12. 三位一体の謎、明かされる

マレーシア 静默(ジンモ)

1997年、私は幸運にも主イエスの福音を受け入れました。洗礼を受けたとき、牧師は三位一体の神、すなわち父、子、聖霊の名において祈り、授洗しました。以来、私は祈るとき、いつも慈愛ある天の父、救い主イエス、聖霊である三位一体の御名において祈りを捧げました。しかし心の中には、どうして三つが一つでありえるのかという疑問が常にありました。三位一体が何であるかについて完璧に表現することも理解することもできなかったのです。

二年後、私は教会の執事になりました。信仰について学んでいる入信希望者たちに付き添うとき、三位一体の意味を尋ねる人がよくいました。信仰告白の際に父、子、聖霊の三位一体について尋ねられることもよくありました。私もこの奥義を理解していなかったので、答えられたためしがなく、そのことでとても悩みました。私はこの問題についてはっきり理解したいと強く思ったため、決定的な答えが得られることを期待して、牧師と説教師に説明を求めました。しかし彼らの返答は基本的に次のようなものでした。「神は三位一体であり、父、子、聖霊から成り立っています。父は私たちの救いの計画を立てられ、子がそれを完結され、聖霊が計画を実行されます。父は神であり、子は神であり、聖霊も神です。三つの位格が揃って一つの真の神なのです」こう説明されても、私はなおさら戸惑うだけで、「でも神が三位格ならどうして一つの神でありえるのですか?」と尋ねました。すると彼らは私に「三位一体は奥義です。深く考え過ぎないでください。ただ信仰に頼って信じてください。それだけでいいのです」と言ったのです。私はこのことで非常に困惑したままでしたが、「もう考えるのはやめよう。ただ信じるんだ」と思い、無理に受け入れようとしました。祈るときは、やはり慈愛ある天の父、救い主イエス、聖霊という三位一体の神に祈りました。そのように祈らないと神に祈りを聞いて頂けないと感じ、そのうちの一位格にだけ祈ったのでは聞いて頂けないだろうと不安でした。そのため、何年もこのような混乱の中にい続け、自分の想像上の三位一体の神を信じていました。以後も、教会の兄弟姉妹に三位一体の意味を尋ねられると、いつもどう答えるべきかわかりませんでした。ただ、牧師に言われたことに従って答えることしかできませんでしたが、兄弟姉妹が本当に納得していないことは表情からわかりました。このため私は無力感を覚え、ただ祈りにおいて主の御前に出ることしかできませんでした。「愛する天のお父様に感謝します。兄弟姉妹や入信希望者に三位一体について質問されたとき、どう答えるべきかわかりません。どうか助けてください。私が三位一体がどういう意味であるかを理解し、もはやこの問題で混乱しなくなるように聖霊のお導きがありますように。そして多くの人が神様を知るようになりますように」。

2017年5月、私はある姉妹とFacebookで知り合いました。彼女はとても愛情深くて辛抱強く、お互いに聖書の節をいくつか伝えて話し合った後、私は彼女の交わりに光があることに気づきました。そこから多くのことを学び、ぜひ彼女と意見を交換したいと思いました。彼女は後で私と他の数人の兄弟姉妹を何回か集会に連れて行ってくれました。この集会での交わりを通して、私は受肉とは何か、主がいかに到来されるかなど、今までわからなかった真理がある程度わかるようになりました。私はそうした真理から多くのことを得て、聖書の幾つかの節について以前より明確な理解を得ました。私が姉妹に、聖書を読むことでどうして私よりもそんなに理解できるのかと尋ねると、彼女は答えました。「私が理解していることはすべて神の御言葉を読むことから来ています。私たちの主イエスはすでにお戻りになられたんですよ。主は御言葉を表して終わりの日に新しい働きをなさるために人の子として受肉されました」。私はこの知らせに驚いて胸を躍らせ、「本当に? 主が本当に戻られたのですか?」と姉妹にどんどん質問しました。彼女は確信をもって「ええ、本当です!」と答えると続けて、主は終わりの日に受肉してお戻りになったが、神の御名が変わり、神は今、全能神という名、すなわちヨハネの黙示録で預言された「全能者」だと言うのです。「全能神」という名前を聞いた瞬間、私はドキッとして思いました。「全能神? 東方閃電じゃないの? うちの牧師は私たちに東方閃電に警戒すること、関わってはいけないと言った。しかも、私たちは主イエスを信じているけれど、この姉妹は主イエスが戻られて全能神と名乗られたと言っている。ではどうして名前が違うの? 私は道を外れてしまわないかしら?」しかしこうも思いました。「この姉妹と知り合ってから、私は彼女の話すことが聖書と合致するだけでなく、すごく勉強になるし、明らかに聖霊の啓きがあるのを見てきた。この道が間違っているなら、どうしてそこに聖霊の働きがあるの? 彼女の話を聞き続けるべきかな? やめた方がいいかな?」

