嫉妬を捨てて寛大に

中国湖北 付丹

数年前、指導者だった私をサポートするため、小潔(シャオチエ)姉妹が私の教会に移ってきました。しばらく経つと、若いのに素質が優れ、能力も高いとわかったんです。問題が起こると真理を実践し、懸命に真理の原則を求めてました。素質も能力も、彼女にはとてもかなわなかった。才能ある彼女を私は尊敬しました。ある時、同労者の集会の後で指導者に聞かれたの。この教会に、真理を求め、優れた素質をもつ者はいないかって。ためらうことなく、小潔姉妹の長所を伝えました。間もなく、指導者が同労者の集会に小潔姉妹を招いて、その後も続けて集会に出席させたんです。だんだん居心地の悪さを感じるようになった。「集会に出て、教会の働きについて指導者と話し合うのは私の役目だったのに、小潔姉妹を集会に参加させるなんて。本当に彼女を育てる気なんだわ。こうなると分かってたら長所なんて伝えなかったのに」彼女のせいで自分が忘れられ、置き去りにされた気がした。ますます辛くなって、密かにある考えを抱くようになったの。彼女が異動になればいいのにって。一緒でなければ、私が見劣りすることはないし、指導者も私と話し合う。でもこんなに早く、小潔姉妹が異動になるとは思えない。そのうち、胸に重石が乗っているような息苦しさを感じ始めた。それだけじゃなく、負けを認めたくなくて、こっそり神の御言葉を読み漁ったり、暗記したり、深く考えたりしたわ。彼女より優れた交わりをして、能力を証明するために。でも私の動機は間違っていた。地位をめぐって争っていただけ。だから本分で聖霊の働きを得られず、問題の理解も解決も無理だった。

一度、2人の姉妹が教会執事に選ばれたけれど、自分は真理を十分理解していないから、いのちの入りに悩む人を助けられないと言って、その役目に乗り気じゃなかった。それを聞いて、こう思いました。「どんな御言葉を交われば、2人の状態を解決できて、私が小潔姉妹に劣らないことを示せるかしら」と。2人の姉妹が話し終わるとすぐ、御言葉を何節か読んで、交わりをはじめた。でもそれは能力をみせつけ、みんなに尊敬されるためで、神の御前で心を静め、真理を求めて問題の根源を知るためじゃなかった。交わりは失敗でした。無反応で座っている2人をみて、とても気まずく、何を言えばいいかわからなかった。すると小潔姉妹が、自分の経験と理解に触れながら、本分を尽くす意味、そして神の御旨について交わりを始めたの。姉妹たちは感動の涙を流し、その本分を受け入れた。小潔姉妹を羨望の眼差しでみつめる2人をみて、苦々しさが残った。小潔姉妹が来る前は、みんな私を認めていたのに、教会に来たばかりの彼女が、すべてにおいて私を追い越し、指導者に一目置かれ、兄弟姉妹からも尊敬されている。私は指導者になって長いのに、とても彼女に敵わない。みんな私をどう思っているだろう。私には真理の現実がなく、彼女の引き立て役だと思ってないかしら。しばらく、この考えが頭から離れず、小潔姉妹に主役をとられたような気がして、嫉妬を感じ始めた。時には、双方の得になる形で、彼女を教会から追い出せないかと考えた。でもどれだけ考えても、そんな方法は思いつかなかったわ。次第に神から遠ざかり、自分の霊が闇に落ちてゆくように感じた。御言葉の交わりをしても光がなく、兄弟姉妹の問題も解決できない。毎日本分に取り組むけど、心は苦しみでいっぱいだった。神の御前で祈り、自分の状態を告げた。御旨と自分の堕落を理解できるよう、お導き下さいと。

