唯一無二の神自身 III.
神の権威(2)
本日は、引き続き「唯一無二の神自身」について説教します。この主題について、これまで既に2回にわたって説教しました。1回目は神の権威に関するもの、2回目は神の義なる性質に関するものでしたね。これら2回の話を聞いて、あなたがたは神の身分、地位、そして本質について新たな理解を得ましたか。これらの見識は、あなたがたが神の存在の真理についてより本質的に認識し、確かなものとする上で役立っていますか。本日は、「神の権威」の題目について、さらに詳しく話す予定です。
マクロ的観点とミクロ的観点から神の権威を理解すること
神の権威は、唯一無二です。それは神自身の身分を特徴的に表わすもの、およびその特定の本質であり、いかなる被造物であれ、あるいは非被造物であれ有していないものです。唯一創造主のみにこの種の権威があるのです。すなわち、創造主、つまり唯一無二の神のみが、そのように表現され、唯一の神のみに、そのような本質があるのです。なぜ神の権威について話すのでしょうか。神自身の権威は、人間の考える権威と、どのように異なるのでしょうか。その特殊な点とは、何でしょうか。なぜここで話すほど、とりわけ意義深いのでしょうか。この問題については、あなたがた一人ひとりが熟慮しなければなりません。大部分の人々にとって「神の権威」とは曖昧な概念であり、理解するのに多大な努力を要するものであり、神の権威に関する議論は、漠然としたものとなりがちです。したがって、人間が把握できる神の権威と、神の権威の本質の間には、常に隔たりがあるのです。この隔たりを埋めるためには、実生活において人間の手の届く範囲にあるとともに人間の理解の範疇にある人々、出来事、物事、様々な現象を通して、徐々に神の権威を知らなければならないのです。「神の権威」という表現は深遠なものに感じるかもしれませんが、決して抽象的なものではありません。神は人間の生活の中で、片時も離れることなく人間とともにあり、人間を日々導いています。そのため、あらゆる人が実生活において、神の権威の最も具体的な様相を必然的に見て、経験しているのです。この具体的な様相は、神の権威が実際に存在することの何よりの証拠であり、神にそのような権威があるという事実を人に完全に認識させ、理解させるものです。
神は万物を造りました。そして、万物を造ってきた神は、そのすべてに対する主権を握っています。神は、万物に対する主権を握っているだけでなく、万物を支配します。「神は万物を支配する」という概念は、何を意味するのでしょうか。その概念をどのように説明できるでしょうか。その概念は実生活とどのように結び付くのでしょうか。「万物を支配する」という事実を理解することが、どうして神の権威を理解することに繋がるのでしょうか。「神は万物を支配する」という、まさにその言葉を通して、神が支配する物事は惑星や創造物の一部ではなく、ましてや人類の一部でもなく、すべてのものであるということが分かります。それは巨大な物から微小な物、見えるものから見えないもの、宇宙の星から地球上の生き物、肉眼で見ることのできない微生物やその他の形態で存在する物に至るまで、すべてです。これが、神が「支配」している「万物」の正確な定義であり、神の統治と支配の及ぶところ、神の権威の全貌です。
宇宙、すなわち、天界のありとあらゆる惑星と星は、人間が出現する前に、既に存在していました。マクロレベルでは、こうした天体は、神の支配下で、誕生してからどれだけの年月が過ぎようと一度も変化することなく、軌道を規則的に回り続けてきました。どの惑星が、いつどこに移動するか、どの惑星がいつどのような役割を果たすか、どの惑星がどの軌道に乗るか、どの惑星がいつ消滅するか、あるいはいつ置換されるかなどといった事柄が、すべて寸分の狂いもなく進行しています。惑星の位置や惑星同士の距離は厳密な規則に従っており、正確なデータで表すことができます。惑星が移動する経路、軌道の一周における速度と規則性、特定の位置に到達する時刻、これらすべてを正確に数値化し、特定の法則で表すことができます。数十億年にわたり、惑星は、少しも逸脱することなく、これらの法則に従ってきました。どのような力をもってしても、惑星の軌道や、惑星が従う規則性を変えたり乱したりすることはできません。惑星の運動を律する特定の法則と、それを表す正確なデータは、創造主の権威により運命づけられており、惑星は創造主の統治と支配の下、そうした法則に自然と従います。マクロレベルでは、ある程度の規則性やデータ、そして奇異で説明できない法則や現象を見出すことは、人間にとってそれほど困難ではありません。人間は神が存在することを認めることもなければ、創造主が万物を造り、万物に対する主権を握っているという事実を受け入れることもなく、さらには創造主の権威の存在を認めることもありません。それにもかかわらず、人文科学者、天文学者、物理学者は、宇宙における万物の存在、そして万物の運動を律する原理と法則が、巨大で目に見えない暗黒のエネルギーにより統治され、支配されているという結論に達することが益々多くなってきています。この事実により、人間は、こうした規則性の中心に並外れた者が存在し、すべてを指揮しているということに向き合い、認めざるを得なくなっているのです。彼の力は非凡であり、その素顔を見ることができる人はいないものの、彼は常に全てを統治し、支配しています。彼の主権を超えることができる人や力は存在しません。人間は、こうした事実と向き合う中で、万物の存在を統治する法則は人間が制御できないものであり、誰にも変えられないものであることに気付かねばならず、また、こうした法則は人間が完全に理解できないものであり、自然に発生するものではなく、統治者の命令によるものであることを認めなければなりません。こうした物事は、すべて人間がマクロレベルで認識できる神の権威の表現なのです。
ミクロレベルでは、人間が地上で見る山々、川、湖、海、大陸、人間が体験する季節、地球上に生息する植物、動物、微生物、人間などの万物は、すべて神の統治と支配の下にあります。神による統治と支配の下においては、万物は神の思いに従って出現し、消滅し、その存在を統治する法則が生まれ、その法則に沿って生長し、繁殖します。これらの法則を超える人間や物事は存在しません。それは何故でしょうか。唯一の答えは、神の権威にあります。言い換えると、それは神の思いと言葉によるものであり、神自らの成せる業によるものなのです。すなわち、こうした法則を生むのは神の権威と心であり、神の思いにより移行し、変化し、そうした移行と変化はすべて神の計画のために発生し、消滅します。例として、疫病を挙げます。疫病は何の前触れもなく突発します。その起源や正確な発生原因を知る人はおらず、疫病がある場所へと到達すると、運の尽きた人はその災難から逃れることができません。人間の科学では、疫病は悪性または有害な微生物の拡散により発生することが確認されていますが、その感染の速度、範囲、方式を人間の科学で予測したり制御したりすることはできません。人間はありとあらゆる手段を尽くして疫病に抵抗しますが、疫病が突発した時に、どの人間や動物が被害を受けざるを得ないかについて制御することはできません。人間ができることは、それを予防し、抵抗し、研究することのみです。しかし、いずれの疫病についても、その発生と終息の原因を知る人はおらず、また、その発生と終息を管理できる人もいません。疫病が発生して蔓延した時、人間が行う最初の対策はワクチンの開発ですが、ワクチンが用意される前に往々にして疫病が自然と消滅することがあります。疫病が消滅するのは何故でしょうか。病原菌を抑えることができるようになったためという人もいれば、季節の移り変わりにより消滅するという人もいます。こうした根拠のない憶測に弁護の余地があるかどうかに関しては、科学では説明することも正確に回答することもできません。人間は、こうした憶測だけでなく、疫病に対する人間の理解の欠如と恐怖を考慮に入れなければなりません。結局のところ、なぜ疫病が発生して、なぜ終息するのか、誰にも分かりません。人間は科学のみを信じ、科学に全面的に依存し、創造主の権威を認めることも創造主の統治を受け入れることもないため、決して答えを得ることがないのです。
神の統治下において、万物は神の権威と経営ゆえに生まれ、生き、消滅します。静かにやって来ては去っていく物事もあり、人間にはそれらがどこから来るのか分からず、それらが辿ってきた道筋を把握することもできず、ましてやその往来の理由を理解することなどできません。人間は万物のうちに起こる物事をすべて自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分のからだで経験することができ、それはすべて人間に関係があり、さらに人間は様々な現象の相対的な異常や規則性、あるいは異様ささえも無意識のうちに捉えるものの、その背景に何があるのか依然として知りません。そこには、創造主の旨と心があるのです。そうした現象の背景には様々な経緯と隠された事実があります。人間は創造主から遠く離れて彷徨い、創造主の権威が万物を統治しているという事実を受け容れないため、創造主の権威による統治の下に起こるあらゆる物事を決して知ることもなければ理解することもないのです。神の支配と統治は、概して、人間の想像、知識、理解、人間の科学が到達可能な範囲を超越しており、被造物である人間の知力の及ばないものです。「あなたは神の統治を自らの目で見たことがないにもかかわらず、万物が神の権威の支配下にあるとどうして信じられるのですか」と言う人もいます。見ることが、必ずしも信じること、認めること、理解することであるとは限りません。それでは、信仰はどこからもたらされるのでしょうか。わたしは確信をもって、信仰とは、物事の実態と根源に関する人の理解と経験の程度と深さからもたらされる、と言うことができます。神は存在すると信じていても、万物を神が支配し統治している事実を認めることができず、ましてやそれを感知することもできなければ、神にこのような権威があり神の権威は唯一無二であるということを心の中で認めることは決してありません。創造主をあなたの主、あなたの神として真に受け入れることは決してありません。
人間の運命と万物の運命は創造主による統治と不可分である
あなたがたは皆、成人です。壮年の人もいれば、老年期に入った人もいます。あなたがたは、神を信仰していない状態から神を信仰するまでに至り、そして神を信仰し始めてから、神の言葉を受け入れ、神の働きを経験するまでに至りました。神の統治についてどの程度の認識がありますか。人間の運命について、どのような識見を得ましたか。人間は、生涯の中で望むことをすべて達成できますか。あなたがたは、数十年間生きてきた中で、いくつの物事を自分の望むとおりに達成することができましたか。全く予期していなかった出来事はいくつありますか。思いもよらなかった喜びはいくつありますか。無意識に好機を待ち、天の意を待ちながら、今もなお結実すると期待して待っている物事はいくつありますか。絶望的で挫折したと感じる事はいくつありますか。人は誰でも自分の運命には大きな希望を抱き、人生におけるすべてが思い通りになり、衣料や食料が不足せず、運勢が好転することを期待します。貧しく、虐げられ、困難でいっぱいで災難が付きまとう人生を望む人はいません。しかし人間は、こうした物事を予測することも、操作することもできません。おそらく一部の人々にとって、過去とは雑多な経験の寄せ集めに過ぎません。彼らは天の旨を知る事も、それが何であるかについて関心を向けることもありません。彼らは、動物のように、何も考えずに日々を過ごし、人間の運命や人間が生きている理由、人間はどのように生きるべきかなど考えることはありません。そのような人々は人間の運命について何も理解を得ることなく年老いてゆき、死ぬ瞬間まで人生の意味について何も知ることはありません。そのような人は死んでおり、霊のない生き物、獣です。人々は万物の中で生活し、この世で物質的な要求を満たす様々な手段により快楽を得て、この物質世界が常に進歩しているのを見ていますが、自分自身の経験、すなわち人間の心や霊が感じて経験する事柄は、物質的な事柄とは何ら関係がなく、また、物質的な事柄は経験に取って代わるものではありません。経験とは人間の心の奥深くにある認識であり、肉眼で見えないものです。この認識は、人生と人間の運命について、その人が理解し、それを感じ取ることの中にあります。そして多くの場合、その認識は、目に見えない支配者が人間のために万物を用意し、すべてを指揮していることの理解へと繋がります。こうした物事の中にあって、人は運命の采配や指揮を受け入れざるを得ません。創造主が定めた道筋、創造主に統治された運命を受け入れざるを得ないのです。これは紛れもない事実です。人が運命についてどのような先見性と心構えを持っていようとも、誰もこの事実を変えることはできません。
