誠実な人間になるための奮闘

2020年9月10日

全能神は言われます。「わたしの国には、正直で、偽善的でなく、偽りのない人々が必要だ。誠実で正直な人々は、この世では好かれないのではないか。わたしはまったくその逆だ。正直な人たちがわたしのところに来るのは受け入れられる。わたしはそのような人を喜び、そのような人を必要としてもいる。それこそがわたしの義である」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第三十三章」)。「あなたがたは神が誠実な人を好むことを知らなければならない。実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである。誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋であり、神も人も欺かないということである」(「三つの訓戒」『言葉は肉において現れる』)。この神の御言葉を読むと自分がいかに商売において不誠実なやり方でお金を稼いでいたか、気づかされます。人間らしさのかけらもなく暮らしていた。でも全能神の働きを受け入れ、全能神の御言葉による裁きと刑罰を経験したことでようやく自分の身勝手でウソつきなサタンの性質を理解できました。物事の見方も変化し、真理を実践し、誠実な人間になり始めました。

数年前、私は家電の修理店を開きました。「誠実な商売人になりたい、儲けは家族が暮らせるだけあれば十分だ」、そう思ってた。でも忙しい日々がしばらく続いてもぎりぎり生活できるだけの稼ぎしかなくて、貯金もできなかった。一般的な初任給よりも収入の少ない月すらありました。妻からは、そのことでいつも「あなたは誠実すぎる、商売のやり方を分かっていない」と文句を言われたよ。妻の弟も私を非難して、「今はカネの時代だどんなやり方でもいいから、客に『こいつは有能だ』と思わせて支払わせないと」そう言った。「狡猾さのない富はない」「金があれば鬼にひき臼を回させることができる」そう話し、時代の流れを私に認識させて、その流れに乗って意固地にならずに、周りと同じように商売をやるよう勧めてきました。彼の主張ももっともだ。そうは思ったけれど客をだます気にはなれなかった。自分の良心が許さなかったんだ。

そのあとのこと、チェンさんという近くの家電修理店の経営者に修理技術がほとんどないことに気づいた。ちょっとした不具合しか直せないのに店の入り口にでかでかと「どんな家電も直せる一流技術」と掲げ大勢の客を引きつけていたのです。チェンさんは、簡単なものだけ自分で修理して、そうでないものは他の修理店に回して、ピンハネしていた。そうやって荒稼ぎしていたんだ。そのチェンさんと話していたとき、稼ぎ方について彼はこう話していました。電化製品は、小さな部品が壊れていても全部品を交換すれば修理費用を高く請求できるぞ。客は何も知らないからな。俺たちの社会はカネがすべてだ。「黒ネコにしろ、白ネコにしろ、ネズミを捕まえるのが良いネコ」さ。カネを稼げる奴が有能な人間だ。稼げない奴はどんなにデキる人間でも見下される彼の「お見事な見解」を聞いて思った。「これが私たちの暮らす時代だ。誰もがお金のためなら何でもする。誠実さなんて存在しない。独り正直者でいて何の得がある? これまで誠実に仕事をしてきたのに結果は出ていない。同じ修理屋のチェンさんは、いい生活を送っている。家族みんながぜいたくに暮らしてる。でも私たちにはちっとも余裕がない。私は頑固すぎたのかもしれない。自分の家族がより良い生活を送れるように、もっと稼げる方法を考えるべきだ」。そして、同業者たちの「成功例」から学び、客をだますずるい手を使うようになりました。不安もあったけれど金儲けのためにはくよくよしていられない。

ある日、1人の客が店にやって来ました。私は不具合のあった部品を取り除いてから何の問題もない部分もいくつか取り出しました。実際よりも多くの部品が故障していたように思わせるためだ。そうすれば、余分に請求してもバレないだろう。悪さをすると後ろめたいものです。最初はあまりの緊張から、胸がドキドキしました。その場で気づかれて、とがめられるのが怖かった。恥をかくことになる。ただただ落ち着いているように装って、部品をすべて交換した。支払いでは容赦なく実際の見積もりよりも5割増しの金額を請求しました。客の目を見られなくて、ずっと下を向いていたよ。驚いたことに、彼女は何も言わずに支払いました。彼女が店をあとにして、ようやくホッとため息をつけたものの、顔も背中も汗まみれ。不安でおかしな感覚だった。でも余分にもらったお金を見ると、そんな感覚は消え去ったんだ。

