、神からあまりに多くの恩義を受けているとよりいっそう感じました。そして神の前で平伏して祈りを捧げずにいられなくなりました。「ああ、神よ。私の本性はあまりに傲慢で、あまりに軽薄です。私は自分の本分を尽くす際に真理を追い求めず、あなたの愛に報いることを考えませんでした。評判と地位を求めてあちこち駆け回り、教会で出世することに専念していました。このような意図で本分を尽くしていれば、つまずいて転ばないことがどうしてありえるでしょう。あなたの裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みが間に合っていなければ、私はあのまま反キリストの道を歩み続けていたに違いありません。そして最後は、救いの機会を自ら台無しにしていたでしょう。ああ、神よ。あなたの憐みと救いに感謝いたします。今日からは、自分の野心と欲望を捨てて真理を追い求め、あなたの裁きと刑罰をさらに受け入れて、自分の堕落した性質をすぐに変えてまいります」神の啓きと指し示しは私を否定的な状態から導き出し、神に抵抗する自分の傲慢な本性と本質を認識させてくださいました。また私は神の義なる性質についてもある程度理解し、心の中で大きな安心感を味わいました。さらに、神が用意してくださるどんな環境においても真理を求め続け、神の御心をより深く理解しようと思いました。

その後、真理を追い求める中で次の神の御言葉を目にしました。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。」(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)より)「人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)より)真理を求める正しい道と、何が誤った道であるかを人が理解できるよう、神の御言葉はすでに神の御心と要望をまったく明確に、かつ理解しやすい形で人々に伝えています。当時、私は評判と地位を何よりも重視していましたが、実際には神が人の地位の高さや年功、あるいは神を信仰する上でどれだけ苦しい思いをしてきたかをご覧になることはないのです。神は人が真理を追い求めているかどうか、神について真の認識を有しているかどうかをご覧になるのです。高い地位に就いていなくても、真理を自分のものにしていれば神のお褒めにあずかれますが、高い地位に就いていても真理がない人は神に嫌悪され、拒絶されます。これが神の義と聖さの性質なのです。地位が人の運命を決めることはできず、神への信仰において救っていただくことを象徴するものでもありません。特に、誰かが神によって完全にしていただいたことを表わすものではないのです。しかし、私は常に地位によって自分の価値を量り、人から尊敬されて敬愛される事を一番の喜びとしていました。これは神の要求に真っ向から反することではないでしょうか。この様に神を信じてもまったく無意味ではないでしょうか。神に救っていただけないどころか、最終的には自分の悪しきやり方のせいで神の懲罰を受けることになっていたでしょう。あのとき神が私に託されたことは、私が真理に入り、性質の変化と神への服従と神の愛を追い求め、そして最後は神に救われ完全にしていただけるようにするためのものでした。これ以外に正しい道はありません。これをすべて理解したあと、私の心は神に対する感謝の気持でいっぱいになりました。私を誤った道から引き戻し、私が神の御心を理解できるように啓き、評判と地位を追い求めることの危険性と結末を明確に理解できるようにしてくれた、神の裁きと刑罰に感謝します。そのとき初めて私は目を覚まし、手遅れになる前に改心することができました。この経験を通し、私は追求に関する自分の誤った観点をいくらか認識し、真理と神の善意をある程度理解するとともに、精神状態も復活を遂げました。そして再び自分の本分を尽くすことに専念したのです。

