自らの本分への専心

2021年1月30日

私は以前、神をたたえて歌い踊る兄弟姉妹を見ると――羨ましいと思っていました。自分も舞台上で歌い、神に証しできる日を夢見て――それほど名誉なことはないと思っていました。その日は、思っていたよりも早くやってきました。

2018年5月、「神の国の讃歌」の合唱の練習に加わることになったのです。当初、歌や踊りを習ったことのない私にとって、練習はとても大変でした。歌うときは緊張で顔がこわばり――踊るときは、いつもテンポがずれていました。でも、へこたれませんでした。「神の国の讃歌」は、すべての人類に対する神の到来の証しだと考えると――たちまち英気が養われ、祈りを続けられました。歌と踊りに全力を注ごうと、心に決めていました。次第に、神に導かれ――数カ月後には、落ち着いて取り組めるようになりました。兄弟姉妹の表現を指導するほどにもなりました。自分に満足するようになった私は、思いました。「私の表現と動きは今や突出している撮影では、間違いなく最前列に置かれるだろうその映像を、故郷の兄弟姉妹が見たら――飛びあがって喜ぶはずきっと羨ましがり、私を尊敬するわ」そう考えるとうれしくて、いくらでも練習への力が湧いてきました。練習で汗まみれになって体が痛んでも、気が休まりませんでした。十分に動けていないと、前列に置いてもらえないかもしれません。そうなれば、自分を見てもらうチャンスが減ってしまいます。どれだけつらく難しい練習も、最善を尽くす必要がありました。撮影が近づいたあるとき、監督が出演者の立ち位置を発表しました。ドキドキしながらリストを開いて、自分の名前を探すと――私の名前は7列目にありました。一瞬、自分の目を疑いました。なぜ私がそんなに後ろなの? 何かの間違いでは? 私の表現と動きは完璧だった兄弟姉妹の練習の手伝いだってしていた私は前列に配置されるべきよなのに後列だなんて映像に映らなければ、私のシーンがなければ――兄弟姉妹に気づいてもらえないその思いから、私は不満を募らせました。その後の練習では、歌に喜びを込めることも、踊りに力を注ぐこともできませんでした。いつも、ふてくされていて――表現や動きの良くない姉妹が前3列にいるのを見ると、特に不機嫌になりました。理解できなかったのです。彼女たちの何が私より優れているの? なぜ彼女たちが前列で、私が後列に押しやられるの? 嫉妬に駆られ、現実を受け入れられずにいました。そんなとき、気づきました。概して私よりも上手な兄弟姉妹が――さらに後列に置かれていたのです。でも彼らは、そんなことは全く関係ないかのように――穏やかに練習に取り組んでいました。私は戸惑いました。彼らは後列でも、従順かつ活発に本分を尽くしているなぜ私には、それが難しいの? なぜ従えないの? 私は間違ってるの? そんな自責の念に少し駆られましたが――真理を求めて内省することはありませんでした。自分の立ち位置について、まだ納得できていなかったのです。