それからというもの、客に過剰に請求するためのあらゆる手口を考えるようになりました。最初は罪悪感があったけれど、余分に稼いでいられるよう、ひそかにこう自分を奮い立たせていた。「『度量小さきは君子にあらず。冷酷あらざるは男子にあらず』情にほだされず、儲けたいなら賢明でなければ。それに、みんなやっている。私だけじゃない」。しばらくすると罪悪感は薄れ、私の金儲けの「技術」はさらに磨かれ、洗練されていきました。客を観察し、様子をうかがって人によって対応を変える方法を学び、より多くの手口を覚えた。裕福な客が来たときには、彼らが喜びそうなことを言っておだてて、こびへつらい、より高い金額を請求しやすくした。修理を切望する客には厄介で大変な作業であるふりをして、わざと時間をかけ過剰に支払わせるよう仕向けた。鋭い客もいたけれどそんなときは、何か理由をつけて修理品を預かり、別の日に来させ違う部分にも故障が見つかったと説明したよ。そうやって以前よりも儲けた。独りでいるときはあまり不安も感じなかった。いつも頭を絞って、過剰に請求する方法を考えていた。そうして前よりずっと稼ぎ、快適な生活を送っていた。でも幸せも喜びも感じられませんでした。それどころか、卑劣で、不正なことを考えるたび怖くて不安だった。こう思うこともありました。「やめるべきだ。もうこんなやましい商売は続けるべきじゃない。『善は善で報われ、悪は悪で報われる』。私も報いを受ける」。でも手に入れたお金のことを考えるとやめる決心がつかなかった。

そんな、ますます堕落し麻痺していく私に、姉が全能神の国の福音を教えてくれたのです。私は神の働きを受け入れよく兄弟姉妹と集まり、神の御言葉を読むようになった。あるとき集まりで、こんな全能神の御言葉を読みました。「人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である」(『言葉は肉において現れる』)。神の御言葉は実情を示しています。この世で多額のお金を稼いだ結果私の肉体は前より楽になったけれど、心は空しく、痛んでいた。神から遠ざかり、人間に対する神の要求に反してサタンの生存の法則を生きていたからだ。修理店を始めたときは、はっきりとした良心を持っていて、稼ぎは少なくても心は穏やかでした。でも周りの人たちが不正なやり方で金儲けするのを見て、影響されてしまった。そして、「狡猾さのない富はない」「金があれば鬼にひき臼を回させることができる」「金はすべてではないが、金なしでは何もできない」といったサタンの生存の法則も受け入れるようになった。邪悪な時代の流れに乗り、商売の基本理念を捨て自分の良心を無視して客を欺き、お金を巻き上げた。手元にあるお金は、全部不正に得たものでした。そういった道徳に反する卑劣な行いの数々を思うたび私は自己嫌悪に陥り、落ち着きませんでした。誰かに暴かれ、とがめられる日が来ることをいつも恐れてた。最悪の場合、警察に通報されるかも。常に緊張状態で、つらい生活でした。でも分かったのです。それはすべて、私がサタンの哲学を生きていたからだと。サタンの法則に縛られ、惑わされた結果だった。神の御言葉の導きがなければサタンがいかに私に害を及ぼしたか、気づけなかったでしょう。

その後、姉妹が御言葉を読んでくれました。「あなたがたは神が誠実な人を好むことを知らなければならない。実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである。誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋であり、神も人も欺かないということである。」「わたしの国には、正直で、偽善的でなく、偽りのない人々が必要だ。誠実で正直な人々は、この世では好かれないのではないか。わたしはまったくその逆だ。正直な人たちがわたしのところに来るのは受け入れられる。わたしはそのような人を喜び、そのような人を必要としてもいる。それこそがわたしの義である」(『言葉は肉において現れる』)。姉妹は言いました。「神は本質的に誠実。誠実な人を好み、祝福される。この世では、私たちは人とのかかわりにおいて『利成らずば早起きは無駄』というサタンの法則を生きているわ。私たちの言動はすべて個人的な利益のため。平気でウソをつき、人をだます。善人であることの意味を知らない。でも、こんにちの神への信仰は違う。神は人に、誠実になり、真実を語り、正直に振る舞うこと、あらゆる言動に対する神の吟味を受け入れること何も隠さず公正・公平であること、神や人を欺いたりだましたりしないことを求めている誠実な人だけが本当の人間らしさを持ち、神に証しをし、神をたたえられる」。神の御言葉から、神は誠実な人間を好まれることを学びました。神の要求に沿って行動しなければなりません。私は兄弟姉妹にウソをつかずに正直に話す練習を始めました。でも商売となると、まだ不安だった。兄弟姉妹の前で誠実な人間であることを実践するのはまだ簡単だけれど、商売で実践するとなると、稼ぎがかなり減ってしまう。店が潰れるかもしれない。でも以前のように人をだまし欺き続けていると神の御心に反するのでは? 私はどうすべきだ? じっくり考えた末に、妥協点を見いだしました。教会では誠実な人間でいて、店ではこれまでと変わらない商売をするというものだ。

