唯一無二の神自身 II.
神の義なる性質
神の権威に関する前回の話を聴いたので、あなたがたはこのことについて多くの言葉を得たものとわたしは確信しています。どれほどを受け入れ、把握し、理解できるかは、どれほどの努力を注ぐかにかかっています。あなたがたが熱心に取り組むことを願います。決して中途半端な気持ちで取り組んではなりません。さて、神の権威を知ることは、神のすべてを知ることに等しいですか。神の権威を知ることは、唯一無二の神自身を知ることの始まりであると言うことができます。また、神の権威を知ることは、唯一無二の神自身の本質を理解することの入り口に足を踏み入れたことである、とも言えます。この認識は神を知ることの一部です。では、他の部分は何ですか。それが今日あなたがたに伝えたいこと、すなわち神の義なる性質です。
本日の主題について話すために、聖句を二箇所選択しました。最初の聖句は、創世記19章1~11節と創世記19章24~25節で、神のソドム破壊についてです。二番目の聖句は、ヨナ書1章1~2節、さらにヨナ書3章と4章で、神のニネベ救済についてです。これら二箇所の聖句に関するわたしの話を、あなたがたは楽しみにしていることでしょう。わたしの話は当然ながら神自身と神の本質を知るという主題を超えられませんが、今日の話の焦点はいったい何ですか。あなたがたの中にわかる人はいますか。神の権威についての話のどの部分があなたがたの注意をひきましたか。そのような権威と力があるのは神自身だけである、とわたしが言ったのはなぜですか。そう言うことでわたしは何を解明したかったのですか。わたしがあなたがたにそこから学んでほしかったことは何ですか。神の権威と力は、神の本質が示される側面のひとつですか。それらは神の本質の一部ですか。神の身分と地位を証明する一部分ですか。これらの質問から、わたしがこれから何を言おうとしているかわかります。あなたがたに何を理解してもらいたいのですか。このことを注意深く考えなさい。
頑なに神に反対する人は、神の怒りが破壊する
まず、神のソドム破壊に関する聖句を検討しましょう。
創世記 19:1-11 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。
創世記 19:24-25 ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
これらの聖句から、ソドムの罪と堕落はすでに人間にとっても神にとっても憎むべき程度まで達していたこと、そのために神の観点から見るとソドムは破壊されて然るべきであったことは容易に読み取ることができます。けれど、破壊される前のソドムの町で何があったのですか。その出来事から人は何を学べますか。出来事に対する神の姿勢は、神の性質について人に何を示していますか。逸話を全体的に把握するため、聖句に記されていることを精読しましょう……
ソドムの堕落――人間を怒らせ、神を激怒させる
その夜、ロトは二人の神の使いを迎え、彼らのために食事を用意しました。食事の後、使いが休む前に、町中の人々がロトの家を取り囲み、ロトに叫びました。聖句では、人々が「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」と言ったと記録しています。この言葉を言ったのは誰ですか。この言葉は誰に対するものですか。それはソドムの住民の言葉であり、ロトの家の外でロトに向けて叫ばれました。このような言葉を聞いたら、どのように感じますか。怒りますか。気分が悪くなりますか。激しい怒りがこみ上げてきますか。この言葉はサタンの匂いがしませんか。この言葉を通して、ソドムの邪悪と闇を感じられますか。言葉にソドムの住民の残忍さと野蛮さを感じることができますか。彼らの態度から、堕落の深刻さを感じることができますか。言葉の内容から、ソドムの住民の邪悪な本質と残忍な性質が本人たちが制御できない程度に達していたことを理解するのは困難ではありません。ロト以外のソドムの住民はみなサタンと何ら変わらず、誰かを見かけただけで、その人を傷つけ食い物にしたい衝動に駆られるのです。こうしたことから、この町の恐ろしい本性をうかがい知ることができるだけでなく、この町にただよう死の雰囲気、邪悪さや血なまぐささをも感じ取ることができます。
人間の魂を食い物にする野蛮な欲望に満ちた非人間的な悪党と対面したロトは、どのように答えましたか。聖句には、「どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」とあります。こう言ったロトの本意は、使いを守るためなら、自分の娘二人を失うことも辞さない、ということでした。どのように筋道を立てて考えても、彼らはロトの提案を受け容れ、二人の使いを煩わせるべきではありませんでした。なぜなら、使いはソドムの住民にとってまったくの他人であり、何の関係もなく、彼らの不利益になるようなことをしたこともなかったからです。しかし、ソドムの住民は邪悪な本性のせいで、それで一件を落着させるどころか、よけいに態度が激しくなりました。彼らのやり取りの一つから、ソドムの住民の邪悪な本性を疑いなく察することができると同時に、神がなぜソドムを破壊することを望んだのかを理解し納得することができます。
それでは、ソドムの住民は次に何と言いましたか。聖書によると、こうです。「『退け』。また言った、『この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう』。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした」。彼らはなぜロトの戸を破ろうとしたのですか。それは、ソドムの住民は二人の使いにどうしても危害を加えたかったからです。二人の使者はなぜソドムに来たのですか。この使いは、ロトとその家族を救うために来たのですが、住民は彼らが来たのは公務に就くためであると勘違いしていました。使いの目的を尋ねることもなく、憶測だけで二人を乱暴に攻撃しようとしました。つまり、ソドムの住民は自分たちにまったく関係のない人を傷つけたかったのです。ソドムの住民が完全に人間性と理知を失っていたことは明らかです。彼らの狂気と凶暴さは、人間を傷つけ、食い尽くそうとするサタンの邪悪な本性と違いませんでした。
住民が使いを引き渡すようにロトに要求したとき、ロトはどうしましたか。聖句から、ロトは使いを引き渡さなかったことが分かります。ロトはこの二人の神の使いを知っていましたか。もちろん、知りませんでした。ではなぜ、ロトはこの二人を救うことができたのですか。ロトは二人が何をしに来たのか知っていましたか。ロトは二人が来た目的を知りませんでしたが、二人が神のしもべであることは知っていました。だから二人を自分の家に迎え入れたのです。ロトが二人の神のしもべを「わが主」と呼んでいたことは、ロトがソドムの住民とは違って、常日頃から神に従っていたことを示しています。したがって、神の使いがロトのところへ来たとき、ロトは自らの命を危険にさらして彼らを家に招き入れたのです。さらに、二人を守るために自分の娘二人を身代わりにしようとしました。これはロトの義なる行為で、ロトの本性実質の具体的な表れであり、また神がロトを救うためにしもべを送った理由でもありました。危機に遭遇しても、ロトは何を省みることもなく二人の神のしもべを守り、自分の娘二人を身代わりにしてしもべの安全を守ろうとさえしました。ロト以外に、このようなことをしたかもしれない人がソドムの町にいましたか。誰もいなかったというのが事実です。したがって、ロトを除き、ソドムの住民は全員滅びの対象とされたのは明らかで、そうなったのは当然の報いだったのです。
ソドムは神の怒りを引き起こしたために滅ぼされた
ソドムの住民が二人の神のしもべを見たとき、彼らは来訪の目的を尋ねることも、神の心意を広めるために来たのかどうかを尋ねることもしませんでした。それとは反対に、彼らは徒党を組み、あたかも野良犬か凶暴な狼であるかのように、物も言わせずしもべを捉えようとしました。神はこの出来事が起こっているのを見ていましたか。このような人間の振る舞い、このような出来事について神は心の中で何を考えていたでしょうか。神はこの町を滅ぼすことを決定し、躊躇して待つことも、もう少し忍耐することもありませんでした。その日が訪れたので、神は望む通りに働きを行ないました。そのため、創世記19章24~25節には、「ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた」とあります。この聖句二節では、神がこの町を滅ぼした方法と、神が何を滅ぼしたかが記されています。聖書では、神がこの町を火で焼いたことが最初に述べられており、その火の威力はすべての人と地の草木をすべて滅ぼすに十分であったと記されています。つまり、天から降った火は、町を破壊しただけでなく、町中の人と生きとし生けるものすべてを跡形もなく滅ぼしました。町が滅ぼされた後、土地には生き物がまったく残っていませんでした。もはや生き物が存在せず、生き物の形跡もありません。町は不毛の地となり、そこは死の静寂が満ちていました。虐殺や流血騒ぎなど、神に反する邪悪な行いは、もはやこの地には起こらないのです。
なぜ神はこれほど徹底的にこの地を焼き尽くしたかったのですか。ここから何がわかりますか。神は自身が造った人類や万物がこのように破壊されるのを見ていることに本当に耐えられたのですか。天から降った火にヤーウェ神の怒りを識別することができれば、破壊の対象とソドムの町の破壊の程度から判断して、ヤーウェ神の怒りがどれほど大きかったかを理解するのはそれほど困難ではありません。神がある町を軽蔑すると、神はその町に罰を下します。神がある町を嫌悪すると、神は怒りをその町の住民に伝えるために繰り返し警告を発します。しかし、神がある町を滅ぼすと決めれば、つまり、神の怒りと威厳が侵されたならば、神はそれ以上の罰や警告を与えず、代わりにその町を直接に破壊します。神はその町を完全に消滅させます。これが神の義なる性質です。
ソドムによる神への敵対と抵抗の繰り返しの後、神はソドムを徹底的に根絶した
わたしたちは神の義なる性質を全般的に理解したのですから、今は神が罪の町とみなしたソドムに再び注意を向けます。ソドムの町の実質を理解することで、神がなぜこの町を破壊したかったのか、そしてなぜ神がそこまで完全に破壊したのかを理解することができます。それにより、神の義なる性質がわかるようになります。
人間の視点から見ると、ソドムは人間の欲望と邪悪さを完全に満足させることができる町でした。毎晩のように音楽と踊りがあり、魅力的で心をそそるソドムの栄華は、人を魅了し狂気に駆り立てます。ソドムの邪悪さが人間の心を蝕み、人間を誘惑して退廃させました。ソドムは、穢れた悪霊がたけり狂う町でした。罪と殺人があふれ、その空気は血なまぐさい死臭がしました。ソドムは、人々が恐怖で凍り付き、恐れて逃げ出すような町でした。ソドムでは、老若男女を問わず、誰ひとりとして真理の道を求めず、光を求めて罪から立ち去ることを願う者はいませんでした。人々はサタンの支配の下で、サタンの堕落と偽りの下で生活していました。人々は人間性を失い、思慮分別を失い、人間としての存在の元来の目的を見失っていました。人々は神に逆らう数え切れない悪行を犯し、神の導きを拒み、神の心に反発しました。ソドムの町、人々と生き物すべてを徐々に破壊へと追いやったのは、人々の邪悪な行動でした。
