自分勝手を解決するには

チェコ张静

全能神は言われます。「人の行ないが善か悪かを判断する基準は何ですか。それは、考えや表現や行動において真理を実行に移し、真理の現実を生きる証しを有しているかどうかによります。その現実がなかったり、それを生きていなかったりすれば、あなたは間違いなく悪を行なう者です。神は悪事を行なう人をどのように見ていますか。あなたの考えや外面的行動は神の証しをするものでも、サタンを辱めたり打ち負かしたりするものでもありません。むしろ神を辱めるものであり、神に恥をかかせる印に満ちています。あなたは神への証しをしておらず、神のために自分を費やしておらず、神に対する責任と義務を果たしていません。むしろ自分のために行動しているのです。『自分のために』とは何を示唆していますか。サタンのために、ということです。ゆえに、神は結局『不法を働く者どもよ、行ってしまえ』と言うでしょう。神の目から見ると、あなたは何の善行もしておらず、むしろあなたの振る舞いは邪悪なものに変わってしまったのです。神の承認を得るどころか、断罪されてしまいます。神をこのように信じている人は、何を得ようと求めていますか。このような信仰は結局無に帰してしまうのではないでしょうか(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。神の御言葉から分かるのは、たとえ本分を尽くすために自分を費やしたり苦しんだりしても、神に満足いただくことが動機でなく、真理の実践を証しすることもなく、ただ自分を満足させるなら、神はそれを悪とみなし、忌み嫌われるということです。数年前、私はある姉妹が教会の働きを妨げているのに気づきました。でも私には、真理を実践する勇気も原則を守る勇気もなく、彼女を怒らせるのを恐れていました。彼女の行動をすぐに暴いて報告することができず、そのせいで福音の働きに支障が出ました。私にも非があったんです。このことについて考えるたび、後悔と自責の念に苛まれます。

2018年3月の終わり頃、私たちのチームのリーダーとして陳姉妹が加わりました。しばらくすると、彼女が責任を持って本分を尽くしていないことに気づきました。福音を説いた人の中に終わりの日の神の働きを調べたいと思う人がいても、すぐに交わりや証しの準備をせず、結果として福音の働きが遅れたのです。彼女を見つけて交わりをしましたが、悪く取られるのを恐れて彼女の問題にはほとんど触れませんでした。彼女が言うには、自分には別の本分があるので対応しきれない、でも今後はちゃんとやるとのことでした。彼女は軽く考えすぎてるとすぐに分かりました。事の深刻さを認識してなかったんです。もっと何か言わなければ。こんなことが二度と起きず、教会の働きに遅れが出ないように。でも口を開こうとした途端、こう思いました。「彼女はリーダーで私はただのチームメンバー。彼女の問題を指摘すれば、出しゃばりでお節介だと思われ、傲慢で理知がないと言われるんじゃないか。もう忘れて何も言わないでおこう。彼女だってリーダーなんだから、この本分の重要性は理解してるはず。今後はちゃんと対処するだろう」少し不安でしたが、この件を再び持ち出すことはしませんでした。

それからまもなく、信仰義認派教会の説教師から終わりの日の神の働きを考察したいと言われました。時間がないにもかかわらず、こんな大事な時に陳姉妹と連絡が取れません。それで交わりをしてくれる別の福音チームのリーダーを急いで探しました。それを知った陳姉妹は、私を厳しく叱ってこう言いました。「なぜ他のチームのリーダーに対応させたの? 間に合わなかったのは私の問題だし、どんな件でも責任者は私。他の人を連れてくるなんて原則に沿ってないわ」私は交わりの場で彼女とこの問題について話したかったのですが、こう思い直しました。「彼女から取り扱いを受けて叱られたばかりなのに、ここで彼女を批判したら、いったいどう思われるだろう? いつも顔を合わせてるし、もしも関係がぎくしゃくしたら、きっと物事を進めにくくなる。忘れよう。悩み事は少ないほうがいい。私はただ自分の本分を尽くそう」そうして彼女に言いたいことを我慢しました。