ある日、年配の男性が「画面が暗い」とテレビを持ってきました。調べると、カラー管が劣化していて、取替が必要だった。でも客には正直に言わず、ただフィラメントの電圧を上げておいた。そうすればしばらくは使えるが、また同じ問題が生じる。そのときに取替修理を行えば、30元多く儲けられる。2週間後、本当にそのテレビが故障し、男性が「ちゃんと直せていない」と修理するよう言ってきた。私は、「カラー管が劣化してるので取り替える」と説明した。だが驚いたことに、彼は私の手口を見抜いていました。修理代から30元を差し引いて、私をたしなめるように言ったんだ。「若者よ、商売には誠実さが求められる。欲張りすぎるな」。そのときは気まずくてたまらなかったけど、深く考えず、気にしなかった。そのあと、今度は年配の女性が壊れた電子レンジを持ってきた。レンジ内の小さな部品の不具合だった。該当部分を直して、適正な料金をもらおう。そう考えたけど女性がかなり裕福そうなのを見て思った。少し多めにもらっても大したことはない。もらえるものはもらわないとでも数日後、彼女がまた店に来て言ったのです。「不当な金額をふっかけたわね。良心を持ちなさい。神は私たちの行いを見てるわ」。女性に叱られ、ひどく落ち込みました。男性客の言葉をまた思い出し、とてもつらかった。そして気づいた。神が私に反省させ、自分を認識させるために周りを使って警告しているのだと。

そのあと、こんな神の御言葉を読みました。「物事の大小を問わずあなたが何をしていようとも、あるいは、それを行なうのが神の家における本分を尽くすためなのか、それとも自分の個人的な理由のためなのかを問わず、自分のしていることが神の旨にかなうかどうか、人間性をもつ人がすべきことなのかどうかを考えなければなりません。自分が行なうすべてのことにおいてそのように真理を求めているなら、あなたは真に神を信じる人です。すべての物事、すべての真理をこのような形で真摯に扱うなら、あなたは性質の変化を遂げることができます。中には、何か個人的なことをするとき、真理を無視し、自分の好きなように、そして自分が幸せになれるよう、自分にとって有利になるようそれを行なう人がいます。そのような人は、それが神の家にどう影響を与えるかをまったく考えず、自分の行なっていることが聖なる品性にふさわしいかどうかも考慮しません。最終的に、ひとたび物事を済ませると、その人の内面は暗くなり、不快さを感じます。しかし、なぜそうなるのかはわかりません。これはその人にふさわしい報いではないですか。神に認められないことを行なえば、神に背いたことになります。真理を好まず、自分の意志にしたがって頻繁に物事を行なうのであれば、その人はたびたび神に背くことになります。通常、そのような人は自分の行ないを神に認めてもらえず、悔い改めなければ懲罰が待ち受けているでしょう。」「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなた方は今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました」(『キリストの言葉の記録』)。この御言葉を読み、神の霊がすべてを見ていることを心から感じました。心の奥底にある感情を誰にも話したことはなかったのに御言葉はそれを完全に明らかにしていた。御言葉から分かりました。神は私たちに心をささげるよう求めている。神の家で本分を尽くすときも、個人的な事柄に従事するときも、御言葉を実践しなければならない。でも私は生活において真理を実践する場面を選んでいました。教会では、誠実であることを進んで実践できた。私の実践を、神も兄弟姉妹も望んでいると感じたからだ。でも商売となると「稼ぎが減ってしまう、自分の得にならない」と考え、実践しなかった。私は個人的な利益しか考えていなかったのです。神の御言葉と要求を無視していました。だます行為は神の御心に沿わないと分かっていたのに自分の願望のままに動いていた。自分の都合のいいように動いていたんだ。それで信仰のある人間だと言えるだろうか。心から理解しました。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「人は財の為に死す、鳥は食の為に亡ぶ」これらはサタンの生存の法則で、私を牛耳り、私のいのちになっていたのです。その法則に従って生きなければ、とても生活できないと考えていました。でも実際はそのとおりに生きると、個人的な利益や物質的な喜びが得られるだけ。卑劣な生き方で、尊厳のかけらもない。私は人から反感を買い拒絶され、神からはさらに忌み嫌われました。主イエスの御言葉を思った。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイによる福音書 18:3)。全能神はこう言っています。「なぜなら、わたしは自分の敵と、邪悪の臭気を漂わせながらサタンの姿をしている者たちを、わたしの国に連れ込むことも、次の時代に導くこともできないからである」(『言葉は肉において現れる』)。神は聖く義であり。そして誠実な人を得たいと思っておられる。いつもウソをつき、欺く人々、サタンの性質を抱き、神に抵抗する本性を持ち、悔い改めない人々は神に滅ぼされます。神の国には決して入れない。私がまだ悔い改めずにサタンの哲学と法則を生き続け、よこしまに不正行為をしていたら最後には排除されるはず。そう思い、すぐに神に祈りました。「全能神よ、あなたを信じているのに、心にあなたの居場所がなく、今もサタンの法則を生きています。これ以上、ウソつきでありたくない。悔い改め、誠実な人間になりたいのです」。