その後、次の御言葉を読んだの。「あなたがたは教会指導者として、人材を見つけ出し育成する方法を知るべきであり、才能ある人たちに嫉妬すべきではありません。そうすれば、あなたがたの本分は十分に尽くされ、責任は果たされたことになります。そしてあなたがたは全力を尽くして忠実であろうとしたことになるでしょう。他人が自分に代わって脚光を浴び、自分を超え、自分が無視されている一方で評価を得ることをつねに恐れている人がいます。そのような人はそれで他人を攻撃して排除します。それは自分よりも有能な人への嫉妬ではありませんか。そのような振る舞いは利己的で下劣ではありませんか。それはどのような性質ですか。悪意に満ちた性質です。自分のことしか考えず、自分の欲望しか満足させず、他人の本分に配慮を示さず、自分の益だけを考えて神の家の益を考えないような人は悪しき性質をしており、神はそのような人を愛しません(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。この御言葉に心がえぐられたわ。まさに私の状態を暴いてたから。優れた素質をもち、実践的な交わりをする姉妹が、指導者に一目置かれ、兄弟姉妹から尊敬されているのを見て、私は嫉妬した。疎ましく思って、教会から去ってもらいたかった。教会の働きや神の家の利益に及ぼす影響なんて考えもせず。悪意だらけで、ひときわ自分勝手で卑しく、正常な人間性は皆無。そんなふうに本分を尽くしても、神に嫌悪されるだけ。本分の中で聖霊の導きを失い、闇に落ちていった。それが神の義なる性質。だから私は、神に祈った。地位を手放し、正常な人間性を生き、姉妹と協力できるようお導き下さいと。

そしてこの御言葉を読んだ。「神の旨を真に考慮できれば、人を公平に扱うことができるようになります。あなたが誰かを推薦し、その人が才能ある人に育ち、その結果神の家に有能な人材をもう一人もたらすことになれば、あなたは自分の働きをよく行なったことになりませんか。本分を尽くすことに忠実であったことになりませんか。これは神の前での善行であり、人間が有するべき良心と理知です(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。後悔と自責の念がさらに深くなったわ。神が望むのは、より多くの人が真理を求めて立ち上がり、神に協力すること。私は教会指導者なのに、神のお求めが心になかった。教会で働いているそうした人を見て、不満に思っただけじゃなく、嫉妬にかられて地位を守ろうとした。人として最も基本的な良心も理知もない私は、指導者にふさわしくなかった。利己的な自分を嫌悪したわ。小潔姉妹の素質が優れ、交わりで問題を解決できるのは、教会の働き、そして兄弟姉妹にとって有益なこと。私は彼女を支え、長所から学ぶべきだった。彼女と協力して本分を尽くすことが、神の御旨を想う唯一の道だったの。神の御旨を理解しても、他の人が小潔姉妹をほめるのをみると、少し嫉妬を覚えたけど、神に祈って自分を捨てた。神の御前で生き、本分を尽くし、誰が尊敬されてるかを気にしないようにしたら、嫉妬心がかなり消えたわ。問題があれば姉妹に相談して話し合い、一緒に真理の原則を求めることで、私の短所を彼女の長所で補ったの。そしたら、心がずっと自由に、穏やかになったわ。ある程度の変化を経て、自分の嫉妬深い本性は改善されたと思った。でも、また別の事態が起きた時、自分のサタン的な本性がいかに根深いかを知って驚いたの。清められるには、神の裁きと刑罰がもっと必要だった。

小潔と一緒に同労者の集会に出席した時、指導者は私に軽く挨拶すると、教会の働きについて小潔と話し始めたの。私は、役立たずのようにそこに座っていただけ。一気に気分が落ち込んだわ。小潔を不満げににらんで、こんな気持ちを抱かずにはいられなかった。「指導者は私よりあなたの方が大事なのね。教会と指導者にとってあなたは期待の星で、私はただの引き立て役」。その後、指導者の指示で、小潔が他の地区の集会に出て、研修を受けると聞いたの。それを聞いて腹が立った。「どうして私じゃなく小潔なの? 私はそんなに無能? 研修を受ける価値もないの?」恥ずかしくて、冷や水を浴びせられたような気持ちになった。彼女と同じくらい努力したのに、そんなの受け入れられない。でも彼女は説教を聞きに行き、私は取り残された。みんなに軽く扱われ、何をしても彼女にはかなわないと感じた。彼女と比較すればするほど、どんどん辛くなって、また嫉妬と怒りの中で生き始めたの。指導者が小潔と私を引き離せばいいと思った。そうすれば自分の能力を示せる。