それからおよそひと月後、ある教会の同労者が全能神の働きに関心を持ちました。陳姉妹にそれを何度か伝え、「交わりをする人が必要なんです」と言うと、彼女はその時こそ同意しましたが、驚いたことに二日経っても何の準備もしてませんでした。私は腹が立ちました。「何度も伝えたのに。それに急ぎの件だと言ったのに。どうして真剣に考えてくれないの? いや、福音の働きがこんな風に滞るのをぼんやり見てはいられない。チームの兄弟姉妹と話し合って、彼女の問題をどうにか解決しなきゃ」でも他の人たちに連絡しようとすると、私はまた葛藤してしまいました。みんなと話し合っているのを陳姉妹に知られたら、私がわざと彼女を標的にしていると思われる。彼女を怒らせたらきっと私に仕返しして、口実を見つけて私を本分から外すだろう。出る釘は打たれてしまう。そこで誰かがこの件を持ち出すのを待つことにしました。

その夜、陳姉妹がほったらかしにした数々のことを考えて、とても不安になりましたが、それでも指摘する勇気はありませんでした。私は自分の責任を全く果たせていなかった。不安を覚え、神の御前に出て祈りました。そして祈りの後、こんな神の御言葉を読みました。「人の人間性には良心と理知の両方が備わっていなければなりません。両者とも最も根本的で重要なものだからです。良心を欠き、正常な人間性の理知をもたないのはどのような人ですか。一般的に言えば、それは人間性を欠いた人、悪しき人間性の人です。それをじっくり分析しましょう。この人には人間性がないと言われるほどの堕落した人間性を、そうした人はどのように示しますか。そのような人がもっている特徴はどういったものですか。そうした人が示す事柄は、具体的にはどのようなものですか。そのような人の行ないはいいかげんで、個人的に関係ないことには無関心です。神の家の益を考慮せず、神の旨に配慮を示すこともありません。神を証しすることや本分を尽くすことの重荷を負わず、責任感などまったくないのです。……また、本分を尽くす中で問題を見ていながら黙する人さえいます。他の人たちが妨害し、かき乱しているのを見ても、止めようともしないのです。彼らは神の家の益を微塵も考慮せず、自分の本分や責任についてもまったく考えません。彼らが語り、行動し、注目を集め、努力し、精力を費やすのは、ひとえに自分の虚栄心、名声、地位、利益、そして名誉のためなのです。……そうした人に良心や理知はありますか。良心や理知がなく、そのように振る舞う人は、自責の念に囚われるでしょうか。そのような人の良心は無益であり、自責の念を感じたことがありません。それならば、そのような人がどうして聖霊の咎めや懲らしめを感じられるでしょうか。いいえ、決して感じられません(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。神の御言葉が心に刺さりました。自分はまさに神が暴かれてるような人じゃないのか。良心や人間性に欠け、本分を尽くすことに対して無責任で、自分の利益を守るために冷たく無関心な態度を取っていた。神の御心を想うことも、教会の働きを守ることもしてなかった。陳姉妹が本分に真摯でなく、その場しのぎでやっているだけで、すでに福音の働きを害していると分かっていたからには、交わりの場で指摘すべきでした。でも口出しするなと言われるのが怖くて、彼女の問題をやり過ごしました。彼女はその後、ほんの少しも変わりませんでした。もう一度それに触れ、そのように本分を尽くすことの本質や結果を分析したくても、彼女を怒らせたら面倒なことになり、本分から外されてしまうのではないかと恐れた。私は見て見ぬふりをして、考えないようにしました。神の家のために立ち上がろうとせず、ただ自分の体面、立場、利益を守ろうとして、チームリーダーのいい加減さを見ているだけ。良心がどこにあるのでしょう? 災害がますます悪化している今、より多くの人が真の道を考察しなければならない。人々が終わりの日の神の救いを受け入れるようにすること、それが急務です。なのに私はその責任をちゃんと果たしてなかった。自分を守ることばかり考えて、神の家の益を考えず、神の御心を想っていませんでした。本当に自分勝手。そう考えるうち、自分は本当に神を失望させてしまったと感じました。「このままじゃいけない。どうにかしてこの問題を解決しなきゃ」そこでチームの兄弟姉妹に連絡してこの件を話し、陳姉妹の問題にどう対処すればいいかみんなで考えました。そして誰かが彼女と協力し、役割を分担するべきだという意見にまとまりました。そうすれば互いに助け合って監督し合える。