この二つの聖句には、二人の神のしもべがソドムに到着してからのソドムの住民の彼らへの行動が記録されており、ソドムの住民の堕落の程度については詳細に記録されていません。しかし、単純な事実によりどれほどソドムの住民が堕落し、邪悪で、神に反抗していたかが明らかです。それにより、ソドムの住民の素顔と実質も暴露されています。彼らは神の警告を受け容れなかったのみならず、神の懲罰をも恐れませんでした。それどころか、神の怒りを侮蔑していました。盲目的に神に反抗していたのです。神が何をどのようにしたとしても、ソドムの住民の邪悪な本性は強くなるばかりで、神への敵対を繰り返しました。彼らは神の存在、神の訪れ、神の罰、そしてとりわけ神の警告に対して敵意を抱いていました。ソドムの住民は過度に傲慢で、自分たちが傷つけ、食い物にできる人すべてを傷つけ、食い物とし、神のしもべもそのように扱いました。彼らの邪悪な所行全てを考慮すると、神のしもべを傷つけたことは氷山の一角に過ぎず、それにより暴露された彼らの邪悪さは、大いなる海のひとしずくに過ぎません。したがって、神はソドムの住民を火で破壊することに決めたのです。神は洪水や嵐、地震、津波など他の方法は用いませんでした。神がソドムの破壊に火を用いたことは、何を意味しましたか。それは町の完全なる破壊を意味しました。それは、ソドムの町という存在が地球上から完全に消滅したことを意味しました。ここで言う「破壊」とは、町の形態や構造や外観が消滅しただけでなく、町の中にいた人々の魂も消え去り、根絶されたということを意味します。簡単に言えば、ソドムに関係するすべての人々、出来事、物が破壊されたということです。ソドムの住民には来世や再生はなく、神は自らが創造した人類から彼らを永久に根絶させました。火の使用は、その場所での罪の終わり、そこで罪が阻止されたことを意味します。その罪は消滅し、広まることがありません。それは、サタンの邪悪はその温床と、さらに滞在場所であった墓さえも奪われたことを意味しました。神とサタンの戦いにおいて、神が火を用いるということは、神の勝利の証をサタンに焼き付ける烙印です。ソドムの破壊は、人間を堕落させ、虜にすることで神に対抗するサタンの野望における大いなる失策であり、また同様に、人間の発達過程において人間が神の導きを拒み、悪に身を委ねた時期の屈辱的な印でもあります。さらにそれは神の義なる性質を真に明示する記録でもあるのです。
神が天から降らせた火がソドムを灰にしたのは、「ソドム」という名の町と、そこにあったなにもかもがその後消滅したことを意味します。ソドムは神の怒りにより破壊され、神の怒りと威厳のうちに消滅しました。神の義なる性質のため、ソドムは正当な罰を受け、当然の終焉を迎えたのです。ソドムの存在が消滅したのは、その邪悪が原因であり、またそれはその町やそこに住んでいた人、そこに育ったあらゆる生き物を二度と見たくないという神の望みでもありました。「ソドムの町を二度と見たくない」という神の望みは、神の怒りであり、神の威厳でもあります。神がソドムを焼き尽くしたのは、その邪悪と罪が神を怒らせ、いらだたせ、激しく嫌悪させたためであり、その町やそこにいたあらゆる人、あらゆる生き物を二度と見たくないと望ませたためです。ソドムが焼け落ち、灰だけが残された後、ソドムは神の目に本当に存在しなくなり、神のソドムについての記憶すら消え去りました。このことは、天の火がソドムの町全体、罪に満ちた住民、町にあった罪に染められたあらゆるものを破壊しただけではなく、それらを超えて、人類の邪悪と神への反抗の記憶をも破壊したのです。これが神がソドムの町を焼いた目的でした。
この人類は堕落を極めていました。人は神とは誰か、自分はどこから来たのかを知らなかったのです。もし神のことを口にしようものなら、人々は攻撃し、中傷し、冒涜したでしょう。神の警告を伝えるために神の使いが来たときですら、堕落した人々は悔い改めの兆しを見せることも、自分たちの邪悪な行いを止めることもせず、それどころか、恐れ多くも神の使いを痛めつけたのです。彼らが明確に示したのは、神に対する極端な敵意からなる本性実質でした。これらの堕落した人々の神への反抗は、ただ彼らの堕落した性質の現れではなく、また、真理を認識していないゆえの誹謗中傷やひやかしに過ぎなかったわけではないことがわかります。彼らの邪悪な行ないは愚かさや無知に起因するものではなく、また騙されたからでもなく、当然ながら誤った方向へと導かれたからでもありませんでした。彼らの行ないは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、大騒ぎと同じになっていました。当然ながら、人間のこうした行ないは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになります。したがって、神は直接的かつ堂々と怒りと威厳を示しました。それは、神の義なる性質の真なる明示でした。罪に満ちた町を見た神は、最も迅速な方法でその町を滅ぼし、その町の住民とその罪のすべてを、最も完全な方法で根絶し、住民を抹殺し、そこから罪が繁殖するのを防ぎたかったのです。最も迅速で完全な方法とは、ソドムの町を火で焼きつくすことでした。ソドムの住民に対する神の姿勢は、見捨てることでも無視することでもなく、怒りと威厳、権威を用いてソドムの住民を罰し、打ちのめし、絶滅させるというものでした。彼らに対する神の姿勢は、身体的な破壊だけでなく、魂の破壊、永久の根絶でした。これが「消滅」という言葉に神が込める真意です。
神の怒りは人間には隠され未知であるが、犯すことを決して容赦しない
愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。
ソドムの町を滅ぼすために神が火を用いることは、人類や他の物を徹底的に滅ぼす神の最迅速の方法です。ソドムの住民を焼き尽くしたことで、彼らの身体だけでなく、その霊と魂と身体全体を滅ぼし、それにより物質的世界と人間には見えない世界の両方において、町にいた人々の存在の消滅が確実なものとされました。それは、神が怒りを明示し表現する方法の一つです。このような明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもあります。神が怒りを伝えるとき、神は憐れみと慈愛を明らかにするのを停止し、寛容と忍耐も一切見せません。神に引き続き忍耐強くあり、今一度憐れみと寛容を与えるように説得できる人間、物、理由は一切存在しません。それどころか神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、望むことを行ないます。神は自らの望む通りに、これを迅速かつ円滑に行ないます。人間が犯してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質の一側面を表すものでもあります。神が人間への懸念と愛を示しているのを目撃すると、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を見ることも、反抗に対する神の不寛容を感じることもできません。そのため、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると人間は信じるようになりました。しかし、神が町を滅ぼし、人類を憎悪するのを目の当たりにし、人間を滅ぼす際の神の怒り、そして神の威厳を見ることで、人間は神の義なる性質の別の側面を見ることができるようになります。これが侮辱への神の不寛容です。反抗を一切甘受することのない神の性質は、あらゆる被造物の想像を超え、非被造物にもその性質を阻んだり干渉したりできるものは存在せず、その性質を模倣したり、偽ったりすることができないのは尚更です。したがって、神の性質のこの側面は、人類が一番よく知るべきものです。この種の性質は神自身のみが持ち、神自身のみがこのような性質を備えています。神がこのような義なる性質を持っている理由は、暗闇、反逆、人間を堕落させ、食いものにするサタンの悪意に満ちた行動を神が嫌悪しているからです。神に反逆するあらゆる罪の行ないを神が嫌悪しているからであり、神の聖なる清い本質のためです。それゆえ、被造物や非被造物が神に堂々と反対したり対抗したりすることを神は甘受しないのです。たとえ、神が一度憐れみを示した人や神が選んだ人でも、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を犯すだけで、いかなる反抗をも甘受しない義なる性質を神は一切の容赦なく、躊躇なく示すのです。
神の怒りは、あらゆる正義の力と肯定的な物事を守る
神の語ること、思い、行為のこれらの例を理解することで、人間が背くことのできない神の義なる性質を理解できますか。人間がどの程度理解できるかを問わず、結局のところ、これは神自身の性質の一側面であり、それは神に特有なのです。侮辱に対する神の不寛容は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの本質です。神の怒りの背後にある原則は、神の身分と地位の証明であり、それは神のみが持つものです。この原則もまた唯一無二の神自身を象徴するものであることは、言うまでもありません。神の性質は神自身の固有の本質で、時間の経過とともに変化することも、地理的位置によって変化することもありません。神の固有の性質は、神のみにある本質です。神が誰に働きを行なおうと、神の本質も、神の義なる性質も不変です。誰かが神を怒らせたときに、神が怒りを放つのは、神固有の性質です。このとき、神の怒りの背後にある原則や、神の唯一無二の身分や地位は不変です。神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりするために神は怒るのではなく、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が神の性質に反するからです。人間の神への目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦です。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争い、神の怒りを試しているということです。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを試し続けるのは、罪がはびこるときであり、神の怒りは自然と出現します。したがって、神が怒りを示すのは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということの象徴です。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性です。神の威厳と聖さが試されたとき、正義の力が阻害され、人間に見えないとき、神は怒りを放ちます。神の本質ゆえに、神と争い、戦い、神に敵対する地上の様々な勢力はすべて邪悪であり、堕落しており不義です。それらはすべてサタンに由来し、サタンに属します。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で堕落しサタンに属するものはすべて神の怒りが発せられると消滅します。
神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面の一つですが、神の怒りは、その対象について無差別であるとか、無原則であることは決してありません。それとは反対に、神は怒りやすくなく、軽率に怒りや威厳を示すことはありません。さらに、神の怒りはきちんと制御され、調整されています。人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較になりません。聖書には、人間と神との対話が多く記録されています。対話に関わる人間の一部は、発言が浅薄で、無知で、稚拙ですが、神は彼らを打ち倒すことも、非難することもしませんでした。特に、ヨブの試練の間、ヤーウェ神はヨブの三人の友やその他の人がヨブに言ったことを聞いた後、彼らをどのように扱いましたか。神は彼らを非難しましたか。神は彼らに激怒しましたか。神はそのようなことは一切しませんでした。その代わり、神はヨブに彼らのために祈るよう命じ、神自身は彼らの誤りを気に留めることはありませんでした。これらの例はすべて、神が堕落した無知な人類を扱うおもな姿勢を示しています。したがって、神の怒りの発出は神の気分を示すものでも、神の感情のはけ口でもありません。神の怒りは、人間が考えるような完全なる憤怒の爆発ではありません。神は、気分を制しきれないから、怒りが我慢の限界を超えたので放出しなければならないから怒りを発出させるのではありません。逆に、神の怒りは神の義なる性質を示し、純粋に表現するもので、神の聖なる本質の象徴的な顕示です。神は怒りであり、侮辱されることを容赦しません。これは、神の怒りが原因に無関係ということでも、無原則であるということでもありません。原因に無関係に無原則に手当たり次第に怒りを爆発させるのは、堕落した人類が独占権をもっています。人間がひとたび地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにします。自分の力を示し、自分の地位や身分が一般人とは違うことを他人に知らしめるために、明確な理由なく人が激怒することさえ多々あります。もちろん、地位のない堕落した人間も、よく取り乱します。そのような人の怒りは、個人的利益が阻まれたせいで発生する場合が多くあります。自分の地位と尊厳を守るために、彼らはよく感情を発散させ、傲慢な本性を露わにします。人間は、罪の存在を正当化し是認するために突然激怒して感情を露わにします。そうした行動で、人は自分の不満を表すのです。このような行動は汚れや謀略に、人間の堕落と邪悪に、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちています。正義が邪悪と衝突しても、人間が正義を守り是認するために怒りを爆発させることはありません。それとは逆に、正義の勢力が脅威にさらされ、迫害され、攻撃されると、人間の態度は無視、回避、畏縮といったものになります。しかし、邪悪の勢力に対峙すると、人間は迎合し、ぺこぺこ頭を下げるといった態度を取るのです。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な勢力にとって逃げ道であり、肉なる人間の猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出なのです。しかし、神が怒りを示すときは、邪悪な勢力はすべて阻止され、人間を傷つける罪もすべて阻止され、神の働きを阻害する敵意のある勢力が明らかにされ、分離され、呪われます。そして、神に反逆するサタンの僕は罰せられて根絶されます。それらがいなくなると、神の働きは何ものにも阻害されることなく進められ、神の経営(救いの)計画は、予定通り一歩ずつ展開し続けます。神の選民はサタンの妨害や策略から解放され、神に付き従う人は、静寂で平和な環境の中で神の導きと施しを楽しむのです。神の怒りは、あらゆる邪悪の勢力の増大と横行を阻止する防衛手段であり、また義なる肯定的な物事すべての存在を守り、広め、抑圧や破壊から永久に保護する防衛手段です。