あなたが毎日どこへ行き、何をして、誰、または何に出会い、何を言うか、あなたに何が起こるか、といった事柄を一つでも予測することができますか。人々はこれらの発生を一切予測することができず、ましてその状況がどのように展開してゆくかを予測することなどできません。人生においては、このような予期せぬ出来事が日常的に発生します。それらは毎日起こることなのです。こうした日常の変化、その変化の展開の仕方や辿る道筋を通して、人が常に思い起こすこととは、無作為に起こる物事はなく、それぞれの物事が発生する過程やその必然性を人間の意志で変えることはできないということです。あらゆる出来事は、人間に創造主の訓戒を伝えるとともに、人間は自分自身の運命を支配できないということを告げています。自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、無意味な野望や願望への反証として起こるのです。こうした出来事は、人の顔を何度も平手打ちするように続けざまに起こり、人間は、誰が最終的に人間の運命を統治し支配するかについて考え直すことを余儀なくされます。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主の統治を、無意識のうちに自然と受け入れるようになります。こうした日常の変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明らかにしないものはありません。すなわち、「創造主の権威は超越不可能である」ということを告げないもの、「創造主の権威は至高のものである」という恒久の真理を伝えないものは存在しないのです。
人間の運命と万物の運命は、創造主の統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を創造主の権威から引き離すことはできません。人間は、万物の法則を通して創造主の指揮と統治を理解するようになり、万物の生存の法則を通して創造主の統治を認識するようになるとともに、創造主が万物を統治し支配する方法を、万物の運命を通して察知します。また人間は、人間と万物のライフサイクルのうちにあって、万物やあらゆる生物への創造主による指揮と采配を真に経験し、そうした創造主の指揮や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や勢力よりいかに優れていて掛け替えのないものであるかということを目の当たりにします。これに鑑みると、創造主の統治は、いかなる被造物にも侵害できないものであり、いかなる勢力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したりすることはできないことを、人間は認めざるを得ません。人間や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われます。これこそ、創造主の権威が真に具現化されたものではありませんか。人間は客観的な法則の中に、あらゆる出来事や万物に対する創造主の統治と定めを見出しますが、創造主による万物の統治の原理を把握できる人間はどのくらいいますか。自分自身の運命を創造主が統治し采配することを真に知り、認め、受け入れて、それに服従することができる人間はどのくらいいますか。創造主が万物を統治するという事実を信じてきた人の中で、創造主が人類の一生の運命も支配していることを真に信じ、認めることができる人はいますか。人間の運命は創造主の掌中にあるという事実を真に理解できる人はいますか。創造主が人間の運命を統治し、支配しているという事実に直面した時、創造主の統治に対して人間はどのような姿勢で向き合うべきですか。それは、現在この事実に直面しているすべての人間が自らのために判断しなければならないことなのです。
人間の人生における六つの節目
一生のうちに、あらゆる人が一連の重要な節目を経験します。こうした節目は、その人の人生における運命を決定づける、最も基本的かつ最も重要な段階です。一生のうちに誰もが経験する、こうした重要な節目をこれから概説します。
出生:第一の節目
人が誕生する時、生まれた家庭環境、性別、容姿、出生時期が、その人生における第一の節目の内容です。
この節目に関して、誰も特定の内容を選択することはできません。それらはすべて、創造主により遥か以前に定められています。こうした内容は外的環境の影響を一切受けず、創造主により予め定められたこれらの事実が人的要因によって変えられることもありません。ある人の誕生は、創造主がその人について定めた運命の第一段階を既に成し遂げたことを意味します。創造主は遥か以前にこうした内容をすべて定めているため、それらを変える力を持つ人はいません。ある人の誕生後の運命とは関係なく、その誕生の条件は予め定められたものであり、定められた通りであり続けます。それらの条件は、その人の人生の運命から影響を受けることは一切なく、その人の人生の運命に対する創造主の統治に影響を及ぼすことも一切ありません。
a.新たないのちは創造主の計画から生まれる
第一の節目の詳細、すなわち、ある者の出生地、家族、性別、容姿、出生期日のうち、人間が自分で決められるものはあるでしょうか。言うまでもなく、人の出生とは受動的な出来事です。人は、自分の意志とは関係なく、ある時、ある場所で、ある家庭に、ある容姿で生まれ、ある家族の一員となり、ある家系に入ります。第一の節目において、人に選択の余地はなく、創造主の計画の下に決定された環境で、特定の家庭に、特定の性別と容姿で、特定の時期に生まれ、それは、その後の人生と密接な繋がりがあります。この重要な節目に、人は何ができるでしょうか。先述の通り、そうした出生の詳細に関して、人間に選択の余地は一切ありません。創造主による予定と導きがなければ、この世に新しく生まれるいのちは、どこへ行き、どこに留まるかを知らず、身寄りもなく、どこにも属することなく、家と呼べるものも持ちません。しかし、創造主の周到な采配があるからこそ、新たないのちは、留まる場所、両親、そのいのちの属する場所、親戚が揃った状態で、人生の旅路に就くのです。この過程全体を通して、創造主の計画に基づく決定により新たないのちが体現され、そのいのちは、あらゆる物事を創造主から与えられることになります。名もなき浮遊物体の状態から、次第に血と肉を持ち、目に見える、神の創造物である有形の人間になります。その人間は考え、呼吸し、寒暖を感じ、物質世界において被造物が行う日常活動に参加することができ、造られた人間が人生で体験すべきあらゆる物事を体験します。創造主が人の出生を予定するということは、創造主が人の生存に必要な物事を余すところなく人に与えることを意味します。同様に、人が生まれるという事実は、人は生存に必要な物事を余すところなく創造主から授かり、それ以降は、創造主の備えのもと、創造主の統治下に別の形態で生きるということを意味します。
b.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由
人々は、もし自分が生まれ変わったならば、名家に生まれる、女性の場合は白雪姫のような容姿で皆に愛される、男性の場合は白雪姫に登場する王子のように何ひとつ不自由なく全世界を意のままにする、などと想像することが往々にしてあります。自分の出生について多くの幻想を抱きながら、自分の家族や容姿、性別、さらには出生時期までも恨み、自分の出生について大いに不満を感じている人がよくいます。しかし人々は、自分が特定の家庭に生まれた理由や、なぜ自分がそのような容姿を持っているかを決して理解できません。そうした人々は、出生地や容姿の如何を問わず、創造主による経営のもとで、自分が様々な役割を担い、様々な使命を果たさねばならず、その趣旨は決して変わらないということを知りません。創造主の観点から見ると、人間の出生地、性別、肉体的な外観は、すべて一時的なものです。これらは、神が全人類を経営する各段階において一連のささいなもの、僅かな象徴でしかありません。そして、人の真の終着点と結末は、どの段階においても人の出生により決定されることはなく、それぞれの人生において全うする使命や、創造主の経営(救いの)計画が完了した時点で創造主から人に下される裁きにより決定されます。
あらゆる結果には原因がある、原因なくして結果はない、と言われています。したがって、人の出生は、必然的に人の現世や前世と結びついています。人の死がその人生の終わりであるとすれば、人の出生は新たな周期の始まりです。従前の周期が人の前世であるとすれば、新たな周期は必然的に人の現世となります。人の出生は、その者の前世と現世と関連しているため、その者の出生に関連する場所、家庭、性別、容姿、その他の要素は、当然そのすべてが人の前世と現世に関連しているということになります。つまり、人の出生の要素は、人の前世に影響されるだけでなく、現世における人の宿命によっても決定されるということであり、そこに、人々の生まれる環境が様々たる所以があります。貧しい家庭に生まれる人もいれば、裕福な家庭に生まれる人もいます。一般的な家柄に生まれる人もいれば、名家に生まれる人もいます。南部地域で生まれる人もいれば、北部地域で生まれる人もいます。砂漠で生まれる人もいれば、緑の生い茂る場所で生まれる人もいます。喝采、歓喜、祝賀のうちに生まれる人もいれば、悲嘆、災難、苦悩のうちに生まれる人もいます。生まれてから宝のように扱われる人もいれば、雑草のように見捨てられる人もいます。端正な容姿で生まれる人もいれば、奇形な容姿で生まれる人もいます。愛らしい外見で生まれる人もいれば、醜い外見で生まれる人もいます。深夜に生まれる人もいれば、真昼の陽光の中で生まれる人もいます。……あらゆる人々の出生は、創造主が人々のために準備している運命により決定されます。人の現世の運命、人が遂行する役割、果たす使命は、人の出生により決まります。こうした物事は、すべて創造主による統治の下、創造主により予め定められます。誰一人として、定められた運命から逃れたり、出生を変えたり、自分自身の運命を選択したりすることはできません。
成長:第二の節目
人々は、生まれた家庭により異なる様々な環境で育ち、自分の両親から様々な教えを受けます。こうした要因により、人が成長して大人になるまでの条件が決定され、成長は人の人生における第二の重要な節目となります。この節目においても人々には選択の余地がないことは言うまでもありません。この節目もやはり事前に定められた不変のものです。
a.各人の成長時における不変の条件は創造主により計画されている