相反する感情に引き裂かれるように感じていたそのとき、姉妹が以前伝えてくれた一節を急に思い出しました。「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。この節はキリストに言及し、キリストが人々に真理を与えることができると述べています。ヨハネによる福音書第14章6節で、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と仰せられました。主イエスはキリスト、肉となられた神であり、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰せられたのです。全能神の言葉も主イエスの御言葉もキリストと真理に触れています。私は「全能神がキリストなら、真理を表して人のいのちの糧を施せるはずだ」と思い、姉妹が最近私に読んでくれた全能神の多くの言葉について考えました。その朗読を聴いていたとき、そこに権威と力がこめられていると感じ、全能神の言葉は本当に真理で、聖霊から来たものだと感じていました。そのため、この道が真の道であり、間違っているはずがないと悟ったのです。聖書には「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙 10:17)と述べられています。「もし全能神が主イエスの再臨であり、私がこの道を求めも調べるもせず、牧師や長老が言うことを盲目的に信じたなら、主の救いを逃し、主の再臨を迎えることができなくならない?」そう考えると、私は終わりの日の全能神の働きをよりよく理解できるように、あと数回は集会に参加することにしました。

また別の集会で、姉妹は神の御言葉の次の一節を私たちに伝えてくれました。「今日の働きは恵みの時代の働きを推し進めてきた。すなわち、六千年にわたる経営(救いの)計画全体における働きが前進したのである。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると、わたしが繰り返し言うのはなぜか。これは、今日の働きが恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものだからである。これら三つの段階は密接に結びついており、それぞれがその次の段階に繋がっている。また、今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築かれていると、わたしが言うのはなぜか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築かれたのでなければ、この段階でもう一つの磔刑が起きていなければならず、過去の段階における贖いの働きも一からやり直す必要があるはずだ。これは無意味なことだろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きの水準が以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代を基礎とし、イエスの働きという岩盤の上に築かれると言うことができるだろう。神の働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三段階の働きが結合して初めて六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる(『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」〔『言葉』第1巻〕)。その後、姉妹は次のように話してくれました。「神の働きはいつも前進しており、神は人の必要に応じて異なる時代に異なる働きをなさり、異なる名を名乗られます。しかし、神がどんな名前でどの段階の働きをなさっても、本質では常に神ご自身が人類を救う働きをなさるのです。律法の時代、神はヤーウェという名で働きを行なわれました。地上における人の生活を導くための律法と戒めを発布され、そうして人に罪とは何か、人がいかなる規則に従うべきか、いかに神を礼拝すべきかなどを知らせてくださったのです。恵みの時代、神は肉となってイエスと名乗られ、律法の時代の働きを土台として、人類を贖うべく十字架付けになるという働きを行なわれ、その結果、人の罪は赦されました。現在、神の国の時代という最後の時代に、神は二度目の受肉をなさり、全能神と名乗られ、贖いの働きを土台としてで人を裁き、清めるという働きを行われています。その結果、人がその内にもつ罪深い本性と堕落した性質が除去され、人が罪を犯して神に抵抗する根本原因がきっぱりと解消されます。三つの働きの段階は完全に相互補完的で、各段階はその前の段階より高く深くなっています。神の働きのどの段階も単独では成立しません。三つの働きの段階が織り交ざったものだけが、神が人類を救うために行われる完全な働きを成し、それらが一緒になって神の人類のための六千年の経営(救いの)計画なのです。神が御名を用いられるのは単に時代を区別し、時代を変えるためであり、そのため私たちは神の御名が時代とともに常に変化するのを目にするのです。しかし、神の御名がどうに変わっても、神はそれでも一つの神です」神の御言葉と姉妹の交わりを聞いて、私は驚愕しました。それまでずっと主を信じてきましたが、神の六千年の経営の働きを説明できる人に会ったことはありませんでした。しかし、全能神の御言葉はこの奥義を明らかにしました。この言葉は本当に神の御声だったのです。私は信仰の道を外れませんでした。全能神は本当に主イエスの再臨です。ただある時代から別の時代に移行するのに神が御名をお変えになっただけなのです。しかしそれでも一つの神です。