神がソドムを破壊したことに、あなたがたは神の怒りの本質を見ることができますか。神の怒りの中に、別の何かが混ざっていますか。神の怒りは純粋ですか。人間の言葉で言うと、神の怒りは汚染されていませんか。神の怒りの背後に何か策略はありますか。陰謀はありますか。口にできない秘密がありますか。わたしは断固として厳粛に言えます。神の怒りには、人が疑いをもつような部分は含まれていません。神の怒りは純粋で混じり物のない怒りであり、他の意図や目的を含んでいません。神の怒りの背後にある理由は純粋であり、一点の非もなく、非難する余地もありません。それは神の聖なる本質の自然な明示であり、いかなる被造物にもないものです。これは神の唯一無二で義なる性質の一部であり、創造主と被造物の本質における顕著な相違点の一つです。
他人の前で怒ろうと、陰で怒ろうと、人が怒るとき、そこには必ず様々な意図と目的があります。自分の威信を高めようとしている場合、自らの利益を守ろうとしている場合、自分の外聞や面目を保とうとしている場合などがあります。自分の怒りを抑えるようとする人もいれば、まったく抑えようとせず、好きなときに心ゆくまで怒りを露わにする人もいます。つまり、人間の怒りは、その堕落した性質に由来するのです。目的が何であれ、怒りは人間の肉や本性から来るもので、義や不義とは無関係です。なぜなら、人間の本性実質には真理に相当するものが皆無だからです。したがって、堕落した人類の不機嫌と神の怒りを、同じ次元で議論するべきではありません。サタンに堕落させられた人間の行動は、例外なく堕落を保護したいという願望から始まり、堕落に基づいています。だから、人間の怒りと神の怒りは、人間の怒りが理論上どれほど妥当であるように思われようと、同じ次元で議論すべきではありません。神が怒りを示すとき、邪悪な勢力が阻止され、邪悪な物事が破壊される一方、義であり肯定的な物事は、神の慈しみと保護を与えられ、存続することが許されます。神が怒りを伝えるのは、不義で否定的で邪悪な物事が、正義で肯定的な物事の通常の活動と発達を妨害し、攪乱し、破壊するからです。神の怒りの目的は神自身の地位や身分を守るためではなく、義であり、肯定的であり、美しく善なるもの、そして人類の正常な生存の掟と秩序を守るためです。これが神の怒りの根本的な原因です。神の怒りは極めて適切で、自然であり、神の性質の真の明示です。神の怒りには、隠れた意図がなく、虚偽や策略もなく、欲望も狡猾さも悪意も暴力も邪悪も、その他の堕落した人類に共通する特徴も一切存在しません。怒りを伝える前に、神はすでにあらゆる物事の実質を極めて明瞭かつ完全に把握しており、また正確かつ明瞭な定義と結論を導き出しています。それゆえ、神のあらゆる業の目的は、神の姿勢と同様、極めて明確です。神の心に混乱はなく、神は盲目でも、衝動的でも、軽率でもなく、そしてなによりも無原則ではありません。これが神の怒りの実践的側面であり、この側面のため、人類は普通の存在を達成したのです。神の怒りがなければ、人類は異常な生活条件へと陥り、義であり、美しく善良なものはすべて破壊され、消滅するでしょう。神の怒りなくしては、被造物のための生存の掟と法則は破壊され、完全に転覆されることさえあるでしょう。人間が造られて以来、神は義の性質により人類の正常な生活を守り維持し続けています。神の義なる性質に怒りと威厳が含まれているため、邪悪な人や物事、人類の普通の生活を阻害し損なうあらゆるものが、神の怒りによる罰を受け、制限され、破壊されます。過去数千年間にわたり、神は義なる性質により、神の人類経営において神に反抗しサタンの僕や手先として行動するあらゆる不浄な悪霊を倒し、破壊し続けてきました。このように、人類を救う神の働きは、常に神の計画に従って進行してきました。つまり、神の怒りの存在のおかげで、人間による最も義なる営みは破壊されたことがないのです。
今やあなたがたは神の怒りの本質について認識を得たので、サタンの邪悪をいかに見分けるかをさらに理解したはずです。
人道的で正しく、道徳的に見えても、サタンの本質は残忍かつ邪悪である
サタンは人を騙すことで評判を確立します。サタンは正義の先導者的かつ模範的存在としての立場を確立することがよくあります。正義を守ると見せかけて、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じます。サタンの目標は、サタンの邪悪な行いを人間に認めさせ、それに従わせること、サタンが神の権威と統治に反対するのに人間を参加させることです。しかし、人間がサタンの陰謀や策略、下劣な顔つきを見通し、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕え、サタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンはそれまでの聖人づらを一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜く野蛮な素顔を現します。サタンに従うことを拒み、その邪悪な勢力に反対する者すべてを皆殺しにすることほどサタンが好むことはありません。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことはできず、羊の皮の下の醜い悪魔のような正体があらわになります。ひとたびサタンの陰謀が明るみに出て、その真の特徴が暴露されると、サタンは激怒して野蛮さを現します。その後、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望は強くなるばかりです。これは、人間が真理に目覚めると、サタンは激怒し、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に強い復讐の念をもつようになるからです。サタンの怒りはその邪悪さを正当化し保護するためであり、それはまたサタンの野蛮な性質を真に暴露しています。
万事においてサタンの振る舞いはその邪悪な本性をさらしています。サタンが人間を惑わせて自分に従わせようとする初期の取り組みから、邪悪な行ないに人間を引きずり込むサタンによる人間の搾取、サタンの真の姿が暴かれ、人間がそれに気づきサタンを見捨てた後のサタンの復讐の念まで、サタンが人間に行なうあらゆる邪悪な行ないのうち、サタンの邪悪な本質が露わにならないものも、サタンが肯定的な物事と無関係で、あらゆる邪悪なものの根源であることを証明しないものもありません。サタンの行動はすべてサタンの邪悪さを守り、サタンの邪悪な行ないを継続させ、正しく肯定的な物事に反し、人類の普通の存在の法則や秩序を破綻させます。サタンのこのような行ないは神への敵意であり、神の怒りに滅ぼされます。サタンにはサタンの怒りがあるものの、それはサタンの邪悪な本性を発散させる手段でしかありません。サタンが憤慨し、激怒する理由は、そのおぞましい陰謀が暴露され、策略がうまく行かず、神の代わりとして君臨するというサタンの向こう見ずな野心と欲望が打ち砕かれ、阻止され、全人類を支配するという目標が今や無となり、永遠に達成の見込みがなくなったからです。サタンの陰謀が結実することや、サタンの邪悪が拡散するのを阻止してきたのは、神が度々奮い起こしてきた怒りです。そのため、サタンは神の怒りを嫌うと同時に恐れています。神の怒りが下るたびに、サタンの下劣な真の姿が明らかになるだけでなく、サタンの邪悪な願望も明らかにされ、その過程で人類に対するサタンの怒りの理由が白日の下にさらされます。サタンの激昂は、その邪悪な本性と謀略が真に明示されたものです。もちろん、サタンが激怒するたびに、邪悪なものが破壊され、肯定的なものが保護され維持されることが告知されます。それは、神の怒りは犯すことが許されないという真理が告知されるのです。
神の義の性質を知るために経験や想像に依存してはならない
神の裁きと刑罰に直面したら、あなたは神の言葉は汚れていると言いますか。神の怒りの背後にはいわくがあり、神の怒りは汚れていると言いますか。神の性質は必ずしも完全に義ではないと言って、神を中傷しますか。神の行ないの一つひとつに対処するとき、神の義なる性質にはその他の要素がなく、聖であり完璧であることを確信していなければなりません。そのような行ないには、神による攻撃、罰、人類の破壊などが含まれます。神の行ないの一つひとつは例外なく、神が本来持っている性質と神の計画に厳密に従って行なわれ、これには人類の知識や伝統、哲学は含まれません。神の行ないは、それぞれが神の性質と本質を表出するもので、堕落した人類に属する一切のものと無関係です。人類には、完璧で、純粋で、聖なるものは、神の人類への愛、憐れみ、寛容さだけだという観念があり、神の怒りと憤りも同様に純粋であることを知る人はいません。さらに、神が決して侮辱を甘受しないのはなぜか、神の怒りがそこまで甚大なのはなぜか、といった疑問について誰も考えません。それどころか、神の怒りを堕落した人類の態度である不機嫌と同一視し、堕落した人類の怒りと同じであると思い込みます。さらには神の怒りは堕落した人の性質の自然な表出と同じであり、神の怒りが発生するのは、気に入らない状況に直面したときの堕落した人類の怒りと同様であり、神の怒りが発生するのは神の気分の表出であると考えていることさえあります。この交わりの後には、あなたがたの一人ひとりが、神の義なる性質について誤解や想像や仮定をしていないこと、わたしの話を聴いた後、神の義なる性質である怒りを心の中で真に認識していること、神の怒りについてのこれまでの誤った考えを捨てること、神の怒りの本質に関する自分の誤った思い込みや見方を変えることができることを願います。さらに、あなたがたが神の性質の正確な定義を心に持ち、もはや神の義なる性質について疑念を抱かず、神の真の性質に人間的な論法や想像を押し付けないことを願います。神の義なる性質は、神自身の真の本質です。それは人間が書き綴ったり形作ったりしたものではありません。神の義なる性質は、神の義なる性質であり、被造物とは何の関係もつながりもありません。神自身は、神自身です。神が被造物の一部となることは決してなく、神が被造物の一員となったとしても、神が本来持っている性質と本質は不変です。したがって、神を知ることは、物を知ることではないのです。神を知ることは何かを分解することでも、人を理解することでもありません。神を知るために、物や人を知る概念や方法を用いるならば、神に関する認識を得ることは不可能です。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に自分の経験や想像を押し付けてはなりません。どれほど豊かな経験や想像があったとしても、それには限界があります。さらに、想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものではなく、神の真の性質と本質とは相容れないものです。神の本質を理解するために想像に依存したなら、成功することはありません。唯一の方法は、神から来るものすべてを受け容れ、徐々に経験し、理解することです。あなたが協力し、真理への飢えや渇きがあれば、ある日、あなたが真に神を理解し、知ることができるように、神があなたを啓きます。これでわたしたちの話し合いのこの部分を終わりとしましょう。