人は成長する際、啓発や影響を受ける人物、出来事、および物事を選択できません。人は、どのような知識や技能を身に付けるか、何を習慣とするかを、選択できません。誰が自分の両親や親戚となるか、自分がどのような環境で成長するかについて発言権は一切なく、他の人々との関係、出来事、周囲の物事、またそうした物事が自分の発達にどのような影響を及ぼすかは、すべて自分で制御できる範囲を超越しています。それでは、こうした事柄は誰が決めるのでしょうか。こうした事柄を事前に用意するのは誰でしょう。こうした事柄は、人々が選択できるものではなく、自分で決められるものでもなく、また自然と具体化するものでもないことは明らかであるため、こうした人物や出来事や物事の形成が創造主の掌中にあることは言うまでもありません。当然ながら、創造主は、各人の出生する特定の状況を予め定めるのと同様に、各人が成長する具体的な状況をも予め定めます。人の出生により、その周囲の人々や出来事、物事が変化する場合、人の成長や発達もまた必然的に、それらの人々や出来事、物事に影響を与えることになります。たとえば、貧しい家庭に生まれても裕福な環境で成長する人々がいる一方で、裕福な家庭に生まれてもその家庭の財産が減ってゆき、貧しい環境で育つ人々もいます。その出生が一定の法則により管理されている人はおらず、必然的な一定不変の状況下で成長する人もいません。こうした物事は人が想像したり制御したりできるものではなく、人の運命から生まれる結果であり、人の運命により決定されるものです。無論、根本的にこれらの物事は創造主が各人のために予定した運命により決定されているとともに、その運命に対する創造主の統治と計画により決定されています。
b.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる
人の出生の状況により、人が成長する環境や基本的な水準と状況が確立されるのと同様に、人が成長する状況も、その出生の状況から生まれる結果です。この期間は、人が言語を学び始め、人の心が多くの新しい物事に遭遇してそれを吸収し始め、継続的に成長する過程です。人がその耳で聞く事柄、その目で見るもの、その心で吸収する物事は、人の内部の世界を次第に豊かにし、活力を与えます。人が遭遇する人々、出来事、物事、人が学ぶ常識、知識、技能、人が影響され、植え付けられ、教えられる考え方のすべてが、その人生の運命を導くとともに人生の運命に影響を与えます。人が成長する時に学ぶ言語と人の考え方は、幼年期を過ごす環境と切り離せないものであり、その環境は両親や兄弟姉妹、その他の人々、出来事、そうした人々の周囲にある物事で構成されています。したがって、人が発達する過程は、人の成長時の環境により決定されるとともに、この時期に遭遇する人々、出来事、物事により左右されます。人の成育時の諸条件は遥か昔に定められているため、当然ながら、その過程における生活環境も定められています。それは、人が好みで選んで決めるものではなく、創造主の計画に従い、創造主の入念な采配と、人の人生の運命への創造主による統治の下に決定されます。それゆえに、あらゆる人が成育時に出会う人々や遭遇する物事は、すべて必然的に創造主の指揮と采配に関連しています。人々はそうした複雑な相互関係を予測することも、制御することも、推測することもできません。その成育環境には様々な物事や様々な人々が関連し、そうした広大な網の目のように広がる結びつきを用意したり、指揮したりすることができる人間はいません。創造主を除き、いかなる人間や物事も、すべての人々、出来事、物事の出現、存続、消滅を制御することはできません。広大な網の目のような結びつきにより、人の発達は創造主が定めた通りに形成され、人々の様々な成育環境が形成されるとともに、創造主の経営の働きに必要とされる様々な役割が造り出され、人々がその使命を完遂するための堅牢な基盤が築かれるのです。
独立:第三の節目
人が少年期と思春期を経て、徐々に不可避的に成熟すると、次に成すべきは、青年期と完全に訣別し、両親に別れを告げ、独立した成人として将来の道へと向かうことです。この時点においては、成人が直面しなければならない人々、出来事、物事、そして程なく現われるあらゆる運命と向き合わなくてはなりません。これが、人が経験しなければならない第三の節目です。
a.人は独立後に創造主の統治を経験するようになる
人の人生の旅路において、出生と成長が人の運命の基礎を築くための「準備期間」であるならば、人の独立は、その人生の運命における冒頭の独白です。人の出生と成長が人生の運命のために人が蓄えた富であるならば、人が独立するのは、その富を消費ないし追加し始める時です。人がその両親を離れて独立する時、人が直面する社会の状況、人が得られる職業や経歴の本質は共に運命により定められ、両親とは無関係です。大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、意気揚々と人生の旅路の第一歩を踏み出す人もいます。様々な技能をたくさん学んで身に付けても、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなどありえず、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、不確かな人生を送る人もいます。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しのところで逃してしまい、その後の成功運は尽きたように思われ、人生の旅路における初心の志が消沈してしまう人もいます。人々は、先行きが順調なのか困難なのか分からなくなって初めて、人間の運命がいかに移ろいやすいものであるかを実感し、人生に期待と恐れを抱きます。それほど優れた教育を受けていないにもかかわらず、著書を出版し、一定の名声を得る人や、ほぼ無学でありつつ事業で生活できるだけの金額を稼ぐ人もいます……。人々は、自分が選ぶ職業や生計を立てる手段について、その選択が正しいか間違っているかを制御することができますか。物事は、人間が望み、決定した通りになりますか。大半の人は、少ない労働時間でたくさん稼ぎたい、日照りや雨の中で骨折って働きたくない、身なりを良くしたい、どこでも眩く輝く人でありたい、他人よりも秀でた存在でありたい、家の名を上げたいと願っています。人間は完璧を望みますが、人生の旅路の一歩を踏み出した時、人間の宿命がどれほど不完全であるかを認識するようになり、また、自分の将来に大胆な計画を立て、大それた夢を抱くことはできても、それを叶える能力や権力を持つ人、自分の将来を制御する立場にある人は誰一人としていないという事実を、初めて真に理解します。自分の夢と、直面しなければならない現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決してなく、そうした現実に直面した人々は決して満足感や充足感を味わうことがありません。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいます。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められたことは決して超越することができません。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、運命を前にして人々は皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別はありません。人が従事する職業、人の生業、人が生涯にわたって蓄える富は、両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められています。
b.両親を離れ、人生の舞台で本格的に自分の役割を果たすこと
人は成熟すると、親元を離れて独立することができるようになり、この時点で、人は真に自分の役割を担い始めます。霧が晴れ、人生における使命が次第に明瞭になるのです。名目上、人は依然として両親と密接に繋がっていますが、人の人生における使命と果たす役割は、父母とは無関係であるため、実際には、この密接な繋がりは、人が独立してゆくに従って次第に解かれていきます。生物学的な面から見ると、人々は潜在意識下で両親に依存せずにはいられませんが、客観的に言うと、成人後、人は自分の両親とは完全に分離した生活に入り、独自に決めた役割を果たします。子供の生活に対する両親の責任は、出産と育児を除くと、ひたすら子供に慣習的な成育環境を与えることです。なぜなら、創造主の予定以外に、人間の運命と関係のある物事はないからです。人の将来がどのようになるかを制御できる人はいません。人の将来は遥か昔に予め定められており、両親でさえも変えることはできません。運命に関しては、人間は皆独立しており、各人には独自の運命があります。したがって、自分の子供の人生における運命を阻んだり、その子供が人生で担う役割に何らかの影響を与えたりすることができる両親はいません。人が生まれる運命にある家庭や、人の成育環境は、人の人生における使命を果たすための前提条件でしかないと言えるでしょう。それらの条件が、何らかの形で人の人生における運命を決めたり、どのような宿命の中で人が使命を果たすかを決めたりすることはありません。したがって、人の人生における使命の遂行を、その人の両親が助けることもできなければ、人が人生で担う役割を、その人の親類が助けることもできないのです。人がどのように使命を完遂するか、どのような生活環境で役割を遂行するかは、一つ残らずすべて人の人生の運命によって決定されます。言い換えれば、創造主により予め定められた人の使命に、その他の客観的条件が影響を与えることはないということです。すべての人々は、それぞれ特定の成育環境で成人に達し、段階的に自分自身の人生の道を歩み始め、創造主が各人のために計画した使命を果たします。人々は、自然と無意識のうちに、人類の大海原へと入り、その生涯における役割を担い、そこで創造主の定めのため、創造主の統治のために、被造物として自分の責任を遂行し始めます。
結婚:第四の節目
人が成長して成熟すると、自分の両親や自分が生まれ育った環境から離れて行き、自分の両親とは異なる、自分の人生の方向性と人生の目標を追究するようになります。この時期、人はもはや両親を必要としませんが、一緒に生活できる相手、すなわち、自分の運命と密接な関連性を持つ、配偶者を必要とします。このように、人が独立してから最初に遭遇する主要な出来事は結婚であり、それが、人間が経験すべき第四の節目です。
a.人には結婚に関する個人的選択の余地がない
誰にとっても結婚は人生における重要な出来事であり、人が様々な務めを本当の意味で担い始める時であるとともに、次第に様々な使命を遂行し始める時です。人々は、自分が自ら結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱いており、それらの幻想はすべて実に美しいものです。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような人と結婚することを想像します。こうした空想は、あらゆる人が、それぞれ結婚に対して一定の条件、要望と基準の諸条件を持っていることをまさに証明しています。この邪悪な時世において、人々は結婚に関して歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人々にあらゆる種類の負担が課せられ、結婚に対する人々の姿勢は奇妙なものになっています。しかし、結婚を経験した人は、人が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題ではないことを知っています。
人間は、人生において多数の人々に出会いますが、誰が結婚相手となるかを知る人はいません。誰もが結婚という問題に対して個人的な概念や心構えを持っているものの、最終的に誰が真の相手となるかを予測できる人はおらず、また、この問題に対する自分自身の概念はほとんど意味をなしません。自分が好きな人物と出会い、その後、その人物を追いかけることはできても、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められることではありません。自分が慕う人物は必ずしも自分が人生を共にする相手であるとは限りません。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に静かに登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が切り離せないほどに結びついている人物、すなわち配偶者となります。そのようなわけで、世界には数百万の結婚がありますが、ありとあらゆる結婚はそれぞれに異なります。不満な結婚、円満な結婚、東西にまたがる結婚、南北にまたがる結婚、完璧な相性の結婚、同じ階級同士の結婚、幸福で調和した結婚、辛く悲しい結婚、羨望される結婚、誤解され、疑問視される結婚、幸福に満ちた結婚、涙に溢れた絶望的な結婚、こうした結婚がそれぞれ非常にたくさんあります。そのように無数の類の結婚がある中で、人間は結婚生活への忠誠と一生の約束を示します。愛情、慕情、分かちがたい結びつき、あるいは断念、無理解、裏切り、さらには憎悪を示す人々もいます。結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わることがありません。この使命はあらゆる人が全うしなければならないことなのです。それぞれの結婚の背景にある各人の運命は変わりません。なぜなら、それは創造主により遥か昔に定められているからです。
