外見から人を識別することはできない

2017年12月19日

山西省ユイツー市 楊蕊

私はいつも、父は善人だと心の中で思っていました。しかしある日、父が教会から追放されたと突然聞きました。その時はすっかり驚いてしまい、なぜそのようなことになったのか見当もつきませんでした。私の心の中で、父は世界で一番立派な人でした。短気を起こすこともありましたが、私たち姉妹の面倒をちゃんと見てくれますし、私たちを叩いたり叱ったりすることもありませんでした。私たちの家庭にも苦労はありましたが、父はどれほどの苦しみに耐えなければならないとしても、私たちまで憤慨することがないようにしてくれていました。家族全員が神様の働きを受け入れると、父は本分を尽くすことによりいっそう熱心になり、私たちにも各自の本分を正しく尽くすようよく促しました。父は粗野になることも時折ありましたが、尽くすべき本分があればすぐに、風雨や困難の度合いに関わらず、それをやり遂げる方法を見つけていました。そのような善良な人物がどうして追放されるのでしょう。父が救われないならば、一体誰が救われるというのでしょうか。このことは、私の心を憤りと葛藤で一杯にしました。教会が父を公正に扱っていないと感じたからです。それを口に出すことはありませんでしたが、心を鎮めることは難しく、私は苦しみ悶えました。

数日前、私は神様の次の御言葉を目にしました。「あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真実を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。そのため、あなたは世界で一番腹黒く邪悪な人である、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には極めて親切で献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、その他の家族を細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う。他人と仲良くしているからや少しの善行を行うからというだけで、自分はキリストと相容れると思ってはならない。あなたは自分の親切な意図が天の恵みをだまし取れると思っているのか。少しの善行をすることが、従順になることの代わりになると思っているのか。(『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」〔『言葉』第1巻〕)神様の御言葉を反芻するうちに、次のことがだんだんと分かってきました。人が義であるか邪悪であるかを見分けるには、表向きの行いがよいか悪いか、または他人とどのような関係を築いているかを基準とすべきではありません。むしろ、神様とどのような関係を築いているか、神様に心から従順で、神様を畏れているかどうか、神様と相容れるかどうかを基準とすべきなのです。他人と良好な関係を築き、頻繁に助け、愛をもって接している人もいるかもしれませんが、神様と相容れることができず、自分の本分に個人的な動機が混じっていて、神様の働きが自分の観念と相容れないときに神様を裁いて抵抗するなら、その人は偽善者です。そのような人は悪賢く、裏表がある悪人なのです。それを理解したとき、私は父が外に表していたことをいくつか思い出しました。前に属していた教派で、父は指導者でした。今の段階の神様の働きを受け入れた後、教会の兄弟姉妹は、本性があまりに傲慢であることを理由に父を指導者に選出しませんでした。表向きは従順を装い、言われたことにすべて従っていましたが、その秘めた動機は指導者の「座」に返り咲くことだったのです。その後、自分の願いが叶わないとなると、父は本性を表し、教会でいつも高慢そのものに振る舞い、誰の意見にも耳を貸さず、何であろうと自分の意見を聞くように人々に強要しました。自分の好みに合わない同労者を見ると、その人を裁き、けなし、見下しました。また兄弟姉妹のあいだに不和の種を蒔き、教会生活をひどく妨げ動揺させました。指導者や同労者は何度も父と真理について交わり、父を刈り込んで取り扱い、警告を与えましたが、それでも父はまったく気に留めず、まして後悔の念を示すことなどありませんでした。これは悪人の振る舞いではないでしょうか。まさに神様が次のようにおっしゃった通りです。「人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)

神様の御言葉によると、父の行いは神様の指揮や采配に従うものではなく、教会に混乱をもたらすものでした。父は権力と地位を求めてありとあらゆる悪事を行ったのです。このような本質は神様に抵抗するものであり、悪人のものです。しかし私は、自分を可愛がってくれたり、面倒を見てくれたり、本分を尽くせたりするといった表向きの行いを基準にして父を善良な人だと判断し、教会は父を追放すべきではなかったと考えていたのです。しかし、表向き善良な父の行いは、神様に従うこととは異なります。もっと言えば、それは「義なるもの」とは呼べません。神様の指揮に心から従い、神様の刑罰と裁きを進んで受け入れ、性質の変化を求める人だけが救われるのです。父が現在の状況にいるのは、ひとえに父自身の責任でした。それは自分の恐ろしい本性のためであり、他の誰のせいでもなかったのです。さらにそれは、神様の義なる性質の現れでした。

ああ、神様。この環境をお使いになり、真理のこの側面を見せてくださることで、私の誤った見方を正してくださったこと、あなたの聖さを見せてくださったこと、そしてあなたの義にして威厳に満ちた性質に誰も背いてはならないと理解させてくださったことに感謝します。今回のことにより、真理がなければ物事を見分けることも見抜くこともできないと理解しました。今後、何が起こっても、外見で人を判断することは決してしません。真理の観点で物事を見て、あなたの御業を残らず受け入れなければならないのです。あなたの御業を見通せなくても、それはすべて正しいと信じます。人間の観点から物事を分析したり、検証したりすることはもうしません。私は真理の側に立ち、あなたの証しをすべく常に自分を戒めてまいります。

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