数日後、監督が出演者の配置を少し変更しました。前列に移動できるだろうかと、ひそかに期待しました。でも変更結果を見て、泣きたくなりました。私は、カメラに映りそうもない――最後列の端っこに配置されていました。それよりも驚いたのは――練習に参加して間もない姉妹たちが私の真ん前の位置だったのです。私は心を打ち砕かれ、平静を失いました。映像に出演するために、表現と動きを懸命に練習してきたのに――なぜ、ろくに映りもしない位置に格下げなの? これでは顔が映るチャンスは少しもない。私は小道具も同然だわ出演する意味なんてある? このことが分かっていたら、練習に励んだりしなかった心が折れた私は、事実を受け入れられずにいました。その数日後、練習中に足首を捻挫しました。私は思いました。「これで捻挫を理由に休める。くたくたになるまで毎日頑張る必要もない」「後列なのだから、どうせ誰にも見られない。練習を頑張る必要なんかある?」私は練習を遅刻早退するようになり、練習がきつくなると脇で休むようになりました。それに気づいた姉妹たちが、私に言いました。「もうすぐ撮影が始まる練習に参加していなければ、周りの人と息が合わなくなるもたもたしてる暇はないわ」そう言われて私は動揺し、申し訳なくなりました。撮影日は20日間しかありませんでした。私が練習に打ち込まなければ、映像制作が遅れてしまうかもしれません。皆に迷惑をかけてしまいます。突然、怖くなりました。なぜ私は、そこまで堕落していたのでしょう。自分を振り返り、気づきました。後列に追いやられ、注目される機会を失ってからというもの――言い訳をして抵抗し、自分の本分に対する意欲を失っていました。最低限のことを形だけ行い――神に抵抗し、敵対していました。悪化する一方の捻挫は、神が私を懲らしめていたのでしょう。そのまま抵抗を続けていれば、注目を浴びるどころか――出演することもできず、本分を失いすらしていたでしょう。その晩、苦悩と自責の念のなか、ひざまずいて祈りました。「神様後列に配置されたことで、私は気分を害していました不満を募らせて従うことができず――本分を十分に尽くさず、おろそかにしていました反抗的な態度で、あなたを失望させました神様、この状態から抜け出せるよう、お導きください」。

そして、御言葉を読みました。「地位や体面、名声に触れるとすぐ、みな期待に胸を躍らせ、自分が傑出し、名声や評価を得ることをいつも欲します。誰も譲歩したがらず、競うことは恥であり、神の家では許されないにもかかわらず、常に競おうとします。競争しないと気が済まないのです。あなたがたは、傑出した者を見ると嫉妬し、憎み、不公平だと感じます。『自分が傑出できないのはなぜだろう。傑出するのが常にあの人で、自分の番が回ってこないのはなぜだろう』。そして一種の憤りを感じます。あなたがたはそれを抑えようとしても抑えられません。神に祈り、しばらく気分が楽になるものの、そのような状況に再び直面するやいなや、それを克服できません。それは未熟な霊的背丈を示すものではありませんか。こうした状態に陥ることは罠ではないですか。これらは人を束縛する、サタンの堕落した本性の足かせなのです。これらの堕落した性質を捨て去ったなら、その人は自由で解放されているのではないですか。次のことを考えてみなさい。こうした状況に陥るのを避け、それらから逃れ、こうした物事の苦痛や束縛から自由になりたいなら、その人はどのような変化を遂げなければならないのか。真に自由になって解放されるのに先立ち、その人は何を得なければならないのか。その一方で、人は物事を見抜けなければなりません。つまり、名声や富や地位は、サタンが人々を堕落させ、罠にはめ、傷つけ、堕落させるために用いる道具に過ぎないのです。理論的に言えば、あなたはまずこのことについてはっきり認識しなければなりません。さらに、これらの物事を捨てて脇にのけることを学ぶ必要があります。さもないと、葛藤すればするほど闇に包まれ、嫉妬や憎しみを感じ、欲望が強くなるだけです。欲望が強くなればなるほどそれを得られなくなり、得るものが少ないほど憎しみが増します。憎しみが増すにつれ、あなたの内面は一層暗くなります。内面が暗くなればなるほど本分を立派に尽くさないようになり、本分を立派に尽くさないほどあなたは無益になります。これは相互に関連する悪循環です。こうした状態では本分を立派に尽くすことができないので、あなたは次第に淘汰されます(「真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。これを読み、少し目が覚めました。御言葉は、私の状態を正確に暴いていました。私は合唱に加わってから――練習に慣れるにつれ、兄弟姉妹の表現練習も指導するようにもなりました。自分は皆より優れている。撮影では前列に立てるだろう「この作品で注目を浴びるかも」そう期待して、全力で取り組みました。苦しく疲れるものでも嫌がらず、表現と動きの練習に専念しました。でも自分の立ち位置がはるか後方であることが分かり――注目を浴びるという期待は打ち砕かれました。私は監督の考えに不満を抱き――前列のメンバーを認めず、彼らに嫉妬しました。不当な配置だと誤解して、不平を言いました。神を説得して張り合おうと試み、後ろ向きな態度で本分をなおざりにしました。練習に力を注いだことを後悔すらしました。そんな自分の動機や態度を振り返り、気づきました。私は本分を尽くすに当たって、神の意図や神への証しを――考慮していませんでした。それどころか、注目を集めたい、人々から尊敬されたいと思っていました。それは、自分の評判と地位のために奮闘していただけではないでしょうか。なんて自己中心的で卑劣だったのでしょう。合唱に参加できたのは、神が私を引き上げていたからです。でも私は良心と理知に欠き――本分を尽くして神を満たす方法を考えずに、自分が注目を浴びようと尽力しました。注目を集められないと分かると怒って不満を言い、どんどん暗闇へ落ちていきました。ついには本分を十分に尽くさず、神を怒らせました。そんな私は、サタンのわなに陥っていたのでは? 出演せずに舞台裏で本分を尽くす兄弟姉妹たちも存在しました。彼らは文句も言わずに、地に足をつけて懸命に働いていました。彼らに比べたら、私には何の価値もありません。善悪を見定められない私には、神に多大なる借りがある「反抗をやめ、神に悔い改めたい」そう思いました。