2004年7月、私は山中の遠く離れた場所に行き、そこである兄弟と協力して福音の働きに携わりました。その働きを始めたとき、私は過去の失敗を教訓として念頭に置いていました。評判や地位を追い求めず、被造物として誠実に本分を尽くすことを頻繁に心がけ、自分には理解できない問題やはっきりしない問題が生じたときは、自分を脇にのけてこの兄弟との交わりを積極的に求め、話し合って解決するようにしました。しかし、自分の働きがますます実を結ぶにつれ、私の傲慢な本性がまたしても頭をもたげ、再び自分の印象と地位に集中し始めてしまったのです。ある日の集会のさなか、現地の福音チームのメンバーが嬉しそうな口調で「あなたが来てくれたおかげで信者をさらに増やすことができましたよ……」と言ってくれました。私は、それは聖霊の働きのおかげですと口で言いながら、内心は自己満足に浸っていました。集会の後、私はホストファミリー宅に戻ってベッドに座り、そのときの働きぶりを一つ一つ頭の中で思い浮かべました。すると自画自賛せずにいられなくなり、「私は本当にこの働きに向いているようだ。このまま努力し続ければ、きっとまた昇進できるはずだ」と思いました。完全に自分を英雄視し、心の中に神の地位はもはやありませんでした。その後は自分の本分を尽くす際に同労者と地位と求めて競い、自分の立場を彼らのそれと比較し始めました。私たちの働きの成果はすべて私の努力のおかげだと言わんばかりに、兄弟姉妹の前で露骨に自画自賛し始めたのです。私が奈落の底に一歩ずつ滑り落ちていたとき、神がまたしても救いの手を差し伸べてくださいました。ある夜、私は突然ひどいインフルエンザに罹りました。体温が39度近くまで上がり、数日続けて薬を飲んでも容態は改善しません。点滴を受けに病院に行きましたが、容態は改善するどころかさらに悪化していきます。何を食べても吐き戻してしまい、水すら喉を通りません。ついには寝たきりとなり、今にも死にそうな気がしました。この病気の苦しみの中、私は明くる日自分がどんな地位に就いているかなどとはもはや考えもしませんでした。私はすぐさま跪き、神に祈りを捧げました。「ああ、神よ。この病気はあなたの善意ある御心にして、あなたの義なる性質です。私はあなたを誤解したり、責めたりしたくはありません。あなたの御心を理解して自分の堕落をもっと深く認識できるよう、どうか再び私を啓いてお照らしください。」この祈りを捧げた後、心が大分落ち着きました。まさにその時、神のこの御言葉が突然私に舞い降りてきたのです。「あなたがたの横柄で傲慢な本性が、あなたがたに良心を裏切らせ、キリストに反逆し、反抗させ、あなたがたの醜さを露呈させ、それによってあなたがたの意図、観念、度を過ぎた欲望、欲に満ちた目を光にさらす。」(『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)より)これら神の御言葉の一言一句が剣のように私の心に突き刺さり、私の痛いところを突きました。自ら露呈した傲慢な醜さが一つ一つ頭に極めて明確に浮かんだのです。私は心が痛み、計り知れないほど恥ずかしくなりました。そのとき、自分の良心が本来の機能を失い、そのせいでいつも神様に誠実に従えず、神様を崇拝できなかったのは、自分の傲慢な本性が原因だったとはっきりわかりました。それによっていつも野心と欲望を抱くようになり、機会があればすぐに地位を求めて競い、人前で自分を誇示して他の人たちを抑えつけようとしていたのです。私が正しく振る舞う人であるはずはありません。私の働きの成果はどれも聖霊の働きのおかげだということが明らかになりました。それは神の働きなのです。しかし、私は恥知らずにも神の栄光を盗み、自分を高く掲げる機会を利用し、兄弟姉妹に尊敬され崇拝されることを楽しみました。理知を失うほど傲慢になったのです。そのとき初めて、私のこの傲慢な本性こそが、神に反抗していた根源だとわかりました。これを解決しなければ、神に服従することも、本分を尽くすことに身を捧げることもできないでしょう。

神の導きの下、この神の御言葉が再び頭に浮かびました「自分の真の本性が何なのか、どれほど醜く、卑劣で、哀れであるかに気が付くと、人は自らをあまり誇りに思わず、ひどく傲慢ではいられず、以前のようには自分にそれほど満足しません。「私は真面目で地に足をつけていなければならず、神の言葉をいくつか実践しなければならない。そうでなければ、人であるという基準に達せず、神の面前で生きるのが恥ずかしくなるだろう」とその人は感じます。その人は自分はちっぽけで取るに足らないと本当にわかります。この段階では、その人が真理を実践するのは簡単で、より人間らしく見えます。」(『キリストの言葉の記録』の「自らを知ることは主に人間の本性を知ること」より)神の御言葉は実践と入りの道を指し示し、評判や地位へのこだわりを完全に捨て去りたいのであれば、自分の本性を知ることに努力を傾けなければならないと指摘してくれました。自分がいかに卑しく役立たずであるかにはっきり気づければ、謙虚な人になることができて傲慢ではなくなります。そうすることで、地に足をつけて真理を追い求めることができるのです。現実に、神がこの裁きと刑罰、この打撃と懲らしめを下されたのは、私が自分の本質と、自分の本来の身分と立場を真に理解するためだったのです。それは、私が神の御前で自己を認識をし、自分の霊的貧困と無価値さを知るようにするため、自分に必要なのは真理と神の救いであることを知り、そこから神の御前にひれ伏し、正しく振る舞う人になれるようにするため、そして私が本分を尽くして神に満足していただき、地位を追い求めて神の御心を傷つけないようにするためでした。神の御言葉による導きの下、私は前進する道と真理を追い求める自信を得ました。私はサタンによって深く堕落させられ、傲慢な本性が深く根づいていましたが、神の裁きと刑罰、試練と精錬を受け入れてそれに従い、そこから自分の本性と本質を認識し、たゆまず真理を追い求めることさえできれば、評判と地位による束縛と苦しみを振り払い、救われて完全にしていただく道に必ずや入るのです。神に立ち返った二日後には、病気はすでに治っていました。これにより、神は私を懲らしめる手段としてこの病気をお使いになったのだと、さらに明確にわかりました。意図的に私を苦しませようというのではなく、それ自体に何らかの懲罰が含まれていたわけでもなかったのです。これは私の麻痺した心を目覚めさせ、できるだけ早く誤った追求を止めさせ、神を信じる正しい道に足を踏み入れさせるためだったのです。私は神の愛に深く感動し、刺激を受けました。そして心から神に感謝を捧げ、神を讃えました。