その後すぐ、小潔の御主人が病気になったんです。辛そうな彼女を見て慰め、この試練を乗り越えられるよう神に祈り、御旨を求めるよう励ましたわ。でも、こう思わずにいられなかった。「彼女は今がピークだわ。小潔が精錬を受けて辛い状態にいる今なら、私の実力を示せる。状態が改善してしまったら、二度とこんなチャンスはやってこない。この精錬が長く続けばいいのに。小潔の交わりが素晴らしいのは平穏な時だけで、実は御言葉の現実を生きていないってわかるわ。みんなも彼女を尊敬しないし、指導者も、真理の現実がないことを知れば、これ以上育てようなんて思わないはず。そしたら自然と私の株があがる」私は自分の心の状態をよく考えず、この気持ちを正そうとしなかった。ある日、2人の姉妹が小潔の様子を心配そうに尋ねてきたの。私は、彼女は大変な状態にいて、いつもなら素晴らしい交わりができるけど、今は試練のせいで消極的になり、実際の霊的背丈がないと答えた。そうは言ったものの、心が落ち着かなかった。彼女を批判して貶めるために、大げさな話をしたから。でも姉妹が私の言葉をそのまま受け取ったのを見て、密かに喜んだ。小潔への尊敬が薄れるだろうと思ったわ。でもその後、小潔に会ってわかったの。深く苦しみ、祈る度に涙を流しているにも関わらず、本分は何の影響も受けてない。思わず罪悪感を覚えた。試練に直面しても苦しみに耐え、弱さを見せないのは並大抵のことじゃない。私に人間性があれば、彼女のために祈り、支えるためならなんでもしたはず。でも、そうはしなかった。本当に申し訳なかった。だから神の御前でこう祈ったの。「神よ! 私の嫉妬は度を超えています。姉妹を出し抜けるよう、批判して貶めたのです。その不幸を喜び、消極的になって躓くことさえ望みました。人間性のかけらもありません。神よ! 自分の堕落を理解してサタンの性質から抜け出せるよう、導きと啓きをお与え下さい」