私はこのことについてさらに数日間調べ続けました。姉妹は私たちに神が終わりの日に行われる裁きの働き、神の御名の意義といった真理の側面について交わってくれ、私は聞けば聞くほど明瞭な理解を得ました。ある日、彼女が「神の御言葉は聖書の奥義をすべて明らかにしました」と言い、私はこれを聞くと心がすぐに明るくなりました。私は彼女に何年も自分をこんなに悩ませている三位一体の問題のことを話しました。姉妹は神の御言葉の一節を読んでくれました。全能神は仰せられます。「あなたがたの中の誰かが三位一体は実際存在すると言うならば、この三位格で一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行われたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に「唯一の聖霊、唯一の神のみがいる」と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたがたが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、全宇宙に、そしてその上に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である(『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」〔『言葉』第1巻〕)

姉妹は交わりで話してくれました。「神の御言葉はとてもはっきりしています。神は唯一で、一つしかなく、聖霊にもただ一つです。父、子、聖霊は一つの本質からなっており、それは霊の本質です。神はヤーウェのように霊において働くことがおできになりますが、主イエスと全能神のように人の子として受肉することで働くこともできます。しかし、神が霊において働かれても、肉において働かれても、本質ではそれはやはり神の霊がご自身の働きをなさっているのです。したがって、三位一体説は人の観念と想像に属し、まったく成立しません。実際、三位一体説は主の時代から三百年以上後にニカイア公会議で確立されました。その会議ではキリスト教世界各地の宗教専門家が神の単一性と多様性について白熱した議論を行い、最終的に自分たちの観念、想像、論理的推論に基づいて三位一体説を確立したのです。以来、人々は聖なる子である主イエスのほかに、天の聖なる父と、父と子がともに用いる道具である聖霊があると信じて、天地万物を創造された一つの真の神を三位一体と定義しました。これはあまりにも荒唐無稽です。もし宗教界の解釈どおり、父、子、聖霊の三位一体を信じるなら、それは三つの霊と三つの神がいることを意味し、神が唯一無二であるという事実と矛盾しないでしょうか? 実際には、三位一体は存在しないのです。これは完全に人の考えから生まれた解釈であり、堕落した人類がその観念と想像に基づいて導き出した結論です。そのようなことは神が仰せられたことも、神の霊感を受けた預言者や使徒が言ったこともなく、聖書のどこにもそのような記録はありません」。

神の御言葉と姉妹の交わりに耳を傾けながら、まだ心の中に混乱が残っていたので私は尋ねました。「聖書には、イエスがバプテスマを受けられた後、天が開いて、聖霊が鳩のようにイエスに降り立って、天から『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書 3:17)という声があったと述べられています。また。主イエスは十字架に付けられる前に、祈って『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイによる福音書 26:39)と仰せられました。聖書では、天の神がイエスを愛する子と呼ばれ、イエスは祈られるとき天の神を父と呼ばれたとあります。ですからここでは父、子、聖霊が出てきます。これは神が三位一体であることを示していませんか? なぜ全能神の御言葉では、三位一体は存在せず、人間の観念と想像に過ぎないと言われているのですか? これはどういうことでしょう?」

私の質問への答えに、姉妹は次のように交わってくれました。「旧約聖書には三位一体といった概念はありません。『父と子』という解釈が初めて登場したのは、主イエスが肉となって地上に働きに来られた後です。ヨハネによる福音書によると、ピリポが神を知らず、地上の主イエスのほかに天の聖なる父もいると信じていたので、イエスに『主よ、わたしたちに父を示して下さい』と言いました。主イエスはピリポの誤った見方を正し、この奥義を明らかにし、ピリポに仰せられました。『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか(ヨハネによる福音書 14:9)。また『わたしが父におり、父がわたしにおられる(ヨハネによる福音書14:10)、『わたしと父とは一つである(ヨハネによる福音書 10:30)とも仰せられたのです。父は子であり、子は父なのです。父と子は一つであり、一つの霊なのです。こう仰せられることで、主イエスは主と父が別々なのではなく一つの神であると私たちに教えてくださいました」。