人類は真摯な悔い改めにより神の憐れみと寛容を得る
次は聖書にある「神によるニネベの救い」の物語です。
ヨナ書 1:1-2 ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
ヨナ書3章 時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
ヨナ書4章 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、ヤーウェに祈って言った、「ヤーウェよ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それでヤーウェよ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。ヤーウェは言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時にヤーウェ神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。ヤーウェは言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
ニネベの物語の概要
「神によるニネベの救い」の物語は長くありませんが、ここから神の義なる性質の別の側面を垣間見ることができます。その側面とは具体的に何を指すかを理解するためには、この聖句に戻り、神がその働きにおいて行なった業の一つを確認しなければなりません。
まず最初に、この物語の冒頭部分、「ヤーウェの言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである』」(ヨナ書 1:1-2)を検討しましょう。この部分では、ヤーウェ神がニネベの町へ向かうようヨナに命じたことがわかります。神がヨナにニネベへ向かうよう命じたのはなぜですか。それは聖書に明記されています。ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の目に留まり、そのため神はヨナを遣わし、ヤーウェ神が何を行なおうとしているかを人々に知らせようとしたのです。ヨナが誰なのかについては記述がありませんが、当然ながらそれは神を知ることとは無関係です。したがって、ヨナについて理解する必要はありません。必要なのは、神がヨナに何をするように命じたかと、命じた理由を理解することです。
ニネベに届いたヤーウェ神の警告
次の聖句、ヨナ書3章に進みましょう。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った」は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉です。つまり、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えたかった言葉です。この言葉は、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神は彼らを嫌悪し憎むようになり、ニネベを滅ぼすことを望んでいると人々に伝えています。しかし、ニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、彼らに悪を悔い改め、やりなおす機会を与えます。この機会は四十日間で、それ以上は続きません。つまり、彼らが四十日以内に悔い改めて罪を認め、ヤーウェ神の前にひれ伏さなかったなら、神はニネベの町をソドムと同様に滅ぼそうというのです。これがヤーウェ神がニネベの人々に伝えたかったことです。明らかに、これは単なる宣告ではありませんでした。これはヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々へのヤーウェ神の姿勢も伝えており、同時にニネベの町で暮らす人々への厳粛な警告ともなっていました。この警告は、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至り、その悪業ゆえに彼らは程なくして滅びの危機に見舞われることを伝えました。したがって、彼らは生命の危機に瀕していたのです。
ヤーウェ神の警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点
「滅びる」とはどういう意味ですか。日常的な言い方をすれば、「もういなくなる」ということです。しかし、どのようにしてですか。一体誰が一つの町全体を滅ぼすことができるのでしょうか。当然、そのようなことは人間には不可能でしょう。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐにその旨を理解しました。彼らは宣告が神から来たこと、神が業を行なうつもりであること、自分たちの邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分たちに向けられ、それゆえ程なくして自分たちがニネベの町とともに滅ぼされるであろうことを理解しました。ヤーウェ神の警告を聞いた後、ニネベの人々はどのように行動しましたか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々がどのように反応したかが詳細に記載されています。聖書にはこうあります。「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。……』」(ヨナ書 3:5-9)
ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々とは正反対の態度を取りました。ソドムの人々は堂々と神に反抗し、邪悪を重ねましたが、ニネベの人々は宣告を聞いた後、それを無視することも反抗することもありませんでした。それどころか、彼らは神を信じ、断食を宣言しました。ここで「信じた」とは何を意味しますか。この言葉自体は、信仰と服従を思わせます。ニネベの人々が実際に見せた振る舞いで説明すれば、彼らは神は言葉通りのことを行うことができ、またそうするであろうと信じ、悔い改めることを望んだ、という意味です。彼らは喫緊の災いに瀕して恐れを感じましたか。彼らの心が恐れたのは、信仰のためです。彼らの信仰と恐れは、何によって証明することができますか。それは聖書にある通りです。すなわち、「……断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た」のです。つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、それゆえに彼らは断食と荒布の着用を行ないました。こうして彼らは悔い改めの開始を示しました。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分たちの振る舞いと行動により悔い改めを明示しました。もちろん、これはニネベの町中の住民が行なったことで、一般人だけでなく、王も例外ではなかったのです。
ニネベの王が悔い改めたので、ヤーウェ神は称賛した
ニネベの王が知らせを聞いたとき、王は王座から立ち上がって朝服から荒布に着替え、灰の中に座りました。そして王は、町の人々全員に、全員何をも味わってはならない、そして家畜、羊、牛も物を食い、水を飲んではならない、と宣言しました。人間も家畜も同様に荒布を身にまとい、人々は熱心に神に懇願しました。また王は、各人が悪の道を離れ、その手にある強暴を捨てよ、と宣言しました。このような一連の行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めていました。王座から立ち上がり、朝服から荒布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、ニネベの王が王という身分を脇へやり、一般人と同様に荒布をまとったということです。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの王は王位において邪悪な行いやその手で暴力を続けず、むしろ王の権威を脇へやり、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということです。このとき、ニネベの王は王として悔い改めたのではなく、神の普通の臣民として悔い改め罪を告白するために神の前に来たのです。その上、王は、自分と同じようにヤーウェ神の前で悔い改めて罪を告白するように町全体に命じました。さらに、聖書にある通り、どのように悔い改めるかについて、王は具体的に決めていました。それは、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。……ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」でした。町の支配者として、王には最高の地位と権力があり、何でも思う通りにできました。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずです。町の人々が悔い改めるか否かについて、王は完全に無視することもできたはずです。しかし、王はそのようなことを一切しませんでした。王は、王座から立ち上がり、荒布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で悔い改め罪を告白しただけでなく、町の人々全員、家畜のすべてが王と同様にするよう命じました。王は人々に「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じました。これら一連の行動により、ニネベの王は支配者が真に達成すべきことを達成したのです。王が取った一連の行動は、人類史上においてどの王にとっても困難なことであり、他に同様のことを成し遂げた王はいませんでした。これらの行動は、人類史上で前例のないことであったと言え、称賛され、人類が倣う価値のあることです。人類の黎明以来、王は皆、臣民が神に抵抗し、反対するように導いていました。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れるように導いた王はいませんでした。しかしニネベの王は、その臣民に、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手にある強暴を捨てるように導くことができました。加えて、ニネベの王は自らの王位を脇へやることができ、そのためヤーウェ神は思い直して後悔し、怒りを撤回し、ニネベの町の人々が滅びを免れ、生き残ることができるようにしました。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡というほかなく、また、堕落した人類が神の前で悔い改め罪の告白を行なった模範とさえ呼べます。
神はニネベの人々の心に真摯な悔い改めを認めた