b.結婚は二人の配偶者の運命から誕生する
結婚は人の人生における重要な節目です。結婚は人間の運命の産物であり、人の運命における極めて重要な接点です。結婚は人の個人的な意志や嗜好に基づくものでもなければ、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、その一切は、当事者双方の運命、双方の運命への創造主による采配と定めにより決定されます。表面的には、結婚の目的は人類の存続ですが、実際は、結婚は人が使命を全うする過程で経験する儀式に他なりません。結婚において人々が果たす役割は、単に次の世代を養育するにとどまりません。人々には、結婚を継続する過程においてありとあらゆる役割と、その役割を完遂する使命があります。人の出生は、人々、出来事、その周囲の物事のうちに起こる変化に影響を与えるので、人の結婚もやはり、必然的にそうした人々、出来事、物事に影響を与え、さらには、それら一切を色々な方法で変化させるのです。
人が独立する時、人は自分自身の人生の旅路につき、自分の結婚に関連する人々、出来事、物事へと、一歩一歩導かれていきます。それと同時に、その人と結婚する配偶者もまた、同じ人々、出来事、物事へと、一歩一歩近付いていきます。創造主の統治下において、繋がりのない二人の人間が繋がりのある運命を共有し、次第に結婚する方向へ進み、奇跡的に家族、すなわち「一本の縄に張り付く二匹のいなご」となります。したがって、人が結婚すると、その人の人生の旅路は配偶者に関与して影響を与え、同様に配偶者の人生の旅路はその人の人生の運命に関与して影響を与えます。言い換えれば、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことができる人はいないということです。人間の出生は、極めて幅広い一連の結びつきと関係があります。成育もやはり一連の複雑な結びつきに関係しています。同様に、結婚は必然的に極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、その範囲内に維持されて、その結びつきの中にいるあらゆる人の運命に影響します。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能、その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と、繋がりのある運命から生じます。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源です。
子孫:第五の節目
結婚後、人は次の世代の養育を開始します。どのような子供が何人生まれるかについて、人には発言権がなく、これもまた、創造主が予め定めた、人の運命により決定されます。これが、人が経験しなければならない第五の節目です。
人がある人の子としての役割を果たすために生まれるならば、人はある人の親としての役割を果たすために次の世代を養育するということになります。こうした役割の変化により、人は人生の様々な段階を、様々な立場で経験します。またそこから得られる様々な人生経験を通して、人は創造主の統治を知るようになります。創造主の統治は常に同じ方法で行われ、それを通して人は、誰一人として創造主の定めを逸脱したり変更したりすることはできないという事実に直面します。
a.人間は自分の子供がどうなるかを制御できない
出生、成育、結婚はすべて、様々な種類と様々な程度の失望感を人々にもたらします。家族や容姿に不満がある人もいれば、両親が嫌いな人や、成育環境に対して憤慨したり、不服を持ったりする者もいます。そして大半の人々にとって、こうした失望感のなかでも、結婚が最も大きな不満となります。出生や成長、結婚にどれほど不服であるかを問わず、そうした節目を既に経験した人は、自分の出生地や出生期日、自分の容姿、自分の両親、自分の配偶者を選ぶことはできず、天の意を受け容れるほかないことを知っています。しかし、人々が次の世代を養育する時になると、彼らは自分の半生で叶わなかった願望を子供に投影し、自分がその半生において経験した失望感が、子供により埋め合わせられることを願います。そうしたわけで、自分の娘は息を呑むような美女に育つ、自分の息子はさっそうとした紳士に育つ、自分の娘は教養が高く才能に溢れている、自分の息子は優等生になり、卓越したスポーツ選手になる、自分の娘は優しくて気立てが良く、感情が豊かになる、自分の息子は聡明で能力が高く、気配りのできる人になるなど、人々は自分の子供に関して様々な幻想にふけります。彼らは、娘であれ息子であれ、自分の子供が年長者を敬い、両親に気遣い、皆に愛され、称賛されることを願います。この時点では、人々は人生の新たな希望が膨らみ、心の中では新たな情熱に火がつきます。人々は、自分の人生においては自分が弱く、無力であること、何かに卓越する機会や希望は二度とないこと、自分の運命を受け容れるほかないことを知っています。それゆえに、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想をすべて、次の世代に投影し、自分の子供が自分の夢を叶え、自分の願望を実現する手助けとなること、自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望んでいます。つまり、彼らは自分の子供が幸運に恵まれることを願っているのです。人々の計画や幻想は完璧です。自分の子供の数や自分の子供の容姿、能力などは自分で決められるものではなく、自分の子供の運命は僅かたりとも自分の掌中にはないということを彼らは知らないのでしょうか。人間は、自分が自分自身の運命の主ではないにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全くないにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとします。彼らは、自己を過信していないでしょうか。これは人間の愚かさと無知さではないでしょうか。人々は自分の子供のためなら一切努力を惜しみませんが、最終的には、自分が授かる子供の人数や、その子供がどのような子供であるかは、人の計画や願望通りにはならないのです。貧しいながら多くの子供を授かる人もいれば、裕福ながら子供を授からない人もいます。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない人や、息子を欲しがっていても息子を授からない人もいます。自分にとって子供が祝福となっている人もいれば、自分にとって子供が災いとなっている人もいます。自分達は聡明でも、知能の発達が遅い子供を授かる夫婦や、自分達は勤勉で誠実でも、育てている子供が怠惰であるという両親もいます。自分達は親切で正義感があっても、悪賢く凶暴な子供を授かる両親もいます。自分達は心身共に健全であっても、障害を持つ子供を授かる両親もいます。自分達は平凡で出世できずとも、偉業を成し遂げる子供を授かる両親もいます。自分達は低い身分であっても、授かった子供の身分が高くなる両親もいます。……
b.人間は、次の世代を養育した後、運命に対して新たな認識を得る
結婚する人々の大半は、三十歳前後という、人生において人間の運命の何たるかをまだ何も心得ていない時期に結婚します。しかし、子育てを始めると、子供が育つにつれ、人々は、一つ前の世代の人生とあらゆる経験が新しい世代により繰り返されるのを目の当たりにし、そうした状況に自分の過去が反映されているのを見て、自分の道と同様に、若い世代が歩む道も、計画したり選択したりすることができないことに気付きます。人々は、この事実に直面すると、あらゆる人の運命は予め定められていると認めざるを得ず、それほど意識することなく自分の願望を徐々に捨て去り、心に秘めた情熱は冷めていきます……。こうしている間に、人々は、実際のところ人生におけるいくつかの重要な節目を通り越し、人生に対する新たな認識を得て、新たな姿勢を取るようになります。この年齢の人は、将来にどの程度期待することができ、どのような見込みを待ち望むべきでしょうか。王子が現れるのを夢見続けている五十歳の女性はいますか。白雪姫を夢見続けている五十歳の男性はいますか。醜いアヒルの子から白鳥へと生まれ変わることを願い続けている壮年の女性はいますか。高齢男性は、若い男性と同じように出世に対する欲望を持っていますか。要するに、男性か女性かを問わず、この年齢に達した人は、結婚、家族、子供について比較的合理的かつ実践的な姿勢を取りがちです。そのような人には、基本的に選択肢がなく、運命への挑戦へと駆り立てられる事もありません。人間の経験に関する限り、人がこの年齢に達すると、自然と「運命を受け止める必要がある。子供には独自の運命があり、人間の運命は天により定められたものである」という姿勢を取るようになります。真理を理解しない人々の大半は、この世の栄枯盛衰や挫折、苦難を切り抜けてきた後、人生に関する識見を「それが運命である!」というひと言で表現します。このひと言は、人々の運命に対する理解と人々が行き着いた結論が世俗的な観点から要約されたものであり、また、人類の無力さを表現し、的を射た正しいものだと言えますが、それは創造主の統治に対する理解からは遠くかけ離れたものであり、創造主の権威に対する認識には到底代わることのないものです。
c.運命を信じることは、創造主の統治に対する認識に代わるものではない
運命について、長年にわたり神に付き従って来たあなたがたの認識と俗世人の認識には大きな違いがありますか。あなたがたは、創造主の定めを真に理解し、創造主の統治を真に知りつつありますか。「それが運命である」という言葉について心から深く共感している人もいますが、彼らが神の統治を一切信じず、人間の運命が神により定められ、指揮されているということを信じず、神の統治に服従したがりません。そのような人々は、あたかも大海原に漂流し、波にもまれ、潮に流されるように、受け身で運命に身を委ねるほかありません。依然として、彼らは、人間の運命が神の統治下にあることを認めません。彼らは、神の統治について自ら自発的に気付くことで神の権威を知り、神の指揮と采配に従い、運命に逆らうのを止め、神の慈しみと保護、導きの下に生きるということができません。言い換えれば、運命を受け容れることは、創造主の統治に従うこととは異なり、運命を信じる事は、神の統治を受け容れ、認め、知ることではなく、単にその事実と表面的な現象を認めることにすぎません。それは、創造主が人間の運命をどのように支配するかを知る事、創造主が万物の運命を支配する源であることを認める事とは異なるものであり、創造主による人の運命への采配と計画に服従する事とは明らかにはなはだしい隔たりがあります。人が運命のみを信じ、それについて深く共感していても、それにより人間の運命への創造主による統治を知り、認め、それに服従し、それを受け容れることができなければ、人の人生は悲惨で虚無のうちに生きる人生となり、創造主の支配に服従することも、造られた人間という言葉が真に意味するところの存在となることも、創造主の是認を享受することもできません。創造主の統治を本当に知り、経験する人は、受動的でも無力でもなく、能動的であるべきです。