そして、姉妹は「『父と子』の奥義を明らかにする」というすばらしい動画を見せてくれました。その後、私たちは続けて全能神の御言葉の一節を読みました。「それでも、『イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったか』と言う人たちがいる。イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である――これは確かに神自身によって語られた。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『わたしが父におり、父がわたしにおられる』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。……神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から『わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている』と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである(『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」〔『言葉』第1巻〕)

姉妹は言いました。「神が主イエスとして初めて肉となられ、働きをしに来られたとき、誰も神を知らず、受肉の真理を理解せず、受肉が何かを知りませんでした。もし主イエスがご自分が人々の崇拝するヤーウェ神であることを、人々に直接仰せられていたなら、彼らはその時の霊的背丈ではそれを受け入れることができず、主イエスは働きを行なう前に人類に断罪され、拒絶されたでしょう。そうなれば人類を贖うという神の働きは不可能であり、人類は主イエスを罪の捧げ物として得ることはなかったでしょう。人類が主イエスを受け入れ、信じ、神の救いを得るために、主イエスが正式に働きをお始めになる前に、神は霊の立場でご自身の証しを立てられ、ご自身の肉なる御姿を子と呼ばれ、主イエスが本当に神から来たことが人々にわかるようになさいました。こうして主イエスの救いが私たちに受け入れやすくなったのです。そして、主イエスが祈りにおいて天の神を父と呼ばれたのは、受肉された人の子が肉の立場でご自身の内にある霊を父と呼ばれたのです。これは霊と肉の違いに基づいてなされたのであり、父と子が別々に存在したことを意味しません。実際のところ、父と子という解釈は神の受肉の時代にのみ適切でした。神の地上での働きが完結したとき、すなわち、主イエスが贖いの働きを終えて復活され、天に昇られたとき、父と子という解釈の必要はもはやありませんでした。したがって、人類の観念によって作り上げられた父と子という解釈を用いて、それを神に見境なく当てはめ、神においては父と子があり、父と子がともに使用される道具、聖霊もある、神は三位一体であると言うことができないのです。そのような発言は神の御言葉に反し、事実と反します。以前の私たちは真理を理解していなかったので、そのようなことを言っても神に断罪されませんでした。しかし、今、神はこの真理と奥義を完全に明らかにされたのであり、私たちは真理を受け入れ、御言葉に照らして神を知らなければなりません。これだけが正しく、これだけが神の御心に適います」。

この姉妹の交わりを通して、私はなぜ主イエスが天の神を父と呼ばれたのかがわかりました。それは主が人の子として受肉され、人の立場から天の御父に祈られていたからだったのです。神はイエスを愛する子として証しされましたが、これは神が霊の立場からご自身の受肉の御姿を証しされたのです。一者は天に、もう一者は地上におられましたが、両者は本質では一つの霊でした。ただ神がこのことを異なる視点から仰せられていたのであり、そのため「父と子」という解釈が生まれたのです。神は唯一の真の神であり、すべてを包括し遍在する一つの霊です。天にいることができ、地上にいることができ、肉になることができます。ひとたびこれらすべてを理解すると、すべてが突然明らかになり、何年間もずっと私につきまとっていた混乱が一瞬にしてなくなり、とてつもない照らしと解放を感じました。

その後、姉妹は「『三位一体』の奥義探求」という福音を証しする映画を見せてくれましたが、その中に次の御言葉がありました。「この長い年月を通してずっと、神はこのようにあなたがたによって分けられてきて、各世代とともにますます細かく分けられ、一つの神が公然と三つの神に分けられるまでに至った。そして今、人が神を一つに再結合するのはまったく不可能である。神をあまりにも細かく分けすぎたからである。手遅れにならないうちにわたしの迅速な働きがなければ、あなたがたがどのくらい長く厚かましくもこのようなことを続けるかはわからない。このように神を分け続けるなら、どうして神はあなたがたの神でいられようか。あなたがたはまだ神を認識できるであろうか。あなたがたはまだ神を父として受け入れ、神のもとに戻るつもりなのか。もしわたしが少しでも遅く到着していたら、あなたがたは『父と子』、ヤーウェとイエスをイスラエルに送り返し、あなたがた自身が神の一部であると主張していたことだろう。幸いにも、今は終わりの日である。とうとう、わたしが長いこと待っていたこの日が来て、この段階の働きを自分の手で実行してはじめて、あなたがたによる神そのものの分割が停止した。これがなかったら、あなたがたはエスカレートして、あなたがたの中のサタンをすべて祭壇上に載せて崇拝さえしていただろう。これがあなたがたの策略である。あなたがたが神を分ける手段である。あなたがたは今そのようにし続けるつもりなのか。あなたがたに尋ねたい。神は幾つあるのか。どの神があなたがたに救済をもたらすのか。あなたがたがいつも祈る対象は最初の神か、二番目なのか、それとも三番目なのか。そのなかでどの神を常に信じているのか。父だろうか。それとも子だろうか。あるいは霊だろうか。あなたが信じるのはいずれなのか、わたしに教えて欲しい。あなたはあらゆる言葉をもって神を信じていると言うが、あなたがたが実のところ信じているのはあなたがた自身の知力である。あなたがたは断じて心の中に神を持っていない。しかし頭の中にはそのような『三位一体』がいくつかあるのだ。あなたがたはそう思わないだろうか(『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」〔『言葉』第1巻〕)