しばらくして、2人の若者が修理のためにテレビを持って店に来ました。その修理中、彼らがひそひそと外で話しているのが聞こえた。「あの店が役立たずだと分かってたら2日間も無駄にしなかった。この店なら直せるか見てみよう」それを聞いて思いました。「他の店が聞いたら、絶好のカモになる客だな。20から30元余分に請求しても軽いもんだろう。舞い込むお金をいただかないなんてもったいない。誠実な人間になるのは次からでいい。1回くらい真理を実践しなくても、神はこだわらないだろう」。しかしそのとき、神の前での決心を思い出し、神の御言葉を思ったのです。「真理を好まず、自分の意志にしたがって頻繁に物事を行なうのであれば、その人はたびたび神に背くことになります。通常、そのような人は自分の行ないを神に認めてもらえず、悔い改めなければ懲罰が待ち受けているでしょう」(『キリストの言葉の記録』)。これは神からの警告だと思いました。分かっていて不正なことはできない。悔い改め、誠実な人間にならなければ。そして修理を終えると、通常の料金をもらいました。2人のうれしそうな笑顔を見ると、隠し立てせずに公正・公平であることは、何にも縛られない生き方だと感じた。

ある女性客のテレビを直したときのこと。修理代は50元だったのに、女性は100元を渡して、お釣りはいらないと言った。私は断ってお釣りを返したけれど、戸惑いました。なぜそんなに気前がいいのだろう? すると女性はこう言いました。「最初に行った店では壊れた基盤の交換に400元かかると言われたので断ったの。そのあと知り合いに、この店を勧められた。あなたは誠実で客にふっかけたりしない。そう言っていた。その話は本当だったようね」。それを聞いて思った。「これは私が善人だからじゃない。人間らしく生きられるよう、神の御言葉が私を変えたのだ」。

御言葉を読み、誠実な人間であることを実践すると私の物事に対する見方も変わりました。以前は誠実な商売人などありえないと考えていた。稼げず赤字経営に陥り、閉店に追い込まれてしまう。でも神の御言葉に従って誠実でいるようになると、赤字にならないばかりか、1日の来店者数が増えた。随分遠くから来てくれた客もいました。そしてどの人も、誰かに勧めてもらったと言うのです。私は何も宣伝したことがありませんし、人に紹介を頼んだこともありません。ただ神の御言葉を実践し、神が求めるとおり正直に、誠実に生き、ただ正当に収入を得た。そのおかげで客の信頼を獲得したのです。これは本当に、真理の実践による神の祝福でした。この経験から、こんな神の御言葉を思いました。全能神は言われます。「人がサタンによる堕落の影響下でこの世に生きるとき、誠実でいることはできません。ますます不実になるだけです。しかし誠実になれば、この世に存在することはできますか、それともできませんか。他人によって端に追いやられるでしょうか。いいえ、以前と同じく生きるでしょう。なぜなら、私たちは不実さに頼って食べたり呼吸したりしているわけではないからです。むしろ、私たちは神から授けられた息といのちによって生きています。ただ、神の言葉の真理を受け入れ、生き方に関する新たな規則、人生の新たな目標をもち、それによっていのちの基礎が変化するということなのです。そして、生きる上での方法と手段が変化し、それによって神を満足させて救いを求めることができるのです。そのことは、私たちが物理的に何を食べ、何を身にまとい、どこに暮らしているのかとは絶対に関係ありません。それは私たちの霊が必要とするものなのです」(『キリストの言葉の記録』)。神に感謝します。

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