その後、神の御言葉を読みました。「あなたは、そうした物事を捨て去って脇にのけ、他人を推薦し、他人が傑出するのを認められるようにならなければなりません。傑出したり栄誉を得られたりする機会が到来した瞬間、それを利用しようと争ったり、焦ったりしてはいけません。引き下がることを覚えて、本分を尽くすことを遅らせてはなりません。人知れず静かに本分を尽くす人、本分を尽くしつつ他人に自己顕示しない人になりなさい。捨て去れば捨て去るほど、心は一層安らかになり、心の中にますます余裕ができて、自分の状態も改善されます。葛藤して競えば競うほど、自分の状態は暗くなります。それが信じられなければ試してみればいいでしょう。こうした状態を解決したいと望み、そうした物事に支配されたくないのであれば、まずはそれらを捨て去る必要があります(「真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は、実践の道を与えてくれました。私に必要なのは――注目を浴びたいと思ったときに、神に祈り、自分自身に背き、願望を手放すこと。神の要求に一致する本分の尽くし方を、もっと考えること。そして、自分の動きを正し、しっかり歌うことでした。「神の国の讃歌」への出演は、自分の立ち位置にかかわらず――被造物として本分を尽くす機会であることに気づきました。神は、人々が本分に専念しているかどうかを、立ち位置で判断しません。誠実さと、真理を実践し、神に従っているかどうかで判断します。神の意図を理解したことで気持ちが和らいだ私は、こう祈りました。「神様。もう、あなたに逆らいたくありません自分の立ち位置がどこであろうと、誰からも見えない最後列であろうと――あなたを満足させるために、本分を尽くす所存です」。