神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは一連の行動を取りました。彼らの行動と振る舞いの特性は何でしたか。言い換えるなら、彼らの行動全体における真髄は何でしたか。彼らはなぜそのような行動を取ったのですか。神の目には、ニネベの人々は真摯に悔い改めたと映りました。それは彼らが神に心から誓願し罪を告白しただけでなく、自分たちの悪の行いも捨てたからです。彼らがこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いた後、大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じたからです。断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで、彼らは自分たちのあり方を改めて悪から離れる決意を示し、ヤーウェ神に怒りを静めるよう祈り、裁きと差し迫った災いの取消を求めました。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、彼らのこれまでの邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されていたことも、ヤーウェが自分たちを間もなく滅ぼす理由も彼らはすでに理解していたことがわかります。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることを望んだのです。換言すると、ニネベの人々がひとたびヤーウェ神の宣言に気づくと、彼らの一人ひとりが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めました。さらに、彼らはこれまでの罪が赦されることと、これまでの行動に基づいて彼らを処分しないことをヤーウェ神に誓願しました。ニネベの人々は二度と悪に関わらず、ヤーウェ神の怒りを買わないようにすることが可能ならば、ヤーウェ神の指示に従って行動するのをいといませんでした。彼らの悔い改めは真摯で、徹底していました。それは彼らの心から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかったのです。
ひとたび王から臣民までニネベ人全員が、ヤーウェ神が自分たちに怒りを覚えていることを知ると、彼らのその後のあらゆる行動、あらゆる判断や選択は、神の目に明らかなものになりました。ニネベの人々の振る舞いに従い、神の心は変わりました。この時点で神の心情はどのようなものでしたか。その答えは聖書に記されています。聖書には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」(ヨナ書 3:10)とあります。神は思い直したものの、神の心情に複雑なものは一切ありませんでした。神はただ怒りの伝達から怒りの鎮静へと移行し、ニネベに災いを下さないと決めただけです。神がニネベに災いを下さないと迅速に決断したのは、神がニネベの人々すべての心を観察したからです。神は彼らの心底にあったもの、すなわち真摯な悔い改めと罪の告白、ヤーウェ神への真摯な信仰、自分たちの悪行がいかに神の性質の怒りを買ったかということの深い意識、それゆえのヤーウェ神による間近に迫った罰への恐れを見ました。同時に、災いを免れることができるようにヤーウェ神に自分たちへの怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの祈りをヤーウェ神は聞いたのです。これらの事実を観察したとき、神の怒りは徐々に静まりました。神の怒りがそれまでどれほど激しかったにせよ、人々の心底からの真摯な悔い改めに神の心は動かされ、彼らに災いをもたらすことに耐え兼ね、彼らへの怒りを静めました。その代わりに、神はニネベの人々に続けて憐れみと寛容さを示し、導き、施し続けました。
神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを受けられる
ニネベの人々への神の意図の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていません。むしろ、それは純粋な怒りから、純粋な寛容への変化でした。これは神の本質の真の明示です。神はその行ないにおいて、優柔不断であることや躊躇することが決してありません。神の行ないの背後にある原則と目的はすべて明白かつ透明、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいません。つまり、神の本質には闇や邪悪が一切含まれていないのです。ニネベの人々の悪の行いが目に留まったため、神は彼らに怒りを覚えました。このとき、神の怒りは神の本質に由来していました。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容を見せたときに神が明示したものも、やはりすべて神の本質でした。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因しました。この間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わりませんでした。人が邪悪な行動を取り、神を侵害すると、神はその人に神の怒りを下します。人が真に悔い改めれば、神の心は変化し、神の怒りは静まります。人が頑なに神に反抗し続けると、神の怒りは静まらず、神の激しい怒りは徐々にその人に迫り、最終的にその人は滅びます。これが神の性質の本質です。神が表しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の行動や振る舞い、そして心底にある神への態度が、神の性質の明示において何が表されるかを左右します。神がある人に怒り続けているならば、その人の心は間違いなく神に反抗しています。その人は真に悔い改めたことも、神の前で頭を下げたこともなく、神への真の信仰を持ったこともないため、神の憐れみと寛容を得たことがありません。ある人が神の労りや憐れみ、寛容を頻繁に受けているのなら、その人の心には間違いなく神への真の信仰があり、その心は神に反抗していません。その人はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、その人にしばしば神の懲らしめが下ったとしても、神の怒りが下ることはありません。
この簡潔な記述により、人は神の心、神の本質の現実性を見て、神の怒りと神の心の変化には理由があるということを理解できるようになります。神が怒っていたときと心を変えたときに見せた際立った違いにより、神の怒りと寛容という神の本質の二側面には大きな隔たりや違いがあると人々は考えます。しかし、ニネベの人々の悔い改めへの神の姿勢に、神の真の性質の別の側面を人は見ることができます。神の心の変化により、人は神の憐れみと慈愛の真実を再び見、神の本質が真に明示されるのを見ることができます。人間は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でもないということを認めるほかありません。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容を再び人間に与えたからです。
ニネベの人々の心からの真の悔い改めが神の憐れみを得て、滅びの運命を変える
神の心の変化と怒りには何か矛盾がありましたか。もちろん、ありませんでした。それは、そのときの神の寛容には理由があったからです。どのような理由ですか。それは聖書に記されています。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とあります。
この「悪い道」は、数件の悪業ではなく、人々の振る舞いの邪悪な起源を指します。「その悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということです。つまり、彼らは二度と邪悪な行動をせず、行動の方法、根源、目的、意図、原則をすべて変え、自分たちの心に楽しみと幸福をもたらすために、そのような方法や原則を二度と使用しない、ということです。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味します。ニネベの人々がその手から強暴を捨て去ったということは、彼らの真の悔い改めを証明し、表しています。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察します。神がニネベの人々の心に異論の余地のない真の悔い改めを確認し、また彼らが悪の道を離れ、その手から強暴を捨て去ったことを観察したとき、神は心を変えました。つまり、彼らの行動、振る舞い、様々な行ないの方法、そして真の罪の告白と悔い改めが、神にその心、意図を変えさせ、決断を撤回させ、ニネベの人々を罰することも滅ぼすこともしなかったのです。したがって、ニネベの人々は違う結末を迎えることができました。彼らは自分たちの命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容を獲得し、この時点で、神は自身の怒りを撤回したのです。
希なのは神の憐れみと寛容でなく、人間の真の悔い改めである
神のニネベの人々への怒りがどれほどであったかにかかわらず、彼らが断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は軟化し、変化し始めました。神が彼らにニネベを破壊すると宣言したとき、つまり彼らの罪の告白と悔い改めの前には、神は依然として怒っていました。ニネベの人々がひとたび一連の悔い改めの行動を取ると、神の彼らへの怒りは、憐れみと寛容へと次第に変化していきました。一件の出来事において、神の性質の二側面が同時に明らかになることには、何ら矛盾はありません。では、この矛盾の不在をどのように理解し、認識するべきですか。ニネベの人々が悔い改めるにつれ、神は極端に対照的な二つの本質を続けて表出、明示し、これにより神の本質の現実性と不可侵性を人は理解することができます。神はその姿勢を通して人に伝えていたことがあります。それは、神は人間に対して寛容でないのではなく、また人に憐れみを与えたくないのでもなく、人が神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることは極めて希だ、ということです。つまり、人間に対して怒っているとき、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、そうなれば、神は憐れみや寛容を人間に引き続き寛大に与えるということです。すなわち、人間の邪悪な行動が神の怒りを招くのに対し、神の憐れみと寛容は、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、強暴をその手から捨てることができる人に与えられるということです。ニネベの人々の扱い方には、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていました。つまり、神の憐れみと寛容を得ることはまったく困難ではなく、神は人に真の悔い改めを要求するということです。人々が悪の道を離れ、強暴をその手から捨てるかぎり、神は自身の心と人への態度を変えるのです。
創造主の義なる性質は現実的で生き生きとしている