そのような人は、すべてが運命づけられていることを認めると同時に、いのちは創造主の統治下にあるという人生と運命の正確な定義を把握している必要があります。人が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、人は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知ります。人が気付かぬうちに人を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画です。創造主による統治を受け容れ、創造主の救いを得ることができるということは、何と幸運なことでしょう! 人が自分の運命に対して消極的な姿勢でいる場合、それは、神が彼らのために用意したあらゆる物事をその人が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味します。神による人間の運命の統治に対して、人が能動的な姿勢でいるならば、人が自分の旅路を回顧し、神の統治を真に把握するようになった時、人は神が用意した物事のすべてに従うことを一層真剣に望むようになるとともに、人の運命を神の指揮に委ね、神に反抗することを止めるということに一層強い決断と確信を得るでしょう。運命を把握することもなく、神の統治を理解することもなく、霧の中を敢えて苦労してよろめきながら手探りでさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かります。したがって、人の運命への神の統治を人々が認めた時、賢明な人は、それを知り、受け容れて、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別することを選び、運命に逆らい、いわゆる「人生の目標」なるものを自らの方法で追い求めることを止めます。神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治をはっきりと認識することもなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めです。どこにいようが、どのような仕事をしようが、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えないものになります。創造主の統治を受け容れて、その指揮と采配に従い、真の人生を求めて初めて、人は徐々にすべての悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのです。
d.創造主の統治に従う人々のみが真の自由を得ることができる
人々は神の指揮と統治を認識していないので、常に挑戦的かつ反抗的な態度で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを願い、現状を変え、運命を改変するという儚い望みを抱いています。しかし、人間は決してそれに成功することはなく、事あるごとに挫折します。こうした葛藤は、人の魂の奥底で生じ、骨身に沁みるほどの並々ならぬ苦痛を伴うものであり、人はその間絶えず自分の命を浪費しています。この痛みの原因は何でしょうか。神の統治が原因でしょうか、それとも人が不運な境遇に生まれたことが原因でしょうか。明らかに、そのいずれでもありません。結局は人々が進む道、人々が選択する人生の過ごし方が原因となっています。こうした物事を認識していない人々もいるかもしれません。しかし、神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定したあらゆる物事が大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放されます。大半の人々の状態から判断すると、人々は、主観的には、従前のような生活を望まず、苦痛から解放されることを望んでいるにもかかわらず、客観的には、創造主が人間の運命を統治していることの実際の価値と意義を真に把握することができず、創造主の統治を認めて従うこともできず、ましてや創造主の指揮や采配を求め、受け容れる方法を知るよしもありません。そうしたわけで、創造主が人間の運命と、人類のあらゆる物事を統治しているという事実を人々が真に認識できず、創造の統治に真に服従できない場合、その人々にとって、「人間の運命は自分の掌中にある」という観念に駆られて捕らわれることのないようにするのは困難でしょう。彼らにとって、運命や神の権威に対抗する激しい葛藤による痛みを払拭することは困難であり、また、言うまでもなく、彼らが真に解放されて自由になり、神を崇拝する人々となることもやはり困難でしょう。こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法があります。それは、自分の以前の生き方や人生の目標と訣別し、以前の生き方、人生観、追求、願望、理想を概括し、分析し、それを神の旨や人間への要求と比較し、それらのいずれかが、神の旨や要求と一致しているか、人生の正しい価値をもたらすか、一層深い真理の理解へと導くか、人間性と人間らしさを伴った生き方を可能にするかを確認することです。人々が追求する人生の様々な目標や多種多様な生き方を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本来の意図と一致するものがひとつもないことが分かります。それらはすべて、人間を創造主の統治と慈しみから引き離し、人々を堕落させて地獄へと導く罠です。このことを認識した後の課題は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神の采配に委ねることです。それは、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、個人的な選択肢を持たず、神を崇拝する人になるということです。これは簡単に思えますが、行うのは困難です。苦痛に耐えられる人々もいれば、耐えられない人々もいます。喜んで従う人々もいれば、ためらう人々もいます。ためらう人々には、それを行うことを望む気持ちと決意が不足しています。つまり、彼らは、神の統治を明確に認識するとともに、人間の運命を計画し、采配を行うのは神であることを完全に知っているにもかかわらず、それでもなお反抗しようとあがき、自分の運命を神の掌中に委ねて神の統治に従うことを許さず、さらには、神の指揮と采配に憤慨しています。そのようにして、自らのために自分の能力を知ることを願う人々が常に存在するのです。彼らは自分の運命を自らの手で変えること、自分の力で幸福になること、神の権威の範囲を出て、神の統治を超えることができるかどうかを試すことを望みます。人間の悲劇は、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けるということができず、心を頑なにして自分の過ちを押し通そうとすることです。人間は、すべてにおいて悔恨の欠片もなく、泥の中でのたうち回り、創造主の統治に対して頑固に対抗し続け、苦々しい結末を見るまで抗い続けます。うちひしがれ、重傷を負って倒れた時、やっと諦めて戦いを止めるのです。これが、人間の本当に悲しい性です。ですから、わたしは言います。服従することを選ぶ人々は賢者であり、苦闘して逃れることを選ぶ人々は実に愚か者です。
死:第六の節目
慌ただしい日々と、挫折と失望、歓喜と悲哀、幸運と不運、忘れられない年月など、無数の出来事を経験し、巡る季節のなかで、人生の重要な節目をそれと気づくことなく瞬く間に過ごした末、人間は衰退期に入ります。過ごした年月の跡は身体全体に刻み込まれています。もはや真っ直ぐ立つことはできず、濃色の頭髪は白くなり、かつて明るく澄んでいた眼は暗く曇り、滑らかで柔らかい肌はシミとシワのある肌へと変化します。耳が遠くなり、歯が抜け落ち、反応が鈍くなり、動きが遅くなります……。この時点で、人は情熱溢れる若年期に最後の別れを告げ、人生の黄昏期に入ります。その次に、人間は人生最後の節目である死を迎えます。
a.創造主のみが人間の生死に対する力を握っている
人の出生が人の前世により運命づけられているとすれば、人の死はその運命の終りとなります。人の出生がその人生における使命の始まりであるとすれば、人の死は、その使命の終りとなります。創造主は人の出生の諸条件を定めているので、創造主が人の死についても諸条件を定めていることは言うまでもありません。言い換えれば、偶然生まれる人はおらず、突然訪れる死はなく、出生と死は必然的に人の前世と現世に関連しています。人の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらは人の宿命であり、人の運命です。出生について様々な真相がある以上、人の死も当然ながらそれぞれ特定の諸条件のもとに起こります。これこそが、人の寿命が様々であり、死の経緯や時刻が異なる理由です。強健でも早死にする人もいれば、虚弱でも長生きして安らかに永眠する人もいます。不自然な原因で死ぬ人もいれば、自然な原因で死ぬ人もいます。自宅から遠く離れて死ぬ人もいれば、最後に最愛の人々に看取られながら目を閉じる人もいます。空中で死ぬ人もいれば、地下で死ぬ人もいます。水中に沈む人もいれば、災害の犠牲者となる人もいます。朝死ぬ人もいれば、夜死ぬ人もいます。人は皆、華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望みますが、自分の運命から脱したり、創造主の統治から逃れたりできる人はいません。これが人間の運命というものです。人は将来に向けて様々な計画を立てることができますが、出生と他界の経緯や時期は誰にも計画できません。人々は死を回避し、阻止しようと最大限の努力をしますが、やはり、死は人知れず静かに近付いて来ます。自分がいつどのように死ぬかを知る人はおらず、ましてや何処で死ぬかなど知る人はいません。生死に対する力を握っているのは人間でもなければ自然界の生き物でもなく、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかです。人類の生死は自然界の法則の産物ではなく、創造主の権威による統治の結果です。
b.創造主の統治を知らない人間は、死の恐怖に苛まれる
人が老年になると、人が直面する課題は、家族を養うことでも、人生の大望を抱くことでもなく、人生にどのように別れを告げるか、どのように臨終を迎えるか、自分という存在に、どのように終止符を打つかということです。表面的には、人間は死を少しも気にかけていないように思われますが、その問題を追及せずに済む人はいません。なぜなら、誰一人として、死の向こう側に別の世界が存在するかどうか、人間が知覚したり感じ取ったりできない世界、誰も知らない世界が存在するかどうかを知る人はいないからです。このため、人間は死と正面から向き合うこと、然るべき時に死と対峙することを恐れ、その問題を避けるよう最大限の努力をします。したがって、あらゆる人が死をひどく恐れ、人生において避けることのできない事実が謎に包まれ、あらゆる人の心に絶えず影を落としているのです。
自分の身体の劣化を感じ、死が迫っていると感じる時、人は曖昧で表現し難い恐怖を覚えます。死に対する恐怖により、人は一層淋しさと無力感を感じ、この時点で人は、人間は何処から来て、何処へ向かっているのだろうか、こうして束の間の人生を終えて死ぬのだろうか、これが人の人生の終わりの時なのだろうか、最終的に人生の意味は何だったのだろうか、結局人生には何の価値があるのだろうか、それは富と名声なのだろうか、それは家族を養うことなのだろうか、などと自問します。こうした具体的な疑問について考えてみたことがあるか、死をどれほど恐れているか如何を問わず、すべての人の心の奥深くには、この謎を究明したいという欲求、自分は人生について無理解であるという感覚が常にあり、またこうした気持ちの中に、この世に対する感傷、この世を去ることへの不本意さが混在しています。人間が恐れているものが何か、探し求めるものは何か、人間は何に対して感傷的になるか、何を残して去るのが不本意なのかを明確に表現できる人は、おそらく誰一人としていないでしょう。