その後の練習では、いつも私は後ろ2列にいました。このままでは一度も映らず、誰からも褒めてもらえないかもしれないそんな思いが頭をよぎり――迷いが生じることもありました。そんなときは急いで、心が落ち着くよう神に祈りました。そして、じっくり考えました。それぞれの歌詞に神が要求されるものを――どう表現するか、振り付けをどう力いっぱい踊るか。それらのことに全身全霊を注ぐようになると――すぐ近くに神を感じられ、自分の立ち位置が気にならなくなりました。すると驚くことに――撮影日が近づくにつれて、私は前方へ前方へと移動になったのです。私が映るシーンすら与えられました。実践の機会を与えてくれた神に感謝しました。撮影の日々も、私は感謝の気持ちを持って過ごしました。本分に悔いが残らないよう、撮影のたびに心血を注ぎました。最後のシーンになると、私は――カメラからすぐそばの最前列に配置されました。ただただ驚きながらも、心から光栄に思いました。何度も神に感謝し、素晴らしい表現をしようと心に決めました。私は心を弾ませながら、最前列へ行きました。すると、あらゆるライトとカメラが私に向けられ――姉妹が駆け寄ってきて、衣装、メイク、ヘアスタイルを整えてくれました。突然、注目を一心に浴び、皆が自分を見ているかのような感覚を覚え――沸き上がる興奮を抑えられませんでした。最前列に立てるとは夢にも思っていませんでした。撮影がうまくいけば、きっと大勢の人々に自分を見てもらえる名声を得られるかもしれない自分の中で、言葉にできない思いが高まりました。その瞬間――自分が正しい状態にないことに気づきました。私は再び、注目を集めたいと願っていたのです。すぐに神に祈り、自分に背こうとしました。それでも間違った考えを抑えきれず――落ち着くことができませんでした。2~3テイク撮っても、集中できません。すると監督が言いました。正しい心構えを持つように私は不安になりました。監督は私の表現が悪いと思ったのではないか。私を再び後ろにやるのではないかそうすれば、自分を見てもらえる機会を失うのではないかでも、自分の利益ばかり考えてはいけないことに気づきました。本分を尽くせるように、自分の状態を調整できなければなりません。心の中で、激しい葛藤が起こりました。しっかり本分を尽くしたい思いと、注目を浴びる機会を失う不安との葛藤でした。結果、ひどく緊張しました。5テイク連続で撮影しましたが、ずっと集中できずに顔がこわばっていました。撮影を終えると、自分が学んだことを興奮して話す姉妹たちの姿を見ました。感動のあまり、泣き出す姉妹もいました。自らを鼓舞することができなかった私は、落胆し――すぐにその場を後にしました。

帰り道では――ちゃんと撮影で表現できなかったことに対する罪悪感でいっぱいでした。兄弟姉妹は皆、誠実な心と純真な笑顔を神にささげたというのに――私は、自分が目立つことしか考えていませんでした。神への証しにおいて、私の表現は全く十分ではありませんでした。神は私の本分に満足しないでしょう。大声で泣きたい気分でした。神に言いました。「神様、最後のシーンの撮影に後悔していますもう注目を集めたいなんて思いません誰からも見えない、カメラからも見えない後方に戻りたいですあなたのために、純粋で誠実な心で歌うことさえできれば――幸せで穏やかな気持ちになり、罪悪感を持つこともありませんでも、もう遅すぎます。借りを埋め合わせできません」そう思えば思うほど心が痛み、自分の本分の尽くし方を悔やみました。