神がニネベの人々に対して心を変えたとき、神の憐れみと寛容は見せかけでしたか。もちろん、見せかけではありません。それでは、神がこの一つの状況に対処しながら、その性質の二側面の一方から他方へと推移したことは何を示していますか。神の性質は完成した一つの統一体であり、一切分割されていません。神が人に表しているのが怒りであろうと、憐れみと寛容であろうと、それらはすべて神の義なる性質の表出です。神の性質は生気にあふれており、生き生きとしていて、神は事態の展開に応じて、その思いと態度を変えます。ニネベの人々に対する神の態度が変わったことで、神には自身の思いと考えがあることが人間にわかります。神は機械でも粘土細工でもなく、生きている神自身なのです。神がニネベの人々に対して怒ることもあれば、彼らの態度ゆえに彼らの過去を赦すこともありえます。神はニネベ人に災いを起こすと決定することもできれば、ニネベ人の悔い改めゆえに、その決定を変更することもできました。人は規則を機械的に適用することを好み、そのような規則を用いて神を限定し、定義したがります。ちょうど、公式を当てはめて神の性質を理解したがるのと同じです。したがって、人間の考えの範囲内では、神は思考することがなく、実質的な考えを持っていません。しかし現実では、神の思いは、物事や環境の変化に伴い、常に変化しています。神の思いが推移しているとき、神の本質の様々な側面が現れます。この推移の過程において、心を変えた瞬間に神が人類に示すのは、神のいのちが実在していることと、神の義なる性質が活発な生命力にあふれていることです。同時に、神は自身の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容が存在する真実を人間に証明します。神の本質は、物事の展開にしたがっていつでも、どこでも明示されます。神には、獅子の怒りと母の憐れみと寛容があります。神の義なる性質は、誰かがそれを疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることを許しません。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、あらゆる物事において表出されることができます。神はこうした側面をありとあらゆる場所で鮮明に表出し、あらゆる瞬間に、それを鮮明に実行します。神の義なる性質は、時間や場所に制限されません。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではなく、いつでも、どこでも、自由に表出、明示されるのです。神が心を変えて怒りを表出しなくなり、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えますか。神の怒りは空虚な言葉から成ると言えますか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを撤回するとき、神は人類に真の愛を感じていないと言えますか。神は人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥はありません。神の心は人々の悔い改めに動かされます。神の心を変化させるのは、この悔い改めです。神が感動し、心を変化させ、人間への憐れみや寛容を見せるとき、これらにはまったく欠陥がありません。これらは清く、純粋で汚れのないものです。神の寛容はそれそのもの、寛容であり、神の憐れみは憐れみ以外の何物でもありません。神の性質は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容を示します。神が何を明らかにし、何を表現しようと、それはすべて純粋で直截です。その本質はいかなる被造物のそれとも違っています。神がその行動の根底にある原則を表現するとき、そこには一切の欠陥も汚れもなく、それは神の思い、考え、神が下す判断の一つひとつ、取る行動の一つひとつも同じです。神がそのように判断し行動したのですから、神はそのように自身の業を全うします。その結果は正確かつ完璧です。なぜならその源には欠陥も汚れもないからです。神の怒りは、完璧です。同様に、いかなる被造物も持っていない神の憐れみや寛容は聖なるもので、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものです。
ニネベの物語について理解したところで、あなたがたには今、神の義なる性質の実質における別の側面が見えますか。神独自の義なる性質の別の側面が見えますか。人類の誰かがこうした性質を持っていますか。このような怒り、神の怒りを誰かが持っていますか。神のような憐れみや寛容を誰かが持っていますか。被造物のなかで、これほど大きな怒りを奮い起こし、人類を滅ぼしたり、災いをもたらしたりすることを決めることができるものがいますか。また、人間に憐れみ、寛容、赦しを与え、よって人間を滅ぼす決断を覆す資格を誰が持っていますか。創造主はその固有の方法と原則に従って義なる性質を示し、人、出来事、物による支配や制限を受けません。神の固有の性質のため、神の思いや考えを変えることは誰にもできず、また神を説得してその決断を変えさせることも誰にもできません。被造物のもつ行動や考えはすべて、神の義なる性質による判断のもとに存在するのです。神が怒るか、それとも憐れみをかけるかは、誰にも支配できません。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみです。これが創造主の義なる性質が有する唯一無二の特徴です。
ニネベの人々に対する神の態度の変化を分析すると、神の義なる性質に含まれる憐れみを、「唯一無二」という言葉で形容することができますか。神の怒りは神独特の義なる性質の本質における一側面であると先に述べました。ここで、神の怒りと憐れみという二側面を義なる性質として定義します。神の義の性質は聖であり、侵害されることも、疑われることも容赦しません。被造物にも非被造物にも、その性質を持つ物は存在しません。それは神に固有で、限定されたものです。つまり、神の怒りは聖であり、侵害不可能だということです。同様に、神の義なる性質のもうひとつの側面である神の憐れみもまた聖であり、侵害不可能です。被造物や非被造物で、神の業において神の代理となれるものは皆無であり、ソドムの破壊やニネベの救済において神の代理となることができるものも皆無です。これが神の唯一無二で義なる性質の真の表出です。
創造主の人類への真摯な思い
人は神を知ることは簡単ではないとよく言いますが、わたしは、神を知ることは全然困難なことはないと言います。なぜなら神は人間にその業を頻繁に見せているからです。神は人類との対話を止めたことはなく、人間から隠れたことも、人間に知られないようにしようとしたこともありません。神の思い、考え、業はすべて人類に明かされています。したがって、人間が神を知りたいと望む限り、あらゆる方法で人間は神を知ることができます。神が人間を意図的に避け、人類から隠れてきた、神には人間が神を理解し知るようになることを許すつもりがない、などと人間が盲目に考える理由は、人間は神が誰なのかを知らず、神を知りたいとは思っていないからです。そして何よりも、人間は創造主の思い、言葉、業などに無関心だからです……。本当のところを述べると、もし誰かが余暇に創造主の言葉や業に注目して理解しようとし、創造主の思いと、その心の声にほんの少し注意を払ったならば、神の思い、言葉、業は見ることができ、明瞭なものであることに気付くのは困難ではありません。同様に、創造主は常に人間のそばにいて、人間や被造物すべてと会話し、新たな業を毎日行なっていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされません。神の本質と性質は、神と人間との対話の中に表出され、神の思いと考えは、神の業に完全に明示されています。神は常に人類と共にあり、人類を見守っています。神は人間や被造物のすべてに、「わたしは天にあり、万物の中にある。わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と、静かに沈黙の言葉で語りかけています。神の手は温かく力強く、神の足取りは軽やかです。神の声は温和で優しく、神の姿は過ぎゆき、また振り返り、全人類を抱擁します。神の表情は優美で、神は立ち去ったことも、消えたこともありません。神は、昼も夜も、常に人間と共にいて、そばを離れません。神の人間への心からの労りと特別のやさしさ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救ったときにも少しずつ示されていました。特に、ヤーウェ神とヨナの会話では、創造主自身が創造した人類への優しい思いがすっかり明らかにされています。これらの言葉から、人類への神の真摯な思いを深く理解することができます……
次に挙げるのはヨナ書4章10~11節に記された言葉です。「ヤーウェは言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか』」。これは、ヤーウェ神とヨナとの会話における、ヤーウェ神自身の言葉です。この会話は短いものの、創造主の人類への思いやりと、人類を見捨てることへのためらいに溢れています。この言葉は、神の心にある被造物への真の態度と思いが表現されています。人間が滅多に聞くことがないほど明瞭で正確なこの言葉により、神は人類への真意を述べます。この対話は、神のニネベの人々への態度を示していますが、それはどのような態度ですか。それは、ニネベの人々が悔い改める前と後にニネベの人々に神が取った態度であり、それと同じ態度で神は人類を扱います。この言葉には神の思いと性質を見出すことができます。
この言葉には、神のどのような思いが示されていますか。詳細に注意して読めば、神が「惜しむ」という語を用いているのに気付くのは難しくありません。この語に、人類への神の真の態度が示されています。
表面的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能です。第一に、「愛し、守り、何かへのやさしさを感じる」という意味があります。第二に、「心から愛する」という意味があり、最後に「何かを傷つけたくない、傷つけることに耐えられない」という意味があります。つまり、この語は親しみや愛、人や物をあきらめられない気持ち、また神の人間への憐れみと寛容をほのめかしています。神は人間が一般的に使う単語の一つであるこの語句を使いましたが、それは神の心の声と神の人類への態度を明らかにしています。
ニネベの町は、ソドムと同様に堕落し、邪悪で凶暴な人々で満ちていましたが、ニネベの人々の悔い改めにより神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めました。神の言葉と命令へのニネベの人々の反応は、ソドムの住民と比べると極めて対照的な姿勢でした。ニネベの人々の真摯な神への服従と罪の悔い改め、そしてあらゆる面における真実で心からの振る舞いゆえに、神は再び心からの哀れみを示し、ニネベの人々に与えました。神が人類に与えたものと人類への憐れみは、誰にも真似をすることはできず、神の憐れみと寛容、神の人類への真摯な思いは誰にも持つことができません。あなたが偉人あるいは超人であるとみなす男女に、ある高い立場で、偉人あるいは超人として最高位から人類や被造物に向かってこのような発言をする人が存在しますか。人類のうち誰が、人類の生存状況を自分の手のひらのように熟知できますか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことができますか。誰に一つの町の破壊を宣言する資格がありますか。そして、誰に一つの町を赦す資格がありますか。自分の創造したものを惜しんでいると誰が言えますか。創造主だけです。創造主だけがこの人類にやさしさを感じています。創造主だけがこの人類に優しさと愛慕を示します。創造主だけに、人類への真の変わることのできない愛情があります。同様に、この人類に憐れみを与え、全被造物を惜しむことができるのは、創造主のみです。創造主の心は、人間の行動一つひとつに、ときめいたり、傷んだりします。創造主は、人間の邪悪と堕落に怒り、苦しみ、悲しみます。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、喜び、赦し、歓喜します。創造主の思いと考えの一つひとつは人類のために存在し、人類がその中心にあります。創造主の存在とその持つものは、すべて人類のために表れます。創造主の気持ちのすべては、人間の生存と密接に結びついています。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを沈黙のまま与え、いのちの一分一秒を捧げるのは、人類のためです……。創造主は自らの命を慈しんだことがないにもかかわらず、自身が創造した人類を常に惜しんできました……。持つもの全てを人類に捧げます……。無条件に見返りを期待することなく、憐れみと寛容を与えます。彼がこれを行うのは、ひとえに人類が彼の目の前で生き残り続け、いのちの施しを受けることができるようにするためです。ある日、人類が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための糧を施し、すべてのもののいのちを与える存在であると認識できるようにするためです。
創造主は人類への真の思いを表す
このヤーウェ神とヨナの対話は、人類への創造主の真の思いを表していることに疑いはありません。この対話は一方では、神の統治下にある被造物全体を創造主が認識していることを人々に伝えるものです。それはヤーウェ神が、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」と言った通りです。つまり、ニネベについての神の認識は、決して粗略なものではなかったのです。神はニネベの町の生物(人間のほか家畜など)の数を知っていただけでなく、右も左もわきまえることができない者の人数、すなわち、子供や若者の人数も知っていました。これは、人類について神が包括的に理解していたことの具体的な証明です。その一方で、この対話は、人類への創造主の態度、すなわち創造主の心における人類の重要さを人々に伝えています。それはヤーウェ神の、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは……この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」という言葉の通りです。これは、ヤーウェ神がヨナを非難して述べた言葉で、すべて真実です。