回復後、私は再び働きに専念しました。そして、評判や地位に関係する状況に直面したら必ず神の証しに立とうと、心の中で静かに決意しました。数か月後、他の福音班が大きな成果を挙げて神の素晴らしい御業を経験し、いくつかの成功例と実践の道をまとめ上げたとの話を聞きました。一方、私が加わっていた働きは凋落していました。兄弟姉妹のがっかりした表情を目の当たりにし、特にある姉妹が「私たちはやっと神の偉大な救いを享受しているのに、神の働きを証しできないでいるわ。私たちは本当に神に恩義があるのに」と言って、みな泣き出したのを聞いたときは心がとても痛みました。この窮地から抜け出す方法がわからなかった私は、何度も神に祈りを捧げました。「ああ、神よ。私たちは現実の困難にぶつかるとみな弱くなってしまいます。しかし、これはあなたが私たちの自信と献身を試されているのだと、私にはわかっています。しかし、私の霊的背丈は低すぎて、この重みを背負うことができません。どうか私をお啓きになり、あなたの御心を理解できるようにしてください。私は喜んであなたのお導き通りに行動いたします。」祈り終えたあと、一つの考えが私の頭に浮かびました。「向こうの同労者に交わりに来てもらい、彼の長所と経験を参考にするべきだ。そうすれば兄弟姉妹も聖霊の啓きと導きを受けることができて、福音の働きの方法も学ぶことができる」この発想が聖霊の導きから来ていることはわかっていましたが、それでも心の中にはまだ疑念が残っており、こう考えました。「以前はあらゆる点で私のほうがあの兄弟よりも優秀で、集会で一緒になったときはいつも彼を見下していたのに、いまでは彼の成果が私の成果を上回っている。いま必死になって、恥ずかしそうにしている私の姿を見て、彼は笑うだろうか。兄弟姉妹は私を見下すだろうか。どうやって面目を守ればいいんだ……」いくら考えても、自分の面目と地位のことが頭から離れませんでした。しかし、人類をお救いになろうとする神の切実な御心が頭に浮かび、兄弟姉妹が聖霊の指し示しと導きを受けていないことを思い出した瞬間、私は心の中で罰せられました。心が揺れ動く中、神の御言葉が私を啓いてくれました。「聖霊が働くのは神に用いられる特定の人々だけではなく、教会においてそれ以上に働く。聖霊はどんなところでも働くことができる。今はあなたの中で働いているが、あなたがその働きを経験すると、次は別の人の中で働くかもしれない。その場合、あなたは急いでついて来なければならない。今の光にしっかりついて来るなら、あなたのいのちは更に成長できる。どのような人間であれ、聖霊がその人の中で働いているなら、必ず従いなさい。その人の経験を自分の経験と重ねてそこから学びなさい。そうすれば、あなたは更に高尚なものを受けるであろう。そうすることで、あなたの進歩は更に速まる。これが人間が完全にされる道であり、いのちが成長する道である。完全にされる道には、聖霊の働きに従うことで到達する。あなたは、神がどのような人を通してあなたを完全にする働きをするかを知らず、どのような人、どのような出来事や物事を通してあなたを獲得し、あなたが識見を得るようにするかを知らない。」(『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)より)神の御言葉による導きの下、私は神の御心を理解するとともに、神が聖霊の働きの中で人々をいかに導き、完全になさるかについてもある程度認識しました。そして次のことに気づきました。「神の働きと知恵は驚嘆すべき神秘的なものだ。神がどのような人や物事を通じて私を啓いて導き、私が神の御心を理解するようになさるのか、どのような環境を通じて私の堕落した性質を取り扱われるのか、私にはわからない。私は聖霊の働きに従うことを学ぶ必要があり、地位の高低、年齢、神を信じてきた期間にかかわらず、その人の交わりが真理と一致する限り、それが神の現在の御心であり、聖霊の働きと啓示から生まれる現実的な道を指し示すことができる。私は受け入れ、従い、実践しなければならない。それが私の有するべき人間の理知だ。聖霊の働きに従わなければ、自分の虚栄心を守るためなら自分の働きに支障を来しても構わない、自分の印象と地位を守るためなら、兄弟姉妹を暗闇の中で生活させても構わないということになる。そうなれば、私は真の悪しき召使であり、反キリストということになってしまう」これに気づいたとき、私は思わず怖くなり、意固地になって聖霊の啓示と導きに逆うことは二度としまいと思いました。そして、自分のサタン的な本性を進んで捨て去り、実践的な行動を通じて神の御心を安心させたいと思ったのです。そこで、私はすぐにあの同労者に電話をかけ、私たちと交流しに来てくれないかと頼みました。実際に顔を合わせたとき、その兄弟は私を見下そうとも笑おうともしなかったので、私は恥ずかしくなりました。そして彼は、聖霊が自分たちに働きかける一方でどのように協力し合ったか、挫折や失敗に遭遇したときはどのようにして神に頼り、祈りを捧げたか、その後どのような神の御業を目にしたか、神についてどのような真の認識を得たかを、交わりの場で心から語ってくれました。この兄弟の穏やかで嬉しそうな姿、兄弟姉妹が熱心に、楽しそうに聞き入っている様子、そして彼らの表情に少しずつ笑みが浮かぶ光景を見て、胸が張り裂けるような激しい痛みを感じました。しかし今回胸が痛んだのは、自分の面目や地位を満足させられなかったからではなく、神への負い目に強い咎めを感じたからです。おかげで、よきリーダーが背負う責任と本分を心から実感することができました。私自身が間違った道を選ぶと、多くの人のいのちが害を受け、破滅に至ってしまいます。そうなれば、多くの人に霊的な苦しみをもたらすことになるのです。その場合、私は神に抵抗する主犯になってしまったのではないでしょうか。神の働きが完了したとき、私はどのように申し開きしたらよいでしょうか。そのときやっと、私は心の底から自分を嫌悪しました。本分を尽くしながら誠実に働きを行なわず、評判と地位を追い求めることだけを考え、地位の恩恵に大喜びした過去を憎みました。それは兄弟姉妹のいのちの入りを邪魔しただけでなく、それ以上に、神の御心が実行されるのを邪魔していたのです。また私は頻繁に聖霊の働きを手放し、暗闇に陥っていました。評判と地位を追い求めることは、善よりもはるかに多くの害をもたらすのだとわかりました。しかし、罪の意識と後悔を感じながら、私は少し安心もしていました。なぜなら、神の導きの下、今回やっと個人的な益を捨てて真理を実践したからです。働きそのものと兄弟姉妹、そして自分自身に益となることをしたのです。実践的な行動でサタンを辱め、今回は神の証しに立つことができたのです。