その後、この御言葉を読みました。「そのような人は自分より優れた人を見ると、他の人々がその人を高く評価しないよう、また誰一人傑出した人がいなくなるよう、その人を押さえつけたり、その人に関する噂を流したり、何らかの卑劣な手段を用いたりします。それは傲慢さと独善性、また邪悪さ、不正直さ、狡猾さからなる堕落した性質であり、そのような人は自分の目標を達成するためには手段を選びません。このように生きながら、自分のことを偉大で善人だと考えています。しかし、このような人に神を畏れる心はありますか。まず何より、これらの事柄の特質という観点から言えば、このように行動する人はただ自分の好きなようにしているのではありませんか。神の家の益を考えていますか。神の家の働きが被る損害に関係なく、自分の感情しか考えず、自分の目標だけを達成したいのです。このような人は傲慢で独善的なだけでなく、利己的で卑劣でもあります。神の意図をまったく配慮しませんし、神を畏れる心がないことに疑いの余地はありません。自責の念も、恐怖、不安や心配も一切なく、結果を考えることもなく自分の望むことを何でもして、勝手気ままに振る舞うのはそのためです。神を畏れず、自分が極めて重要な人物だと信じ、自分のことをあらゆる点で神より高く、真理よりも高いと見なしています。その心の中では、神はその名に言及する価値さえなく、何の意義もなく、このような人の心の中では何の地位もありません。心に神の居場所がなく、神を畏れない人は、真理への入りを成し遂げましたか。(いいえ。)では、いつものように嬉々として動き回り、絶えず忙しくしながら極めて多くの活力を費やすとき、その人たちは何をしているのですか。このような人たちは、自分はすべてを捨てて神のために費やし、大きな苦しみを受けてきたとさえ言い張りますが、実を言うと、すべての行動の動機、原則、そして目的は自分に利益をもたらすことです。自分の利益を残らず守ろうとしているだけなのです。この種の人は恐ろしいとあなたがたは言うでしょうか、それとも言わないでしょうか。どのような人間が神を畏れない人でしょうか。その人たちは傲慢ではありませんか。サタンではないのですか。神を畏れないのはどのようなものでしょうか。動物を別にすれば、悪魔、サタン、大天使、そして神と争うものはみな神を畏れません(「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」『キリストの言葉の記録』)。この御言葉に、心がえぐられる思いでした。私はまさにこんな人間。小潔姉妹には素質があり、真理を求めてるし、育成されるべきだと知りながら、指導者に重宝され、集会に派遣されたのを見て、心を乱した。不公平だと思って受け入れられなかった。彼女への嫉妬と怒りに燃え、異動になれと強く願った。試練に遭い、弱気になって苦しむ姿をみて、助けるふりをしながら、その苦しみを喜んだ。彼女が消極的になれば、自分が目立てると思った。そして自分の評価を上げるため、皆の前で彼女を批判し、貶めた。優位に立ちたい一心で。長年神を信じていながら、神に対する畏敬の念もなく、嫉妬にかられ、自分の地位を守るために、良心のない行動をとった。卑しく、邪悪そのもの。心が狭く、見栄っ張りで悪意に満ち、卑劣でつまらない人間だった。サタンとどこが違うでしょう? 物事がうまくいっているのが許せず、人が消極的になり、神から離れ、神を裏切るのを望むのはサタンだけ。私は明らかにサタンの手先として振る舞い、教会の働きを乱した。神の家に害を与え、悪を行い、サタンとともに神に歯向かったの。それでもなお、自分を高く評価した。真理の現実もなく、素質も小潔姉妹に敵わないのに、地位を求め、彼女を超えようと夢中だった。傲慢で自分のことがわかってなかった。この時、私は自分を心から嫌悪して、サタンの性質から自由になりたかった。

その後、この御言葉を読んだの。「人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神に使われるには適さない(『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉を読んでわかったわ。私が神に反抗し、逆らい、堕落を生きていたのは、サタンによる堕落のせい。サタンの原則や論理の中で生きてきたの。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「天上天下唯我独尊」「両雄並び立たず」「ガンは声を残し、人は名を残す」こんなサタンの格言を受け入れたせいで、ものの見方も、生存法則も、理知も歪んでしまった。ごう慢で邪悪になり、人間性を失った。サタンの毒に支配され、名声と地位を追い、尊敬されることだけを望んだ。その他大勢になりたくなくて、人に抜かれるのが許せなかった。だから自分を超える人を見ると、どうしても対抗心を燃やした。かなわないと分かると、嫉妬と怒りに駆られ、卑怯な手で目的を果たそうとさえした。ごう慢、不実、邪悪。そんなサタンの性質しか示さなかった。本分を尽くしていると言いながら、実は自分のために働き、悪を行い神に逆らってた。追放された反キリストのことを思いだしたわ。彼らは、真理を求め、神の御旨を想う人に嫉妬し、辛くあたり、自分の地位を脅かす人は、目の上のたんこぶのように扱った。威圧的で、意地悪で、自分の天下が続くよう、他人を追い出そうとすらした。でも結局、数々の悪行をとがめられ、みんな教会を追われた。私は反キリストほど意地悪でも悪人でもなかったけど、嫉妬に駆られ、ごう慢で邪悪な本性に支配されていた。自分の地位を守るために人を押しのけ、批判した。神に逆らう反キリストの道を歩んでたの。神の義なる性質はいかなる背きも許さない。悔い改めなければ、神に拒まれ淘汰される。心から怖くなった。神は厳しい裁きで私を守られてたと知ったの。それがなければ私は反省せず、本当の悪事を犯して後悔してたはず。神の御旨を考えていると感極まり、悔い改めて自分を変えようと、神に祈りました。