人々は死を恐れているので、多くの心配を抱えています。彼らは死を恐れているので、捨て去れない物事が多すぎるのです。臨終する時、あれやこれやと気を揉み、子どもや自分が愛する人々、財産など様々な事について、あたかも心配すれば死がもたらす苦悩や恐怖を解消できるかのように、あたかも生きている人々と何らかの親しい関係を維持すれば死に伴う無力感と淋しさから逃れられるかのように思う人々もいます。人間の心の奥底には、漠然とした恐怖、愛する人と離別する恐怖、青い空や物質世界を二度と見られないことへの恐怖があります。愛する人と共にいることに慣れきった、人を恋しがる魂は、握りしめたものを手放して未知の世界にたった一人で立ち去ることに抵抗を感じています。
c.富と名声を追求して人生を過ごした人間は、臨終時に途方に暮れる
創造主の統治と定めにより誕生した名もなき孤独な魂は、両親と家族を得て、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得ます。この魂は、創造主の統治を経験する機会、創造主の創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、神の権威に服従する機会を得ます。しかし大半の人が、こうした稀少で束の間の機会を実際に掴むことはありません。人は一生分のエネルギーを運命に立ち向かうことに使い果たし、家族を養おうとせわしなく働き、富と地位の間を行き来して、すべての時間を費やします。人々が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、彼らはこれらを人生において最も価値の高いものとみなします。すべての人々が自分の運命に不満を言うものの、人間はなぜ生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、といった、最も喫緊に検討して理解すべき問題を頭の隅に追いやって考えないようにしています。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、ただせわしなく富と名声を追い求めて全生涯を生きます。富と名声で人間の老衰を止めることはできないこと、金銭で心の空虚感を埋められないこと、誰一人として出生、老化、疾病、死の法則から除外される人はいないこと、待ち受ける運命から逃れられる人はいないことを悟るまで、そのような生き方をするのです。人々は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、やはり死を免れられる人はおらず、人は一人残らず、元来の名もなき孤独な魂という境遇に還らなければならないということを理解します。両親のいる人々は両親がすべてであると考え、財産のある人々は金銭が自分の頼みの綱であり生きる上での手段であると考えます。立派な地位があれば、人々はそれにしがみついて、そのために命を賭けます。この世界を手放そうとする時になって初めて、人々は自分が生涯をかけて追求してきた物事が、空を過ぎゆく雲のようなものであり、いずれも掴み続けることもできなければ、自分とともに連れていくこともできないものであり、自分を死から免れさせることもなければ、この世を去る孤独な魂の帰路に仲間や慰めを与えることもないものであり、またとりわけそうした物事のなかに、人々を救って死を超越することを可能にするものなどないということに気付きます。人々は、この物質世界で富と名声を得ることで、一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を覚え、その結果、道を踏み外します。人々はそのようにして、広大な人間の世界で、平和、慰め、心の平穏を求めて手足をばたつかせてもがくうちに、次々と襲ってくる波に呑まれます。人間は何処から来て、なぜ生きていて、どこへ行くのか、など、最も理解するべき重要な問題を見出せずにいる時、人々は富や名声により誘惑され、惑わされ、支配され、道を見失って取り返しがつきません。時の流れは速く、年月は瞬く間に過ぎ去り、人は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げます。人は、まもなくこの世を去ろうとする時、この世の物事はすべて流れ去って行き、それまで自分の持っていたものを手放さずに繋ぎ止めておくことはもはやできないという認識へと徐々に辿り着きます。そして、自分がまだ名もなき、この世に生まれたばかりの泣き叫ぶ赤ん坊のようだと実感します。この時点において人は、人生で何を成し遂げたか、生きていることの価値とその意味、自分がこの世に現れた理由をじっくり考えることを余儀なくされます。そして、来世というものは本当にあるのだろうか、天国は本当に存在するのだろうか、報いというものは本当にあるのだろうか、といったことを人が益々知りたくなるのは、この時点です。人は死に近付けば近付くほど、人生とは何かを知りたい気持ちが強くなります。死が近付けば近付くほど、人の心は益々空虚になり、無力感が強くなるので、死に対する恐れが日々強くなります。人々が死に近付く時にこのような感情が表れる理由は二つあります。一つ目には、自分の人生を依存してきた富と名声を失いつつあり、この世の目に見える物事すべてを置き去りにしようとしていることです。二つ目には、愛する人々や支援の手段が存在しない、足を踏み入れるのが不安になるような、馴染みのない世界、謎に包まれた未知の領域にただ独りで立ち向かおうとしていることです。この二つの理由のため、あらゆる人は死に直面すると、不安になり、それまで決して知ることのなかった混乱と無力感を覚えます。人々は、実際にこの時点になって初めて、人がこの地上に足を踏み入れた時にまず理解すべきことは、人間がどこから来るのか、なぜ人々は生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に糧を施し、それを統治するのは誰であるのかということだと知るのです。これらを理解していることは人が生きるための真の手段となり、人間の生存に不可欠な基盤となります。それは、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知ることでもなければ、人々よりも卓越した存在となる方法や一層豊かに生活する方法を知ることでもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を学ぶことなどでもありません。生涯をかけて習得する生存のための様々な技能により、人々は物質的な快楽を豊富に得ることができるものの、そうした技能は決して人の心に真の平和と慰みをもたらすことはなく、むしろ絶えず人間に道を踏み誤らせ、自分を掌握するのを難しくさせ、人生の意味を知る機会を一つ残らず失わせます。これら生存のための技能は、然るべく死を迎えるにはどうすれば良いかということに対して漠然とした不安を生み出します。こうして、人々は人生を台無しにするのです。創造主は、あらゆる人を平等に扱い、生涯にわたり創造主の統治を経験し、知る機会を与えるにもかかわらず、人は、死が近づき、自分に死の恐怖が差し迫って初めて光が見えるようになり、その時は、既に手遅れなのです。
人々は、金銭と名声を追い求めて人生を過ごします。それらがあれば、生き長らえて死を免れるとでもいうように、金銭と名声が唯一の支えだと考え、それらの藁にしがみつくのです。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独で無力であり、進退窮まった状態にあるかを悟ります。人間は、いのちは金銭や名声で買うことができないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死を前にした人間は皆同様に貧しく取るに足らない存在であることを悟ります。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭や名声では、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを悟ります。それを強く感じれば感じるほど、人々は生きていたいと切に願う気持ちが強くなり、死が近付くのを一層恐れます。この時点で初めて、人々は、自分のいのちが自分自身のものではなく、自分で制御できるものではないこと、自分が生きるか死ぬかについて、自分自身は発言権がないこと、そうしたことが自分の制御できる範囲外にあることを、真に理解します。
d.創造主の統治を受け、安らかに臨終を迎える
人が生まれる時、一つの孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活、創造主の権威を経験し始めます。これが、その人物、すなわちその魂にとって、創造主の統治に対する認識を得て、創造主の権威を知るようになり、それを自ら経験するにあたり格好の機会となることは言うまでもありません。人々は、創造主が人々のために定めた運命の法則に基づいて生活します。道理をわきまえた良心のある人にとって、数十年にわたる人生の中で創造主の統治を受け容れるとともに創造主の権威を知ることは、それほど困難なことではありません。したがって、数十年にわたる自分の人生経験の中で、万人の運命は予め定められていることを認め、生きることの意味を把握あるいは概括することは、誰にとっても極めて容易なはずです。こうした人生の教訓を取り入れるうちに、人は、いのちがどこから来るかを次第に理解するようになるとともに、心が本当に必要とするものは何か、人を真の人生の道へと導くものは何か、人生の使命や目標であるべきものは何かを次第に把握するようになります。人は、自分が創造主を拝まず、創造主の統治を受けない場合、死に直面する時が来たとき、すなわち、その魂が再び創造主に対面するとき、その心は無限の恐怖と動揺でいっぱいになるだろうということを次第に認識します。人がこの世に数十年存在してきたにもかかわらず、人間のいのちがどこから来るかを知らず、人間の運命が誰の掌中にあるかを認識せずにいるのであれば、安らかに臨終を迎えられないのは当然です。数十年の人生経験の中で創造主の統治に対する認識を得た人は、人生の意味と価値を正しく理解している人です。そのような人は、創造主の統治を真に経験し理解する中で、人生の目的に対する深い認識を持ち、さらに創造主の権威に服従することができる人です。神による人類創造の意味や、人間は創造主を崇拝すべきであること、人間の持つあらゆるものが創造主からもたらされたものであり、近い将来に創造主へと還ることを理解しているのです。そういった人は、創造主が人間の出生を計画するとともに人間の死を支配する権利を持ち、生と死の両方は創造主の権威により予め定められているということを理解します。したがって、人は、こうした事柄を真に把握する時、自然と安らかに死を迎えることができ、この世におけるすべての所有物を穏やかに手放し、その後の物事を喜んで受け容れ、それに従うことができ、創造主が計画した人生最後の節目を、盲目的に恐れて避けようともがくのではなく、あるがままに歓迎することができるでしょう。人が、人生は創造主の統治を体験し、その権威を知る機会であると見なし、人生は創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えるのであれば、必ずや正しい人生の見通しを得て、必ずや創造主により祝福され、導かれる人生を送り、必ずや創造主の光の中を歩み、必ずや創造主の統治を知り、必ずや創造主の支配に服従し、必ずや創造主の奇跡の業の証人、その権威の証人となるでしょう。言うまでもなく、そのような人は必ずや創造主に愛され、受け容れられ、そのような人だけが死に対して落ち着いた姿勢で臨み、人生の最後の節目を喜んで歓迎することができます。死に対して明らかにこのような姿勢で臨んだ人は、ヨブです。ヨブは人生最後の節目を喜んで受け容れる準備ができており、自分の人生の旅路を穏やかに終え、自分の人生における使命を全うして、創造主の許へと還りました。