ヨナはニネベの人々にヤーウェ神の言葉を伝える任務を託されましたが、ヨナはヤーウェ神の意図も、ヤーウェ神のニネベの人々に対する懸念も期待も理解していませんでした。神は、この叱責により、人類が神自身の手により造られたものであり、一人ひとりの人間に神が甚大な努力をしたこと、一人ひとりが神の期待を負っていること、神のいのちの施しを受けていること、一人ひとりの人間のために神が大きな代償を払っていることを、ヨナに述べました。この叱責はまた、ヨナがこのとうごまを惜しんでいるのと同様に、神が自分の手で造った人類を惜しんでいることをヨナに伝えました。神は人類を安易に、あるいは最後の最後まで見捨てるつもりは一切ありませんでしたが、それはニネベには子供や何も知らない家畜が多数いたからではありません。右も左も分からない子供や無知な神の被造物に対して、神が早急に子供や動物の生命を絶ち、その運命を決めようとするなど考えられないことでした。神は彼らが成長するのを見ることを望んでいました。子供が大人のような道へ進まないこと、ヤーウェ神の警告を二度と耳にしなくてもよいこと、ニネベの過去の証しをすることを望んでいました。それにもまして、神は悔い改めた後のニネベ、悔い改めた後の町の将来、そして何よりも、ニネベが再び神の憐れみのもとで生きるのを見ることを望んでいました。したがって、神の見地からすると、神の被造物で右も左も分からない子供たちこそがニネベの将来だったのです。子供たちは、ヤーウェ神の導きのもとでニネベの過去と未来の証しをするという重要な任務を背負うと同時に、ニネベの卑劣な過去も背負うことになるのです。このように真の思いを宣言することで、ヤーウェ神は、創造主から人類への憐れみをすっかり提示しました。これは、「創造主の憐れみ」は中身のない言葉でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であることを人類に示しました。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行ないません。そしてこのように、創造主の憐れみは、あらゆる時代において人類に無限に与えられるのです。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神がなぜ人類に憐れみを示すのか、どのように憐れみを示すのか、神が人類にどの程度寛容であるのか、神の人類への真の思いは何なのかを神が言葉で表した唯一の場面です。この対話におけるヤーウェ神の簡潔な言葉は、人類への思いを完全な統一体として表しています。それは人類への神の心の姿勢を真に表現しており、また神が人類に豊かに憐れみを与えることの具体的な証明でもあります。神の憐れみは、常に世代から世代へと与えられてきたように、人類の先代にのみ与えられるのではなく、人類の若い世代にも与えられます。神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に下されることが多いものの、神の憐れみは決して止まったことがありません。神は憐れみにより導き、施し、養い、そしてそれを神の被造物の一世代から次の世代へと連綿と続けます。なぜなら、神の人間への真の思いは変わらないからです。「惜しまないでいられようか」というヤーウェ神の言葉が示す通り、神は常に被造物を惜しんできました。これが創造主の義なる性質による憐れみであり、これもまた創造主の唯一無二の特質であふれています。
人間の五つの種類
ここで、神の義なる性質に関する交わりを一旦終了します。次に、あなたがたが現在いる段階と、現在の霊的背丈を把握できるように、神に付き従う人を、その神についての認識、神の義なる性質に関する認識と経験に基づいて数種類に分類します。神についての認識と神の義なる性質に関する認識や経験に関して、人の段階と背丈は、一般的に五種類に分類できます。この論題は、唯一無二の神と神の義なる性質を認識していることを前提としています。したがって、以下の内容を読み進めるに当たっては、神の独自性と神の義なる性質について、自分には正確にどの程度の理解と認識があるかを注意深く見極めるように努めなくてはなりません。そして、それに従って、自分が本当にどの段階にいて、どの程度の霊的背丈があり、どの種類の人間であるかを判断しなければなりません。
第一の類型――産着にくるまれた赤子の段階
「産着にくるまれた赤子」とは何を意味しますか。産着にくるまれた赤子は、この世に生を受けたばかりの子供、新生児です。それは、人間が一番未熟な時期です。
この段階の人間は、基本的に神への信仰についての認識や意識が皆無です。そのような人は、あらゆる物事について当惑し無知です。長期間にわたり神を信じてきた人も、そうではない人もいますが、その当惑し無知な状態と実際の霊的背丈のために、産着にくるまれた赤子の段階に分類されます。この段階の状況を正確に定義すると、次の通りになります。この段階の人間は、どれほど長く神を信仰してきたとしても、常に考えがぼんやりと混乱しており、愚かです。自分が神を信仰する理由も、神が誰であり、誰が神であるかも知りません。神に付き従いながらも、心には神とは何かという具体的な定義がなく、自分が付き従っているのが神であるか否かを判断できないどころか、神を信仰し神に付き従うべきであるか否かもわかりません。これがこの種の人の実情です。その考えは不明瞭で、端的に言えば、その人の信仰も混乱しています。この種の人は常に当惑と空虚の状態にあります。ぼんやり、混乱、愚かさといった言葉がこの種の人の状態を概して表現します。この種の人は神の存在を見たり感じたりしたことがないので、この人と神を知ることについて議論することは、象形文字で書かれた書籍を読ませるようなものです。すなわち、そうした議論を理解することも、受け入れることもありません。この人にとって、神を知ることは、架空の物語を聞くことと同じです。その思想は不明瞭であるかもしれませんが、実のところ、その人は神を知ることは時間と労力の無駄であると固く信じています。これが第一類型の人、産着にくるまれた赤子です。
第二の類型――乳飲み子の段階
産着にくるまれた赤子と比較すると、第二の類型の人は、ある程度の進歩をしています。しかし、残念なことに、この種の人は、神については一切の認識がありません。依然として神に関する明瞭な理解や識見が欠如し、なぜ神を信じるべきなのか、あまり明確ではないのです。しかし、心には独自の目的と明瞭な考えがあります。この種の人は、神を信じるのが正しいか否かについては関心がなく、神への信仰を通して求める目標や目的は、神の恵みに与り、喜びと平安を得て、快適な生活を送り、神の思いやりと保護を享受し、神の祝福の下で生きることです。この種の人は、自分がどの程度神を知っているかについては関心がなく、神を理解しようと求める衝動がなく、神が何をしているか、神が何をしたいと望んでいるかにも関心がありません。ただ盲目に神の恵みを享受し、神の祝福を多く得ることを求めているだけです。この種の人はこの時代に百倍を求め、次の時代には永遠のいのちを求めます。この人の思いや努力、献身、そして苦難でさえも、すべて神の恵みと祝福を得るという共通の目的のためになされます。それ以外のことには無関心なのです。この種の人が確信しているのは、神が人の安全を守り、自分に恵みを与えるということだけです。この種の人は神が人類を救いたい理由や、神が言葉や業により達成したい結果には興味もなければ、はっきりした考えもないと言うことができます。神の実質や義なる性質を知るために努力したこともなく、そのために関心を奮い起こすこともできません。このようなことに注意を向ける傾向もなく、知りたいとも思わないのです。この種の人は神の働き、神の人間に対する要求、神の心、その他神に関する事柄について問いかけたいとは思わず、また問いかけるような傾向もありません。なぜなら、これらの問題が自分が神の恵みを享受することとは無関係だと考えており、自分の個人的利益と直接的に関連して存在し、人間に恵みを与えることができる神にしか関心がないからです。こうした人はそれ以外のことに一切興味がないので、神を何年間信仰していようとも、真理現実に入ることができません。頻繁に水を注いだり糧を授けたりしてくれる人がいなければ、この人が神への信仰の道を歩み続けることは困難になります。こうした人は、これまでどおりの喜びと平安や神の恵みを享受できなければ、去って行くことがよくあります。これが第二類型の人、乳飲み子の段階にある人です。
第三の類型――乳離れした子、あるいは幼子の段階
この類型の人には、ある程度の明瞭な意識があります。神の恵みを享受することは、自分自身に真実の体験があるということではないことを認識しています。この種の人は、喜びと平安、恵みを求めることに飽き足らなくても、また神の恵みを享受した体験を分かち合ったり、神から与えられた恵みゆえに神を讃えたりすることで証しすることができるとしても、それは自分にいのちや真理の現実があることを意味するものではない、ということを心得ています。その意識から始まって、このような人は神の恵みにのみ伴われるというとてつもない希望を抱かなくなります。それどころか、神からの恵みを愉しみつつ、神のために何かをしたいと望むようになります。自分の本分を尽くし、少しの困苦と疲労に耐え、神とある程度協調することをいといません。しかし、この種の人による神への信仰の追求はあまりに不純で、心に抱く個人的な意図や望みも強過ぎ、その人の性質もやたらと傲慢であるため、その人が神の望むことを満足させたり、神に忠実でいたりすることは極めて困難です。したがって、この種の人は個人的な望みを実現することも、神との約束を守ることもできないことがよくあります。多くの場合、この種の人は自己矛盾に陥ります。すなわち、可能な限り神を満足させたいと願う一方で、持てる力の限りを用いて神に反対し、また神に忠実を誓っても、すぐに誓いを破ることがあります。ほかの形の自己矛盾に陥ることも多くあります。すなわち、真摯に神を信じる一方で、神と神に由来するものすべてを否定します。神に啓かれ、導かれ、施され、助けられることを切望する一方で、自分の逃げ道を求めます。神を理解し知りたいと願う一方で、神に近づくことを避けようとします。その代わりに常に神を回避し、神に対して心を閉ざしています。神の言葉と真理の文字通りの意味について表面的な認識と経験があり、神と真理に関しても表面的な概念をわきまえている一方で、意識下では神が真理であることも、神が真に義なることも確信、断言することが依然としてできません。また、神の性質と本質が真実であることも、ましてや神の真の存在を確信することもできないのは当然です。この種の人の神の信仰には、常に疑念と誤解、想像と観念が混ざっています。この種の人は神の恵みを享受しつつ、実行可能だと自分がみなす幾つかの真理をしぶしぶ経験したり実践したりします。これは、自分の信仰を豊かにし、信仰経験を増大させ、神への信仰についての自分の理解を確認し、自ら打ち立てた人生の行程を歩み、人類にとって義なる事業を達成させて虚栄心を満たすためです。同時に、祝福を得たいという自らの欲望を満たすためでもあります。これは人類のためにさらなる祝福を得ることを願ってする賭けの一部です。また、神を得るまでは休みたくないという大志と一生涯の願望を叶えるためでもあります。この種の人はめったに神の啓示を得られません。なぜなら、神の祝福を得るという願望と目的の方がその人にとって重要過ぎるからです。こうした人は諦める気はなく、また諦めることに耐えられません。恵みを得る願望や、神を得るまで休みたくないという長年にわたり大事にしてきた願望がなければ、神を信仰する動機を喪失すると考えています。従って、現実と対峙することを望みません。神の言葉や働きに対峙することを望まないのです。神の性質や本質を認めることを望まず、ましてや神を知るという題目に言及することさえ望みません。それは、ひとたび自分の想像が神、神の本質、神の義なる性質に置き換えられたなら、自分の夢が煙のように消えてなくなり、自分が純粋な信仰と呼んでいるものや、何年もの間、苦労して築き上げた「功績」が消滅し、無に帰してしまうからです。またそれは、自分が長年にわたって血と汗で獲得してきた「領土」が崩壊の危機に瀕するからです。これは、この種の人の長年にわたる苦労と努力が無駄であったこと、ゼロから再出発しなければならないことを意味します。この種の人にとって、これは最も耐えがたい心痛であり、一番恐れる結果です。したがって、この種の人は常にこのような行き詰まり状態にあり、後戻りすることを拒否しています。これが第三類型の人、乳離れした子供の段階にある人です。