その日の午後、私は陳姉妹に電話して話し合った内容を伝えました。彼女の最近の行動と、彼女が福音の働きに与えた害を詳しく話したんです。ところが何と、陳姉妹は自分の振る舞いを悔やむことも、自責の念を感じることもなく、私たちの提案を拒絶しました。自分に協力する人なんかいらないと頑なに言うんです。自覚がないのだと思って交わりを続けようとしましたが、私が話し終わらないうちに、彼女は用事があると言って電話を切ってしまいました。私は思いました。「陳姉妹は地位があるのに実際の働きをせず、パートナーもいらないって言う。横暴じゃない? これが続いたら神の家の働きが遅れてしまう。だめ。彼女にこの問題をちゃんと指摘しなければ」それから数日間、私が連絡し続けても彼女は一切返事をしませんでした。神の家の働きが遅れるのをただ見守るだけでした。この事を教会指導者に一刻も早く報告しなければと思いましたが、そうしようとするとまた背を向けたくなったのです。「指導者に報告したのが私だと陳姉妹に知られたら、いったいどうなるだろう? 彼女が怒って、口実を見つけて私を本分から外したらどうしよう? それに兄弟姉妹が、私は陳姉妹の件ばかり取り上げて、彼女を公平に扱っていないと言ったらどうなるだろう?」本当に悩みました。もし何も言わなければ、チームの働きが滞るのを見ているだけになってしまう。でも何か言ったら彼女を怒らせてしまうはず。その時、ある姉妹が私のところへ来て、他のチームに移る気はないかと訊きました。私は「別の本分を尽くすのがいいかもしれない。そうすれば今のチームを離れられる。毎日罪悪感を覚えることも、苦しむこともないだろう」と思いました。その後、チームの他の姉妹に私の考えを話したんですが、彼女はそれを聞いてこう言いました。「あなたは一番古くからチームにいるメンバーで、働きのことを一番よく分かっています。陳姉妹はチームの問題に見て見ぬふりをしている。今がこのチームを離れる時だと本当に思いますか?」彼女にそう言われてひどく後悔しました。自分は他の誰よりもチームの働きについて分かっているのに、神の家の働きが妨げられるのをぼんやり見ているだけだった。見て見ぬふりをしただけでなく、問題から背を向けようとした。それでは神の家の益を守っていません。私は神の御前に出て祈り、導きを求めました。

その後、デボーションの時に神の御言葉を何節か読みました。神は言われます。「必ず肯定的な側面から入り、消極的ではなく積極的にならねばならない。どのような状況においても、誰にも何事にも動揺してはならず、誰の言葉にも影響されてはならない。安定した性質を持たねばならないのだ。人々が何と言おうとも、真理だとわかっていることをすぐに実践しなさい。誰と向き合っているときも、わたしの言葉が常に心の中で働いていなければならない。ゆるぎなくわたしを証しし、わたしの重荷に配慮できなければならない。混乱して自分の考えを持たないまま、盲目的に人に同意するようなことはせず、わたしから来ていない事柄には立ち上がって反対する勇気を持たねばならない。何かが間違いだとはっきりわかっていながら沈黙しているなら、あなたは真理を実行する人ではない。何かが間違いだと気づいていながら、話を変えてしまいサタンに妨害されて、無意味なことを話すだけで最後までやり抜くことができなくなるなら、それはまだ心に恐れを抱いているということだ。それならば、あなたの心はいまだにサタンの思いに満たされているのではないか(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十二章」〔『言葉』第1巻〕)。「皆が自分は神の重荷を思いやっており教会の証しを守るつもりだと言うが、一体誰が本当に神の重荷を思いやったのか。自問してみなさい、あなたは神の重荷に配慮を示した人間なのか。神のために義を実践することができるか。立ち上がってわたしのために語ることができるか。真理を揺るぎなく実践に移すことができるか。サタンのすべての仕業に大胆に立ち向かうことができるか。わたしの真理のために、感情を脇に置き、サタンを暴露することができるか。わたしの旨をあなたの中で成就させることができるか。最も重要なときに、自分の心を捧げたのか。あなたはわたしの旨を行う者か。こうしたことを頻繁に自問し、考えてみなさい(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十三章」〔『言葉』第1巻〕)。相次ぐ問いを読むうちに、神が目の前に立たれ、私に責任を問うているように感じました。一言一句が打撃で、私は自分に問いました。「自分は神の重荷を想ってきただろうか? 神のために義を実践してきただろうか? 断固として真理を実践してきただろうか?」答えはすべて「否」でした。神の恵みによってこうした重要な本分を尽くすよう高められたのだから、責任を果たし、兄弟姉妹と協力してきちんとやるべきなんです。チームリーダーがいい加減で、何度も福音の働きを遅らせたのを私は見た。彼女は実際の働きをしない偽のリーダー。私が立ち上がって彼女のことを報告すべきだった。でも彼女を怒らせて本分から外されるのを恐れ、知らないふりをして、彼女が神の家の働きを妨げるのを見ていただけ。神の家の働きを守ろうとしなかったんです。私はとても自分勝手で卑劣でした。正義感も責任感もないんです! 事あるごとに自分の体面と立場を守り、陳姉妹のように神の家の福音の働きを妨げることはなかったけれど、問題を見ても声をあげず、真理を実践しなかった。私はサタンの側について、神の家の働きを乱していたのでは? よそ者の味方になり、サタンに加担して恩を仇で返していたのでは? そう考えると自分のことが本当に嫌になりました。どうしてこんなに自分勝手で人間性に欠けていたのでしょう? このままじゃだめなのは分かっていました。薄氷を踏んで自分を守ることはもうできません。真理を実践して正義感をもつ人になり、神の側に立って神の家の益を守らなければ。この瞬間、陳姉妹のことを報告しようと決意しました。ちょうどその時、ある姉妹から、新しい信者の何人かがある噂を聞き、弱って後ろ向きになってしまったと聞きました。陳姉妹が問題解決のために交わりの場をすぐ設けなかったので、彼らは誤った方向に導かれてしまい、信仰を離れそうになっていたのです。これを聞いて私は自分を憎みました。自分が真理を実践しなかったせいでひどいことになったのです! その後、私を含めたチームの何名かが教会指導者に陳姉妹の問題を話しました。すると驚いたことに、指導者はその日のうちに調査して陳姉妹を解任したんです。後に指導者はこう言って私を叱責しました。「彼女がこんなに長く働きを遅らせていながら、なぜあなたは言わなかったのですか?」私はこれを聞いて一層後悔し、罪の意識を感じました。