e.ヨブは人生において追求と進歩を重ねることで、安らかな死を迎えることができた
聖句では、ヨブについて、次のように述べられています。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」(ヨブ記 42:17)。これは、ヨブが死んだ時、彼には何も後悔することがなく、苦しむこともなく、この世から自然と去ったことを意味しています。皆が知っている通り、ヨブは、生きている時分には神を畏れ、悪を避けた人間でした。ヨブの正しい行いは神より称賛され、人々の記憶に残りました。ヨブの人生は、他の誰の人生よりも価値があり、有意義であったと言えるかもしれません。ヨブは神の祝福を享受し、神はヨブを地にあって正しき者と呼び、また、ヨブは神からの試みに会い、サタンに試されました。ヨブは神を証し続け、正しき者と呼ばれるに相応しいとされました。ヨブが神の試みに会った後の数十年間、ヨブは従前にも増して価値が高く、有意義で着実で、平和な人生を送りました。ヨブの正しい行いゆえに、神はヨブを試し、ヨブの正しい行いゆえに、神はヨブの前に現れ、直接言葉を伝えました。したがって、ヨブは試された後の年月において、人生の価値を一層具体的に理解し、認識し、創造主の統治を一層深く理解し、創造主がどのように祝福を与え、奪うかについて、一層正確かつ確実な認識を得ました。ヨブ記には、ヨブに対してヤーウェ神がそれ以前よりも大きな祝福を与えるとともに、ヨブが創造主の統治を知り、安らかに死と直面する上で更に有利な立場にヨブを立たせたことが記されています。したがって、ヨブが老いて死を迎えた時、自分の財産について懸念しなかったことは確実でしょう。ヨブには心配も後悔もなく、無論死に対する恐れもありませんでした。なぜなら、ヨブは生涯を通して神を畏れ、悪を避けて生活したからです。彼には、自分の最期を懸念する理由がなかったのです。現在、死に直面した時のヨブのように行動できる人々がどれだけいるでしょうか。なぜ、誰もこうした簡単な態度を示すことができないのでしょうか。その理由はただ一つです。すなわちヨブは、神の統治に対する信念、認識、服従を主観的に求めて人生を過ごし、ヨブはこうした信念と認識、服従をもって人生の重要な節目を経験し、晩年を過ごし、人生の最期の節目を迎えました。ヨブが経験した事柄を問わず、ヨブの人生における追求と目標は苦痛ではなく、幸福でした。ヨブが幸福であったのには、創造主がヨブに与えた祝福や称賛のみならず、より重要な理由がありました。それは、ヨブの追求と人生の目標、神を畏れ、悪を避けることで得た、創造主の統治に対する漸進的な認識と真の理解、そして更には、ヨブが人生において、創造主の統治の対象として個人的に体験した創造主の驚くべき業、そして人間と神の共存、面識、相互理解に関する、暖かくも忘れがたい経験と記憶です。創造主の旨を知ることでもたらされる慰めと幸福、そして、神の偉大さ、驚異性、愛すべき存在、忠実性を理解した後に生まれた崇敬の念があるからこそ、ヨブは幸福だったのです。ヨブが一切苦しむことなく死を迎えることができた理由は、ヨブは死ぬことで創造主の許に還ることを知っていたことにあります。そして、ヨブの人生における追求と進歩があったからこそ、ヨブは安らかに死を迎えることができ、創造主がヨブのいのちを取り戻そうとすることに冷静な気持ちで向き合うことができ、さらには汚れのないまま、懸念することなく神の前に立つことができたのです。現在の人々はヨブが手に入れたような幸福を掴むことができるでしょうか。あなたがた自身は、そうした幸福を掴む条件を備えていますか。今日の人々は確かにそうした条件を備えていますが、それでは、なぜヨブのように幸福に生きられないのでしょうか。なぜ彼らは死の恐怖の苦悩から抜け出せないのでしょうか。死に直面した時、失禁したり、震えたり、気絶したり、天と人間を区別なく非難したり、中には号泣したり、むせび泣いたりする人々もいます。こうした反応は、決して死が近付いた時に突然現れるものではありません。人間がこうした気恥ずかしい行動を取る主な理由は、心の奥底で死を恐れていること、神の統治と采配に対する明瞭な認識や経験がなく、ましてやそれに心から服従することなどないことにあります。人々は、あらゆる物事を自ら計画して管理し、自分の運命や人生、死を自ら制御することしか望まないがゆえに、こうした反応をするのです。したがって、人々が決して死の恐怖から逃れることができないのは当然です。
f.人間は、創造主の統治を受け容れることによってのみ、創造主の許に戻ることができる
人に、神の統治や采配に関する明瞭な認識や経験がない場合、その運命や死に関する認識はつじつまの合わないものにならざるを得ません。人々は、すべては神の掌中にあることを明確に見ることができず、すべては神の支配と統治の下にあることに気付くこともなければ、その統治から脱したり逃れたりできないことを理解することもありません。そのため、死を迎える時期になると、彼らの最期の言葉や懸念、後悔は尽きることがないのです。彼らは、過剰な重荷、過剰な嫌気、過剰な困惑に潰されそうになっています。彼らが死を恐れる原因はそこにあります。この世に生を受けたあらゆる人にとって、出生は必然であり死は不可避であり、誰一人としてその過程を超越することはできません。苦痛を感じることなくこの世から去りたい、抵抗や懸念なく人生最後の節目と直面したいと願うのであれば、その唯一の方法は、後悔を残さないようにすることです。そして、後悔せずに他界する唯一の方法は、創造主の統治を知り、その権威を知り、それらに服従することです。人は、この方法によってのみ、人間同士の不和、邪悪、サタンの拘束から離れることが可能となり、この方法によってのみ、ヨブのように創造主に導かれ、祝福される人生、自由で解放された人生、価値と意義のある人生、正直で率直な人生を送ることが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように創造主により試され、奪われるに従い、創造主の指揮と采配に服従することが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように生涯を通して創造主を崇拝し、創造主の称賛を得て、創造主の声を聞き、創造主が現れるのを目撃することが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように、苦痛や懸念、後悔なく幸福に生活して幸福に死ぬことが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように光の中に生き、光の中にあって人生の一つひとつの節目を過ごし、光の中にあって穏やかに人生の旅路を終え、造られた人間として創造主の統治を経験し、学び、知るという自らの使命を果たし、光の中に死んで、造られた人間として、永遠に創造主の許にあり、創造主の称賛を受けることが可能となるのです。
創造主の統治を知る機会を逃してはならない
先述した六つの節目は、創造主により定められた非常に重要な時期であり、普通の人間の一人ひとりが人生において通過しなければなりません。人間の観点から見ると、これらの節目はそれぞれすべて現実であり、不可避であり、そのすべては創造主による定めと統治に関係しています。そのため、人間にとって、そうした節目のそれぞれが重要な関門であり、あなたがたは現在、それを如何に円滑に通過するかという重大な問題に直面しています。
人生を構成する数十年間は短くもあり長くもあります。出生から成人までの二十年余りは瞬く間に過ぎ去り、人生のこの時点で人は成人とみなされるものの、この年頃の人々は、人生や人間の運命に関して、ほぼ何も知りません。彼らは多くの経験を重ねながら、次第に壮年期へと移行します。三十代と四十代の人々は人生と運命に関する初期的な経験を得ますが、それらの物事に対する彼らの認識は依然として極めて曖昧です。四十歳になって初めて、一部の人は、神が造った人類や宇宙について理解し始めるとともに、人生とは何たるか、人間の運命とは何たるかについて把握し始めます。長年にわたり神に付き従い、現在、壮年に達している人の中には、神の統治に対する正確な認識や定義を持たず、ましてや真の服従については知る由もないという人々がいます。祝福を受けることを求めるのみで、それ以外のことには関心を向けようとしない人々もおり、そうした人々は長年生きてきたにもかかわらず、人間の運命を創造主が統治しているという事実に対する認識や理解を少しも持たず、神の指揮や采配に服従することについて実践経験を積もうとすることが少しもありません。そのような人々は完全に愚鈍であり、人生を無駄に過ごしています。
人生経験と人間の運命というものを人々がどの程度認識しているかに基づいて人間の生涯を区分すると、大まかに三つの段階に分けられます。第一段階は出生から壮年あるいは三十歳になるまでの青年期です。第二段階は壮年から老年あるいは三十歳から六十歳までの熟年期です。第三段階は、老年期あるいは六十代から他界するまでの晩年期です。言い換えれば、出生から壮年に至るまでは、運命や人生に対する大半の人々の認識は、他人の考えを踏襲するに留まるもので、その考えの中に現実的、実践的な部分は全くないに等しいです。この時期においては、人生観や、他者との付き合い方は、総じて極めて表層的で、未熟です。これが人の青年期です。人生の喜びや悲しみをすべて味わって初めて、人は運命を真に理解し、潜在意識で、そして心の奥底において、運命の不可逆性を徐々に認識し、人間の運命に対する創造主の統治が実際に存在することを少しずつ認識します。これが人間の熟成期です。運命に対抗して苦戦するのを止め、争いに巻き込まれるのを厭うようになり、むしろ、自らの人生における運命を知り、天の意に服従し、自分の人生における功績と失敗を概括し、人生に対する創造主の裁きを待つ時、人は完熟期に入ります。こうした三段階の期間において人間が得る様々な経験や進歩を考慮すると、通常の状況では、創造主の統治を知る機会はそれほど多くありません。人が六十歳まで生きる場合、人が神の統治を知るための期間は三十年ほどしかありません。人がそれよりも長い期間を望むのであれば、長生きして百年生きられる場合のみ、それは可能となります。それゆえ、人が創造主の統治を知るという問題に初めて直面する時から、創造主の統治という事実を認めることができるようになり、その後、それに服従することができるようになるまでの過程は、極めて長期的な過程です。しかしながら、人間の平均寿命に基づいて実際にその年月を数えてみると、人がこうした恩恵を受け取れる機会は、わずか三十年ないし四十年程度しかないと言えます。しかるに、人々は、祝福を得るという自らの願望や大望に夢中になるため、人生の本質が何処にあるかを見分けることができず、創造主の統治を知ることの重要性を把握できないということが往々にしてあります。そのような人々は、人間の世界で人間の生活を送って創造主の統治を経験するという貴重な機会を大切にせず、創造主より各個人に向けた導きを享受することが造られた人間にとってどれほど貴重であるかを認識することもありません。したがって、創造主の実の姿を直ちに直接見て、できるだけ早く祝福を得ることができるよう、神の働きが迅速に終わり、神が人間の終りの時をできるだけ早期に計画することを望む人々は、最も重い反逆の罪の裁きを受ける究極的に愚かな人々であると言えます。その一方、限られた時間に、創造主の統治を知るという唯一の機会を得ることを望む人々は、この上なく鋭敏な精神を備えた聡明な人々です。これら二通りの異なる願望により、二通りの全く異なる見解と追求が浮き彫りになっています。祝福を求める人々は自己中心であり、卑劣であり、神の旨に対する配慮を全く示さず、決して神の統治を知ろうとも、それに従おうともせず、単に自分の好きなように生きることを望みます。彼らは軽率な堕落者であり、滅ぼされるべき種類です。神を知ることを望む人々は、自分の欲望を捨てることが可能であり、神の統治と采配に進んで服従し、神の権威に従順であるとともに神の望みを満たす側の人になろうとします。そのような人々は光と神の祝福の真っただ中に生活し、確実に神の賞讃を享受します。いかなる場合であっても、人間による選択が役に立つことはなく、神の業がどのくらいの期間を要するかについて人間が干渉することはできません。人間にとって、自らを神の采配に委ね、神の統治に服従する方が良いのです。あなたが自らを神の采配に委ねないとしたら、あなたに何ができますか。神に損害が及びますか。神の采配に自らを委ねずに、自らが担い手になろうとした場合、あなたの選択は愚かであり、最終的に損害を被るのはあなたです。人間ができる限り早く神に協力し、神の采配を受け容れ、神の権威を知り、人間に対する神の業のすべてを理解した場合に限り、人々には希望があります。この方法によってのみ、人間は人生を無駄に生きることなく、救いを得るでしょう。