心を落ち着かせ、よく考えました。なぜ、肉に背き、真理を実践することが難しくなるほど――目立ち、注目を浴びたいという思いが強いのか。そして、神の御言葉を読みました。「あなたが何を好み、何に注目し、何を崇拝し、何をうらやみ、毎日心の中で何について考えているのかは、みなあなたの本性を表している。あなたの本性は不義を好み、深刻な場合はあなたの本性は邪悪で救い難いと証明するにはこれで十分だ。あなたはそのように自分の本性を分析すべきである。つまり、自分が生活において何を好み、何を捨てるのかを検証しなさい。あなたは一時的には誰かに好意的かもしれないが、それはあなたがその人を好きだという証拠にはならない。あなたがほんとうに好きな物事は、まさにあなたの本性の中にあるものである。たとえ骨折しようが、なお楽しみ、決して手放すことのできないものである。これを変えるのは容易ではない(「性質の変化について知るべきこと」『キリストの言葉の記録』)。「人々が自分の本性の中で好んでいるものを掘り下げることに加え、自分の本性に関するその他の側面もまた掘り下げる必要があります。たとえば、物事への視点、人の生き様と人生の目標、人生に対する価値観と人生観、そして真理に関するあらゆることへの観点です。それらはみな、人の魂の奥深くに存在する事柄であり、性質の変化と直接関係しています(「性質の変化について知るべきこと」『キリストの言葉の記録』)。御言葉によって、私は理解できました。人間が考え、好み、追求するものはすべて、本性から生じています。そして、本性に支配されているのです。私は自分に問いかけました。本分において、ずっと私が重視し、追求していたものは何だろう自分の立ち位置が前方に近づくにつれ――より頻繁にカメラに映るようになりました。前列に立って注目され、周りの羨望と尊敬を一身に集められるかもしれないそのことばかり、考えるようになりました。特に、最前列に立った最後のシーンでは――偉業を達成したスターになったような気分でした。もはや自分の願望をコントロールできませんでした。注目されたい。カメラに自分の最高の顔を見せたい私を知る兄弟姉妹を驚かせ――自分にとって一生の素晴らしい思い出にしたい私にはそれほど名声が大切で、心に深く潜り込んでいたのです。その考えは心の奥深くまで潜り込み、私の本性そのものになっていました。その後、神の御言葉を読みました。「堕落したサタン的性質は人々にとても深く根ざし、彼らのいのちになっています。人々はいったい何を求め、何を得ようと望んでいるのでしょうか。堕落したサタン的性質に突き動かされている人の理想、希望、野心、および人生の目標と方向はどのようなものでしょうか。それらは肯定的な物事に真っ向から反しているのではないですか。まず、人は名声を得て有名人になることを常に望んでいます。大きな名声と信望を得て、先祖に栄誉をもたらすことを望んでいるのです。それらは肯定的な物事ですか。それらは肯定的な物事とまったく一致しません。そのうえ、神が人類の運命を支配しているという法則にも真っ向から反しています。わたしがそのように言うのはなぜでしょうか。どのような人を神は望んでいますか。偉人、有名人、高貴な人、あるいは世を揺るがす人を望んでいるのですか。(違います。)では、神はどのような人を望んでいるのですか。神が望んでいるのは、地に足をつけ、神の被造物にふさわしくなることを求め、被造物の本分を尽くすことができ、人間の立場を守れる人です(「真理を探し求め神に頼ることだけが堕落した性質を解決できる」『キリストの言葉の記録』)。「あなたはいつも偉大さや崇高さや威厳を求めています。つまり称揚されることをいつも求めているのです。神はこれを見てどのように感じますか。神はそれを憎み、見たいとも思いません。あなたが偉大さや崇高さ、あるいは他人に優ること、卓越すること、傑出すること、注目されることを追い求めるほど、神はあなたに嫌悪を抱きます。神に嫌悪される人になってはいけません! では、どのようにすればそれを実現できますか。人の立場に立ちつつ、着実に物事を行ないなさい。ぼんやり夢を見たり、名声を求めたり、傑出しようとしたりしてはならず、それ以上に、すべての人を超える偉人、あるいは人々の中で傑出し、他人に崇められる人になろうとしてはいけません。それはサタンが歩む道であり、神はそのような被造物を望みません。最後に神の働きがすべて終わるとき、このようなことを追い求める人が依然としているなら、その人の結末は一つしかありません。すなわち淘汰です(『キリストの言葉の記録』より引用)。この御言葉で、私は目が覚めました。なぜ、私は目立つことを好むのか。なぜ、それほど虚栄心が強いのか。それはすべて、サタンの教育と堕落によるものでした。「出世して先祖に栄誉をもたらす」「人は上をめざし、水は下に流れる」これらの毒が浸透し――間違った人生観を私に与えていました。私は評判と地位を求め、他者より良い生活を送ることを前向きにとらえ――人生の目標にしていました。何をするにしても注目を集めたい、他者から尊敬されたいと願い――羨まれたいと思っていました。他者より良い人生を送ることが、名誉なことだと思っていました。だから評判と地位への愛が強かったのです。それまでも、学校や他者との関係において――常に自分が優れていたいと思っていました。皆より先を行き、脚光を浴びたいと願っていました。誰かに注目してもらえると、うれしくてたまりませんでした。どんなときも、誰からも気づかれず、何の結果も残せないと――我慢できませんでした。地位を得るために戦い、失敗すると苦痛でした。サタンに毒された状態で生き、いつも他者から尊敬されたいと思っていました。そういった思いは、まるで足かせのように、私の考えを支配していたのです。結果、神への証しとなる映像制作を、自分を誇示する道具のように感じていました。自らの本分を、願望を満たす踏み台のようにとらえ――注目を浴びる方法しか考えていませんでした。本分を尽くすことや、神を満たすことは頭になかったのです。私のサタンの毒と性質は、解消されていませんでした。本分を尽くして神を満たせないどころか――神に背き抵抗した私は、排除されてしまうでしょう。