後に自分自身を振り返り、陳姉妹が自分の本分に責任を持たず、神の家の働きを遅らせていることを知りながら、なぜそれを暴いて報告しなかったのかと考えました。自分が真理を実践しなかった根源は何なのか? その後、神のこの御言葉を読みました。「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたはそのような強い感情を持っているのですか。なぜそうした不義な物事を楽しむのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因は、サタンの毒があなたの中にあることだと、あなたがたは今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、『人はどのように生きるべきか。人は何のために生きるべきか』とあなたが尋ねたら、人々は『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』と答えるでしょう。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの哲学が人々のいのちとなったのです。何であろうと、人は追い求め、自分のためにそれを行ないます――ゆえに、人は自分のためだけに生きているのです。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』――これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。こうしたサタンの言葉こそサタンの毒であり、人がそれを取り込むと、それは人の本性となるのです。サタンの本性はこれらの言葉をとおして暴露され、これらの言葉がサタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました(『終わりの日のキリスト講話集』の「ペテロの道を歩むには」)。神の御言葉で分かりました。私が真理を実践しなかったのは、こんなサタンの処世哲学で一杯だったから。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「賢い人は保身に長け、ひたすら過ちを犯さないようにする」「己に関わりのないことは見過ごせ」「余計なことはしないほうがいい」それに「出る杭は打たれる」これらがずっと前から私の一部、私の本性になってたんです。こうしたことで生きていたので、利己的でずる賢く、自分勝手になってしまい、問題に直面すると自分の利益を守らずにはいられませんでした。信者になる前、仕事をして生活してた時は、たとえ誰かが過ちを犯しても、怒らせるのが怖くて黙ってた。信者になってもそうしたサタンの哲学で生き続け、本分を尽くしていても自分の利益を守ってしまい、真理を実践できなかった。陳姉妹がいい見本。彼女が実際の働きをせず、意見を受け入れない偽のリーダーだと分かったからには、立ち上がって報告すべきだった。でも私は、報告が無駄になって本分から外されることを恐れた。「出る杭は打たれる」「余計なことはしないほうがいい」っていうのが私の人生哲学だった。私は臆病者。無責任な人が物事を乱すのに任せ、立ち上がろうとしなかった。本当に自分勝手で信用できない。本分を尽くして神の家の益を守るのは正しいことで、神の御心にかなってる。誰かが神の家の働きを妨げたら、すぐ神の側に立ってその益を守るべき。それが選民に対する神の要求、そして私の本分と責任。でも私は首を突っ込んで自分の利益が損なわれるのを恐れ、神の家の働きのために立ち上がろうとしなかった。本分も責任も果たしてなかったの。私ってどういう信者? 自ら立ち上がらず、サタンと妥協して見て見ぬふりをした。無責任な人が神の家の働きを妨げるのを許した。立ち上がろうとしなかった私には気骨が全然ない。人格も尊厳もないまま生きてたの。彼女が神の家の働きを妨げているとはっきり知りながら、見て見ぬふりをしただけじゃなく逃げだそうとした。サタンの側に立って神に反抗してたのでは? それは神に対する大きな過ち。そう考えると、私は真理を実践できず、報告したら本分から外されるんじゃないかと恐れてた。でも実際には、全員で陳姉妹のことを報告すると、彼女はすぐに解任された。私は本当に恥ずかしくなって気づいたの。神の家ではキリストと真理が支配してるって。真理を実践せず神の家の働きを妨げる者は、そこに居場所を得られない。悔い改めなければいつか淘汰される。でも私は真理の原則に沿って物事を見ず、ただ権力と地位に縛られてた。責任者を上役と見なして、その人を怒らせたら神の家で居場所がなくなると思った。神の家も社会と同じように暗く、公正さも正義もないと思ってたの。それって神への冒涜では? 神がこの環境を整えて私を暴かれなければ、また御言葉の裁きと刑罰がなければ、私はまだサタンの哲学で生きることの恐ろしい結末を知らなかったはず。この件から私が学んだのは、神を信じる人として、御言葉で生き、真理を実践し、原則を守っていれば、安らぎと穏やかさを得られるってこと。それは信者が行なうべき正義でもある。その後チームの全員で、経験して得たものについて交わりました。程度の差はあれみんな教訓を得て、特に神の義なる性質が分かりました。チームの働きも徐々に改善していきました。