そしてある日、デボーションで次の御言葉を読んだんです。「本分を尽くしている一人ひとりにとって、真理の理解の深さがどれほどであろうと、真理の現実に入ることを望むなら、自分が行なうすべてのことにおいて神の家の益を考え、自分の利己的な欲求、個人的な意図、動機、面子、地位を捨てるのが最も簡単な実践の方法です。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。本分を尽くしている人がこの程度のことさえできないのであれば、どうして本分を尽くしていると言えますか。それは本分を尽くしているのではありません。まずは神の家の益を考え、神自身の益を考え、神の働きを考え、それらを第一に、最優先に考えなければなりません。その後で初めて、自分の地位の安定や、他人が自分をどう見るかを考えることができます。……加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神と神の家の益を第一にすることができるなら、それをしばらく経験した後、それがよい生き方だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、心が狭かったり卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。「役割が違うのだ。からだは一つであり、それぞれが自分の本分を尽くし、それぞれの持ち場で最善を尽くし(幾分熱があれば、その分光を発する)、いのちの成長を求める。そうすればわたしは満足するだろう(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十一章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉から理解したのは、各人の素質と果たすべき役割は、神に予定されてるということ。それを巡って争ったり、苦しんだりすべきじゃない。自分より素質の優れた人がいて、私は木より草になるべきと神が予定されたなら、私はただ草になり、喜んでその役目を果たすべきだわ。もう地位をめぐって人を争うのはやめ、自分勝手な欲を手放し、サタンの性質で生きず、神の家の利益を第一にしよう、そして着実に本分を尽くそうと思った。それが光の中で生きる道だから。姉妹たちに自分の堕落を打ち明け、小潔姉妹に謝ったわ。私の悪意と行いを知っても、小潔姉妹は私を責めることなく、私のために真理を交わってくれた。本当に感動したわ。人間性をなくし、姉妹を傷つけたことを後悔した。その後、神に祈ったの。地位のために企むのをやめ、本分を尽くしますと。

ひと月後、小潔姉妹が戻ってきて、集会で学んだことを分かち合ってくれました。その交わりはとてもためになって有益でした。でもみんなが熱心に耳を傾けてるのを見て、再び居心地の悪さを感じた。また地位にとらわれ、嫉妬してると気づいたから、神に祈り、自分を脇にのけたわ。説教の中でこう聞いたのを思いだした。神に仕える理知ある人は嫉妬せず、むしろ人が自分より優れていることを望むと。そうすれば、神の重荷をともに背負う人が増えるから。そういう人は、誰かが神に得られたら、それを喜べる。説教を聞きに行ったことで、小潔姉妹が多くを学び、成長したことがわかった。みんなを潤し助けられる。みんなが真理を理解するのに役立つし、神に安らぎをもたらす。姉妹から学んで、その長所を私の本分に活かすこと。それが重要だったの。こんなふうに祈って自分を捨てると、心がずっと安らかになった。兄弟姉妹にどう思われようと、教会での地位が何であろうと、もう気にならなくなった。心を落ち着かせて彼女の交わりを聞き、啓きを得たわ。そして姉妹と協力して真理の原則を求めた。その後は一緒に仕事をしている時に、指導者と小潔姉妹が話し合っているのを見ても、心が乱れず、嫉妬も感じなかった。本当に安心したわ。嫉妬心を手放せば、心が穏やかになって誠実になれることを自ら経験し、やがて人間らしく生きられるようになった。私が少し変われたのは、神の御言葉の裁きと刑罰があればこそ。神の救いに感謝します!

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