その後、このような神の御言葉を読みました。「神が人に求めるのは、ある一定数の仕事を完了させたり、何らかの大事業を成し遂げたりする能力ではありません。また神は、その人たちが何らかの大事業に乗り出すことも必要としていません。神が望むのは、人々が地に足をつけて全力を尽くし、神の言葉通りに生きられるようになることです。あなたが偉大になったり栄誉を得たりすること、あるいは何らかの奇跡を起こすことを神は必要としておらず、またあなたの中に何らかの嬉しい驚きを見出すことも望んでいません。神はそのようなことを必要としていないのです。神が必要としているのはひとえに、あなたが神の言葉に耳を傾けることであり、また聞いたあとはそれを心に留め、地に足をつけてその通りに実践することです。それによって神の言葉はあなたが生きるもの、あなたのいのちとなります。このようにして神の旨は満たされるのです(『キリストの言葉の記録』より引用)。神の意図とは、私たちが真理を追求し、完全に正直な人間になることです。そして神の取り決めと采配に従い、全力で本分を尽くすことです。そのために私たちが努力することで、神は満たされます。私は、その意図を理解せず、評判と地位を心から追い求めていました。その結果、本分を尽くせず、神を失望させてしまいました。でも、ひどく堕落していた私を、神は見捨てませんでした。私の立ち位置を何度も変えることで、誤った見方を暴きました。それによって私は、自分の堕落したサタンの性質に気づき、考えを正し、変わることができました。そんな神の愛に、深く感動しました。そして祈りをささげました。「神様、もう私は目立ちたいとも尊敬されたいとも思いませんそのような願望は、私を苦しめるだけです本分において、神様を満たせず、罪の意識に悩まされてしまいます今後は、神様の御言葉に沿った実践だけを望みます立ち位置や、注目を集められるかどうかに関係なく――神様に対する従順な心で、神様をたたえて歌うことで本分を尽くし――神様を満たすことだけを願います」その後のリテイクでは――後列に行くことも、前列に行くこともありました。練習だけに参加して、撮影には参加しないこともありました。それによって動揺することもありました。それでも神に祈り、御言葉を読み上げることで考え方を調整し――利己的な願望を手放すことができました。立ち位置が変わった影響で、本分を尽くせない姉妹を――見かけることもありました。そんなときは、関連する神の御言葉を見つけ――自分の経験に関連づけて、姉妹を助けられました。この本分の尽くし方は、心が静まる有意義なものでした。その後、監督は再び、私を前列に立たせました。でも、もう私は目立とうとはしませんでした。「カメラに映ることは、私の責任であり証しである」そう感じました。そして、しっかり歌い、本分を尽くすことに専念しました。あるシーンで、私は最後列にいました。こんな御言葉を歌うシーンでした。「勝利の旗を揚げて神のために祝え!」「勝利の歌を歌い、神の聖なる名を広めよ!」私は思いました。サタンによって堕落させられ、評判と地位を求めたことで――神を満たすための本分を尽くせず、神を深く傷つけてしまった今日は、心から神をたたえなければならない。神に最高の歌をささげなければそうすればサタンは恥じ入り、打ち負かされるだろうその思いで、神をたたえて歌っていると――それまでに経験したことのない心の平安と、喜びを感じました。誇りと正義も感じられました。

大規模な合唱作品「神の国の讃歌」は、ほどなくしてネット上で公開され――兄弟姉妹も私たちも皆、その映像を興奮しながら見ました。映像では、大勢の神の選民たちが、オリーブ山の前で誇り高く歌っていました。その「人々は歓声を上げ、神を讃える」の様子に――私の心は深い感動に震え、感謝の涙があふれ出てきました。この出来事を1つずつ思い返すと――最初は、立ち位置に左右され、本分に心血を注げませんでした。でも最後には、評判と地位への願望に惑わされなくなり――前列でも後列でも、気にならなくなりました。ただ被造物としての立場で、自由に歌い、神への証しをしました。それはすべて、私に対する神の働きの実りでした。神に感謝を。

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