神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることができない
ここまでの話を聞いて、あなたがたの運命に対する考え方は変わりましたか。神による人間の運命の統治を、あなたがたはどのように理解していますか。簡潔に言うと、神の権威の下では、あらゆる人が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け容れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど歪んだ道を歩んだとしても、結局は創造主が彼らのために定めた運命の軌道に戻ります。これが創造主の権威の凌駕することが不可能であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法です。万物のいのちを支配する法則を担い、妨害されることなく人間が何度も生まれ変わることを可能とし、毎日、毎年、世の中を規則正しく変化させ、進歩させているのは、この凌駕不可能な性質と、この形態による制御と支配です。あなたがたは、こうした事柄のすべてを目のあたりにし、表面的に理解しているか、あるいは深く理解しています。理解の程度は、真理に関する自分の経験と認識、そして神に対する自分の認識により異なります。真理現実をどの程度知っているか、神の言葉をどの程度経験しているか、神の実質と性質をどの程度知っているか、これらすべてが、神の統治と采配に対するあなたの理解度を示しています。神の統治と采配の存在は、人類がそれらに服従しているかどうかに依存していますか。神にこの権威があるという事実は、人間がそれに服従するかどうかにより決まるものですか。神の権威は、状況を問わず存在するのです。すべての状況において、神はあらゆる人間の運命と万物を、神の考えと望みに従って支配し、計画します。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変わることがありません。なぜなら、神の権威は、神の実質そのものだからです。人間が神の統治を知って受け容れられるかどうか、そしてそれに服従できるかどうか、神による人間の運命の統治という事実に一切影響しないものです。つまり、神の統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実は絶対に変わることがないのです。たとえあなたが神の統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神の統治を知ることができなくても、神の権威は依然として存在します。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることのないものです。神の権威はあらゆる場所にあり、いつでも、どの瞬間にも存在します。天と地がなくなるとしても、神の権威は決してなくなりません。なぜなら、神は神自身であり、神には唯一無二の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからです。神は、これまでと同様に、常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営の働きを継続します。神は、これまでと同様に、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮します。誰もこれを変えることはできません。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けています!
神の権威に服従することを望む人の適切な姿勢と行動
神の権威と、神が人間の運命を統治しているという事実を、人間はどのような姿勢で自覚し、考えるべきでしょうか。これはあらゆる人の前に立ちはだかる真の問題です。現実の問題に対処する時、神の権威と神の統治をどのように知り、理解すべきでしょうか。あなたがこうした問題に直面した時、それらをどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、神の統治と采配に服従するという意向、願望、服従しているという事実を、あなたはどのような姿勢で示すべきでしょうか。あなたは、まず待つこと、次に追い求めること、その後に従うことを覚える必要があります。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の思いが徐々に明示されてゆくのを待つことです。「追い求める」とは、神が計画した人々、出来事、物事を通して、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事を通して真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、神は人間の中にどのような結果を実現させようとしているか、人間の中に何を達成させようとしているかを理解することです。当然ながら、「従う」とは、神が周到に準備した人々、出来事、物事を受け容れ、神の統治を受け容れることであり、それらを受け容れることを通して、創造主が人間の運命をどのように支配しているか、神はどのようにして人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることです。神の采配と統治の下にあるすべての物事は自然の法則に従っており、あなたが自らのすべてを神の采配と支配に委ねると決心したのであれば、あなたは待つこと、追い求めること、従うことを学ぶべきです。これこそが、神の権威に服従することを望むあらゆる人が取るべき姿勢であり、神の統治と采配を受け容れることを望むあらゆる人に備わっているべき基本的な資質です。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要です。そうした努力をして初めて、あなたがたは真の現実に入ることができるのです。
自分の唯一の主として神を受け容れることが、救いを得る第一歩である
神の権威に関する真理とは、あらゆる人が真剣に取り扱い、心で経験して理解すべきです。なぜなら、こうした真理は、あらゆる人の人生、あらゆる人の過去、現在、そして未来と関係があるとともに、人生においてあらゆる人が通らなければならない非常に重要な節目、神の統治に対する人の認識、そして神の権威に対して人が取るべき姿勢と関係があり、当然ながら、あらゆる人の終着点と関係があるためです。したがって、それらを知り、理解するには、一生涯の努力が必要なのです。あなたが神の権威を真っ直ぐに見つめ、神の統治を受け容れる時、あなたは、神の権威が実在することに次第に気付き、理解するようになります。しかし、神の権威を認めず、神の統治を受け容れないならば、あなたが何年生きようとも、神の統治について少しも認識を得ることはないでしょう。神の権威を真に知って理解することがないのであれば、終着点に到達した時に、それまで何十年神を信じていようとも、人生において何も尽すものがなく、当然ながら、人間の運命への神の統治に対する認識は皆無となります。それは非常に悲しいことではないでしょうか。それゆえに、人生の道をどの程度歩んで来たか、現在何歳か、残りの旅路がどの程度あるかを問わず、まず神の権威を認め、それを真剣に捉え、神が自分の唯一の主であるという事実を受け容れなければなりません。人間の運命への神の統治に対する明瞭かつ正確な認識と理解を得ることは、あらゆる人にとって必須の経験であり、人生を知り真理を得るための鍵です。神を知る人生とは、生涯学習の基本であり、あらゆる人が日々直面し、避けることのできないことなのです。この目標を達成する近道を通りたいと思う人がいるなら、わたしはこう言います、それは不可能です! 神の統治から逃れたいのであれば、それはなおさら不可能です! 神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主であり、それゆえに、人間にとって自分の運命を決定することは不可能であり、神の統治から抜け出すことは不可能です。人の能力が如何に優れていようとも、人は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、采配したり、制御したり、変更したりすることはできません。人間のすべてを支配するのは、唯一無二の神自身のみです。なぜなら、人間の運命に対する統治権を握る唯一の権威があるのは、唯一無二の神自身のみであり、創造主こそが人間の唯一の主だからです。神の権威は、創造物である人間だけでなく、人間には見えない非創造物、惑星、宇宙に対する統治権をも握っています。これは異論の余地のない事実、実在する事実であり、人や物が変えることのできない事実です。もし、現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている人や、人間の力で自分の運命を変えようとしたり、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている人がいるならば、わたしは言いましょう、あなたは自ら物事を困難にし、災難を招くようなことをして、墓穴を掘っていると。遅かれ早かれ、ある日、あなたは自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしてきたことに気付くでしょう。運命に立ち向かうあなたの野心と欲望、大それた行動は、あなたを引き返せない道へと導き、そのために辛い代償を払うことになるでしょう。現在、あなたがその結果の重大性を理解しておらずとも、神が人間の運命の主であるという真理を一層深く経験し、正しく認識するにつれ、本日わたしが話したこととその真意を徐々に理解するでしょう。あなたに真の心と霊があるか、あなたが真理を愛する人であるかは、神の統治と真理に対して、あなたがどのような姿勢を取るかにより決まります。そして必然的に、その姿勢により、あなたが神の権威を真に知り、理解しているかが決まります。人生において神の統治と采配を感じたことがなく、ましてや神の権威を認め、受け容れたことなどないのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢のために、神に嫌悪され拒絶される対象となることは間違いありません。しかし、神の業により、神からの試練と神の統治を受け容れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る人々は、神の権威に対する真の認識と神の統治に対する真の理解を得て、真に創造主に従う人となるでしょう。真に救われるのは、そのような人々のみです。彼らは、神の統治を知り、それを受け容れたため、人間の運命への神の統治に対する彼らの認識と、その統治への彼らの服従は、真正かつ正確なのです。彼らが死に直面する時、ヨブのように死を恐れない精神を得て、個人的な選択や個人的な願望をもつことなく、すべての物事において神の指揮と采配に従うことができるでしょう。そのような人だけが、真の創造物である人間として、創造主の許へと還ることができるのです。
2013年12月17日