私は神の働きを体験する中で、そして評判と地位を追い求めた結果、多くの挫折と失敗を経験しました。いくつもの回り道をし、そのせいで取り扱いと精錬を受けました。次第に地位を重要視しなくなり、「地位なくして将来なし。そうなれば誰もあなたを尊敬しない」という以前の見当違いな観念を改めることができたのです。私が神を信仰し始めてからもう15年が経ちます。神が私のためにしてくださった働きについて考えるたび、いつも心地よい感覚に包まれます。神が私に与えてくださった愛と救いを、私は決して忘れません。私の人生の早い段階で、神が私の環境を用意してくださらず、名声と利益と地位を求める私の欲望を取り扱ってくださらなければ、長年にわたって生きる指針とし続け、自分のいのちと化していた信念を、どうして手放す気になれたでしょうか。神から時宜にかなった救いを受けていなければ、私は依然としてサタンの毒に従いながら生き、叶えられない夢を追いかけながら人生を無駄にしていたでしょう。そして、神の度重なる啓示と精錬を受けていなければ、私は依然として誤った道を突き進み、自分の虚栄心の深刻さと地位に対する欲望の強さに気づくこともなかったでしょう。特に、自分が神の敵であることに気づかなかったに違いありません。神の素晴らしい働きのおかげで、私は名声や利益や地位を追い求めることの本質と害の大半を見抜くことができました。それはまた、人生に対する私の誤った価値観と視点を本質的に変えるとともに、真理を追い求め、被造物の本分を尽くすことが真の人間の人生であり、サタンの闇の支配を払拭し、神の御言葉を基に生きてのみ、有意義で価値のある生き方ができるということを理解させてくれました。今日、私が理解と変化を得られたのは、ひとえに神の裁きと刑罰の成果です。神の裁きと刑罰を受ける中で、私は精錬の痛みに耐えることを余儀なくされましたが、神の実践的な働き、慈悲深い本質、そして神の義にして聖い性質をある程度は理解することができました。私は今、長年にわたって自分を害してきたサタンの毒を明確に捉え、嫌い、払拭することができるようになり、真の人間の人生を送れています。この経験の中で無駄なことは何一つありませんでした。それは最も有意義で価値あることだったのです。これから先、自分のありとあらゆる堕落した性情がすぐに清められ、神の御心に沿う人になれるよう、神の裁きと刑罰、試練と精錬をもっと受けていきたいと思います。

楊正(黒竜江省)

脚注

a.原文には「~に対する欲望」という語句が含まれていない。

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