私たちが映画を見終わった後、私は嬉しかったのですが、同時に動揺し、自責の念に駆られました。嬉しかったのは、何年間も抱えていた混乱がついに解消したからです。神は一つであり、三位一体論はまったく存在しません。一つの真の神を信じることだけが神の御心に適うのであり、もはや以前のように父にしばらく祈って次に聖霊や子に祈るということが不要になり、とても安心しました。しかし動揺して自分を責めたのは、長い間神を信じていながら、それでも神を知らなかったからです。私が信じていたのは、私の観念と想像から生み出された神、つまり漠然とした伝説の神に他なりませんでした。本当の神を信じず、しかも神に抵抗し、神を「分割」していました。実際には神を冒とくしていたのです。神に感謝します。なぜなら、全能神の到来のおかげで堕落した人類の信仰における愚かさがすべて明らかになり、常に宗教界を困惑させてきたこの奥義を全能神が解き明かしてくださったからです。全能神は疑う余地なく主イエスの再臨、天地万物を創造された主です。唯一の真の神なのです。

後に、全能神の御言葉を読んで、私は神の御言葉はすべて真理であり、神の御声であることがわかりました。ためらうことなく終わりの日の全能神の働きを受け入れ、子羊の足跡に歩調を合わせるようになりました。今では、祈るとき、三つの神に祈る必要はありません。ただ全能神の御名において祈り、そうするととても安心し、落ち着き、喜びを感じられます。祈るとき、どちらかの神への祈りが足りないので、祈りを聞いて頂けないなどと心配する必要もなくなりました。真理を理解し、神を知ることによる解放、自由、喜び、幸福を本当に経験したのです。神に感謝。

前へ: 11. 主との再会

次へ: 13. この声はどこから聞こえてくるのか

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

46. 死の淵から戻って

中国 ヤン・メイ2007年、私は突然慢性腎不全になりました。クリスチャンである母と義姉、数人のカトリックの友人はこのことを知ると、みんなで私に会いに来て福音を説きました。主を頼ってさえいれば病気は治ると、母たちは言いました。ところが私は神をまったく信じていませんでした。病気を治せ…

32. 突破口を見いだす

中国 芳芳私たち一家は全員主イエスを信じており、私が教会の普通の信者である一方、父はその教会の同労者でした。2004年2月、私は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、その直後、天国の福音を一番下の妹に宣べ伝えました。もともとは神の御言葉と真理をいくらか身につけてから、父に終わりの日…

43. 迷い、また救われて

協力 アメリカ私は生活水準の高い幸せな人生を追い求めるべく、できる限り懸命に働こうとアメリカ合衆国にやってきました。最初の数年は少なからず苦しみましたが、やがて自分の会社を始め、車や家などをもつことができました。夢に見た「幸せな」人生をついに歩めるようになったのです。その間、私に…

14. 主が東に出現された

丘珍(チューチェン)(中国)ある日、妹が私に電話し、北から帰って来て私に大事な話があるので、すぐに家に来てほしいと言いました。私は何かよからぬことが起こったのかと感じたため、すぐに妹の家に行きました。家に着いて、妹が本を読んでいるのを見てホッとしました。妹は私が入って来るのを見る…

設定

  • 文章
  • テーマ

単色

テーマ

フォント

文字サイズ

行間

行間

ページ幅

目次

検索する

  • 表示テキスト内検索
  • 全文検索