以上の三種類の人、つまり三段階のそれぞれにある人は、神の身分や地位、神の義なる性質に関して、いかなる真の信仰もなく、これらの物事について、明確で正確な認識も確信もありません。したがって、この三種類の人にとって、真理の現実性に入ることは極めて困難であり、神の憐れみ、啓き、照らしを得ることも極めて困難です。なぜなら、このような人の神への信仰のあり方と神への誤った態度のせいで、神が彼らの心で働くことは不可能だからです。彼らの神に関する疑念、誤解、想像は、彼らの神への信仰や認識を凌駕しています。これら三種類の人は、危険に直面しており、極めて危険な段階にいます。ある人が神、神の本質、神の身分、神は真理であるかということ、神の存在の現実性に対して疑念ある態度を維持し、これらの事柄について確信できないとき、神から来るものをすべてどうして受け入れることができますか。神が真理であり、道であり、いのちであるという事実をどうして受け入れることができますか。神の刑罰や裁きをどうして受け入れることができますか。神の救いをどうして受け入れることができますか。このような人がどうして神の真の導きと施しを得ることができますか。これら三段階にある人は、いつでも神に反抗し、神を裁き、冒涜し、裏切ることができます。いつでも真理の道を離れ、神を捨てることができます。これら三段階にある人は、危機的時期にあると言うことができます。なぜなら、このような人は、神への信仰の正しい道に入っていないからです。
第四の類型――成長期の子段階、あるいは子供時代
子が離乳した後、つまり豊富な恵みを享受した後、その子は神への信仰とは何を意味するのかを探求するようになり、人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、神はなぜ人間に働くのかなどの様々な疑問を理解したいと思うようになります。このようなあいまいな考えや混乱した思考形式が内に現れ、そのまま残ったときでも、人は水やりを受け続け、自分の本分を尽くすことができます。この時期になると、人は神の存在の真実についてはもはや一切の疑念がなくなり、神への信仰が何を意味するかを正確に把握しています。この基盤の上に、神についての認識を徐々に積み上げ、神の性質や本質についての自分のあいまいな考えや混乱した思考形式に何らかの回答を徐々に得ます。人間の性質の変化と神に関する認識については、この段階の人は正しい軌道に乗りだし、過渡期に入ります。人のいのちが真に始まるのは、この時期です。人がいのちを自分のものにしていることの明確な兆候として、神を知ることに関して心にある様々な疑問、すなわち、神に関する誤解、想像、観念、漠然とした定義が徐々に解決してゆくことがあります。さらに、神の存在の現実性を心から信じ認識するだけでなく、心の中に神の明瞭な定義と神のための正しい場所を持つようになり、漠然とした信仰に代わって、真に神に付き従うようになります。この段階において、人は神に関する自分の誤解や誤った信仰の追求とあり方を徐々に認識するようになります。真理を、また神の裁き、懲らしめ、鍛錬を体験することを、自らの性質の変化を渇望するようになります。この段階の人は、神に関するありとあらゆる観念と想像を徐々に捨て、同時に神についての自分の誤った認識を正し、正しく基本的な認識を得ます。この段階の人が持つ認識の一部は、それほど具体的でも正確でもありませんが、少なくとも神に関する自分の観念や誤った認識や誤解を徐々に捨てるようになり、もはや自分の観念や想像を持ち続けることはありません。人は捨て方を身に着けるのです。すなわち、自らの観念に含まれているもの、知識から来るもの、サタンから得たものを捨てる方法です。正しく肯定的なもの、さらには神の言葉に由来し、真理に適合することに従うようになります。また、神の言葉を体験して、自ら神の言葉を知り、実行し、自らの行動原則と性質を変化するための基礎として神の言葉を受け入れようと努めるようになります。この時期の人は、神の裁きと刑罰を無意識のうちに受け入れ、神の言葉を自分のいのちとして無意識のうちに受け入れます。神の裁き、刑罰、神の言葉を受け入れながら、自分の心の中で信じる神が実在することをますます強く意識し、感じることができるようになってゆきます。神の言葉において、また経験と生活の中で、神が常に人間の運命を支配し、常に人間を導き、人間に施してきていることを次第に強く感じるようになるのです。自分と神との関係を通して、次第に神の存在を確認します。したがって、自分で気付く前に、無意識のうちに神の働きをすでに受け入れ、固く信じるようになっており、神の言葉も受け入れています。ひとたび神の言葉と働きを受け入れると、人は自分自身や、自分の観念、知識、想像を絶え間なく否定し、同時に、真理とは何か、神の心とは何かを絶え間なく追い求めるようになります。人が持つ神についての認識は、発達のこの時期では極めて表層的で、その認識を明確に言葉で説明したり、詳細にわたって表現したりできず、感覚的な認識しかありません。それでも、この段階と前の三段階を比較すると、この段階にいる人の未熟ないのちは、すでに水やりと神の言葉による施しを受けており、芽が出始めています。この段階の人のいのちは、地中の種のようなもので、水分と栄養素を得ると土を割って芽を出し、この萌芽は新たないのちの誕生を意味します。この誕生により、人はいのちの徴候を見て取ることができます。いのちを得ると人は成長します。したがって、この基礎の上で、つまり神への信仰の正しい軌道へと徐々に進み、自分の観念を捨て、神の導きを得ることで、人のいのちは必然的に一歩ずつ成長します。この成長は何を基準として計測されますか。人の神の言葉における経験と、神の義なる性質についての真の理解にしたがって計測されます。この成長段階にいる人は、神と神の本質についての自分の認識を自分の言葉で正確に説明するのを極めて困難であると感じるものの、もはや神の恵みを享受することで自己中心的に悦楽を追求しようとも、神の恵みを得るという個人的な目的のために神を信仰することもありません。その代わりに、神の言葉に基づいて生き、神の救いの対象となることを追い求めます。さらに、自信を持って神の裁きと刑罰を受ける準備ができている。これが、この成長段階にある人の印です。
この段階にある人は、神の義なる性質についてある程度の認識を持っているものの、その認識は極めて不明瞭です。この段階の人はこのようなことを明瞭に説明することができない一方、自分は内面的に何かをすでに得たと感じています。なぜなら、神の刑罰と裁きにより神の義なる性質についてのある程度の認識と理解を得たからです。しかし、それは極めて表面的であり、まだ初歩段階にあります。この段階の人には、神の恵みを取り扱うときの具体的な視点があります。それは、人が追求する目的とその目的の追求方法に起こる変化に表れます。人は神の言葉や働きに、神の人間へのあらゆる要求事項や人への明かしに、もし自分が神の言葉を体験しながら、いまだに真理を追求せず、現実性に入ろうとせず、神を満足させ、神を知ろうとしないままでいたならば、神を信仰することの意味がなくなるということをすでに理解しているのです。どれほど神の恵みを享受していようと、人は自分の性質を変えることができず、神を満足させ、神を知ることができないことを知っており、それでも神の恵みの下で生き続けるならば、人は成長することも、いのちを獲得し、救いを得ることもできないことがわかっています。要するに、神の言葉を真に体験することができず、神の言葉を通して神を知ることができないのなら、人は永遠に赤子の段階に留まり、いのちにおいて一歩も成長することがないということです。永遠に赤子の段階のままで、神の言葉の現実性に入ることがなく、自分のいのちとして神の言葉を持つことがなく、神への真の信仰も神の認識も持たないのであれば、そんな人が神に完全にされる可能性がありますか。したがって、神の言葉の現実性に入る人、神の言葉を自分のいのちとして受け入れる人、神の刑罰と裁きを受け入れ始める人、堕落した性質が変化し始める人、真理を渇望する心と、神を知りたいという願望、神の救いを受けたいという願望がある人はみな、真のいのちを自分のものとする人です。これが第四類型の人、成長する子供の段階、子供時代にある人です。
第五の類型――成熟の段階、あるいは成年期
人が子供時代をよちよちと歩き、前進と後退を繰り返す成長期を経験した後、そのいのちは安定し、停滞することなく前進するようになり、誰もその前進を阻むことはできません。道は依然として険しいものの、人はもはや弱くも、恐れることもなく、手探りで前進することも、方向を見失うこともありません。人の基盤は神の言葉を実際に経験したことに深く根ざし、心は神の威厳と偉大さに引きつけられています。人は神の足跡に続き、神の本質を知り、神についてのすべてを知ることを切望します。
この段階の人は、自分が誰を信じているのかをすでに明確に知っており、なぜ神を信じるべきなのかも自分の生きる意味もはっきりと認識しており、また神が表することはすべて真理であることも明確に知っています。長年の経験から、神の裁きと刑罰なしでは、人間は神を満足させることも、神を知ることも、神の前に実際に出ることも決してできないことに気づいています。この段階の人の心には、神に試されたいという強い願望があります。それは、試されているあいだに神の義なる性質を知り、純粋な愛を得ると同時に、神を真に深く理解し知ることができるようにです。この段階の人は、幼児の段階と神の恵みを享受してパンを食べて満足する段階にすでに完全に別れを告げています。もはや神が寛容と憐れみを自分に見せてくれることに度を越した望みをかけることはなく、むしろ自分の堕落した性質を離れ、神を満足させるために、神による終わることのない刑罰と裁きを受けることを確信しつつ望みます。この段階の人の神に関する認識や追求、その追求における最終目標は、すべて心の中ではっきりしています。したがって、成年期の人は、漠然とした信仰の段階、救いを獲得するために恵みに依存する段階、試練に耐えられない未熟な段階、不明瞭な段階、手探りで進む段階、進むべき道がなくなることがよくある段階、突然の高熱と低温が交互に起こる不安定な段階、目を閉じたまま神に付き従う段階に完全に別れを告げています。この種の人は、神の啓きと照らしを頻繁に受け、神との真の関係と交わりを頻繁にもちます。この段階に生きる人は、神の心の一部をすでに把握しており、自分のするあらゆることに真理の原則を見出すことができ、神の望みをいかに満足させるかを心得ている、と言えます。さらに、神を知る道を見出し、神についての認識を証し始めています。徐々に成長するなかで、この段階の人は、人類を創造した神の心と人類を経営する神の心など、神の心を徐々に理解し認識するようになります。さらに、実質的な意味で神の義なる性質も徐々に理解し認識します。これは、人間の観念や想像が取って代わることはできません。第五段階にいる人のいのちは完全に成熟しているだとか、その人は義人であり完全であるだとかは言えないものの、この人はすでに、いのちの成熟段階に向けて一歩踏み出しており、すでに神の前に来て、神の言葉と神自身と向かい合うことができます。この段階の人は神の言葉を多く経験し、また無数の試練、無数の神からの鍛錬、裁き、刑罰を経験しているため、神への服従は相対的ではなく、絶対的です。この人の神に関する認識は、無意識から明瞭かつ正確な認識へ、表面的なものから深いものへ、ぼんやりと不明瞭なものから詳細で具体的なものへと変化しています。手探りしながら苦労して前進し、受動的に追い求める状態から、苦労せずに認識に達し、積極的に証しする状態へと移行したのです。この段階の人は、神の言葉の真理現実を自分のものとし、ペテロが歩んだような完全への道を歩み始めたと言えます。これが第五類型の人、成熟した状態、成人の段階に生きる人です。
2013年12月14日