その後の本分で、別のチームのリーダーを務める劉姉妹とひと月以上一緒に働いたのですが、傲慢で独断的なのに気づきました。他人の提案をめったに受け入れず、すでに神の家の働きを妨げていました。今度こそ教会指導者に知らせなくては。でもそのとき、「私たちは一緒に働いて間もないから、彼女のことをよく知らない。間違ってたらどうしよう? 調べても彼女に大きな問題が見つからなかったら? 指導者や他の人にどう思われるだろう? 荒さがししてると思われるかしら? それに劉姉妹が知ったら、私のことをどう思うだろう? だめ、何も言っちゃいけないわ」そうして見て見ぬふりをしようとしたところ、良心の咎めを感じました。以前、陳姉妹のことをすぐ報告しなかったせいで、福音の働きに害が出たことを思いだした。私は深く後悔してこう思いました。「自分勝手で卑劣な生き方はできない。今回こそ後悔しないようにしなきゃ」その時、神の御言葉の一節が頭に浮かびました。「本分を尽くしている一人ひとりにとって、真理の理解の深さがどれほどであろうと、真理の現実に入ることを望むなら、自分が行なうすべてのことにおいて神の家の益を考え、自分の利己的な欲求、個人的な意図、動機、面子、地位を捨てるのが最も簡単な実践の方法です。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。本分を尽くしている人がこの程度のことさえできないのであれば、どうして本分を尽くしていると言えますか。それは本分を尽くしているのではありません。まずは神の家の益を考え、神自身の益を考え、神の働きを考え、それらを第一に、最優先に考えなければなりません。その後で初めて、自分の地位の安定や、他人が自分をどう見るかを考えることができます(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。神の御言葉は実践の道を示してくれました。つまり自分の利益を考えず、神の家の益を最優先にすること。どう思われるかなんて気にせず、神の家の働きにとって正しいことをする。私たちは知り合って間もないし、彼女のことをよく知らない。だけど彼女の振る舞いは神の家の働きを妨げてた。自分が見たことを伝え、動機を正して本分と責任を果たさなきゃ。その後、教会指導者に劉姉妹の問題を伝え、調査が行なわれたあと、彼女は原則に沿って解任されました。それを聞いて安心と安らぎを感じ、神の家の益を守ったと思いました。唯一の有意義な生き方は神の御言葉で生きることだと実感したのです。

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