いのちの豊かさ
全能者である神の終わりの日の働きを受け入れてからの年月は、赤い大きな竜の抑圧の下で、妻と私は共にこれを経験してきました。この期間中、私は信仰が弱くなったり、辛くなったり、涙を流したりもしましたが、この抑圧を経験したことでたくさんのことを学んできました。この辛い経験は、私に赤い大きな竜の反動主義的な邪悪な本性と醜い顔をはっきりと見せただけではなく、私自身の堕落した本質も認識させました。さらに、これにより、私は神の全能性と知恵も経験することができました。赤い大きな竜を引き立て役として使うことにより、神の実際の素晴らしさを真に経験し、認識しました。これにより、神に従っていくことに対する私の確信が一層強固なものになりました。
神の終わりの日の働きを受け入れた後、神からの引き上げと祝福により、妻と私は自宅に仲間を迎え入れることにより本分を尽くしてきました。当時、私達とともに毎日数名の兄弟姉妹が暮らしており、そのメンバーは頻繁に入れ替わりました。そして、私達は、神の信者として地域では比較的有名でした。2003年の冬、赤い大きな竜の抑圧はより厳しくなってきました。ある日、私達のリーダーが次のように言いました。「警察があなた方に目を光らせています。あなた方はここにいてはなりません。荷物をまとめてここを出て、本分を尽くすべきです。」この突然の采配に直面し、私はショックを受けました。そして、次のように考えました。この瓦屋根の家は、私が一生懸命に働いて建てた家で、まだ1年もここに住んでいない。こんな風にこの家を出ていきたくない!あぁ、神よ。もう数年ここに住まわせてください。そしたら出ていきます。別の場所で暮らすのは、自宅で暮らすほど便利でも快適でもありません。しかし、赤い大きな竜の抑圧について思いを馳せた瞬間、この家を売却したら、本分を尽くすためにここを離れることを決意しました。私達の新築の家を見て回ると、悲しみと胸の疼きが押し寄せました。この家から離れなければならないのは本当に耐えられないことでした。この時点で家を売らなければならないのはとても不運だと感じました。肉の損得に頭が一杯で、決断しかねていた時、神の言葉が耳の中に響くのが聞こえました。「アブラハムはイサクを捧げた。あなたがたは、何を捧げたであろうか。ヨブは全てを捧げた。あなたがたは、何を捧げたであろうか。極めて多くの人々が、真の道を追求するために、いのちを賭け、首を差し出し、血を流してきた。あなたがたは、そうした代償を支払ったであろうか。それに比べ、あなたがたには、そうした大いなる恵みを授かる資格が無い。」(『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」〔『言葉』第1巻〕)神の言葉は両刃の剣のように私の心臓の中心を貫きました。私は信じられないほど恥ずかしさを感じました。その通りでした!神の要件を満たすには、アブラハムは愛する者と別れ、一人息子を燔祭で神に捧げるという大きな痛みに進んで耐えました。サタンと神が賭けをした時、ヨブは財産と10人の子供を全て失っても、ヤーウェを讃え、賛美することができました。最期の時でさえ、友人や家族に見捨てられ、病に侵されるという試練に苦しむ中でも、自身の誕生日を呪い、神のせいにすることはありませんでした。彼は揺るぐことなく、断固とした神の証を立て、サタンは屈辱的な完敗を喫しました。また、いろいろな年齢の聖徒と預言者もおり、神の心を実行するため、若さや結婚を犠牲にした人もいれば、家族や親族、財産を諦めた人もいました。さらには、神の働きのために自らの命を犠牲にし、血を流した人さえいました。…しかし、私と言えばどうでしょう。何世代もの聖徒が経験したことのないような貴重な救いの恵みや、神から授けられたいのちに対する豊かな言葉を受けながら、神のために何を犠牲にしたというのでしょうか。私は神に何を提供してきたでしょう。教会は、赤い大きな竜の抑圧と追及のため、彼らの掌中に落ち、残酷な迫害に苦しまないよう、家を離れるよう命じました。これは、神の私達に対する偉大なる愛であり保護でした。それにもかかわらず、私は善悪の区別もつかず、神の真摯な意図にも無関心でした。私は自分の安全のことすら考えておらず、ひたすらに、瓦屋根の新築の家への憧れと肉の喜びについて考えていただけでした。私は、神の采配に従おうとしていませんでした。私は欲にまみれ、いのちよりも、金銭に目がくらんでいました!今日、私は、自分の安全のためであっても、自分の家を離れたくありませんでした。神への捧げ物として私の個人的な関心事に背を向けなければならないならば、神の働きのために私のいのちを犠牲にしたり、血を流したりしなければならないなら、自分の命と同じくらい金銭を愛する、心が狭く、自己中心的で卑しい私のような人間が、どうして神のためにこの犠牲を進んで払うことができるだろうか。その地点に到達するだいぶ前に逃げ出すのではないだろうか。私は、「私はペテロの足跡を辿り、神を愛する第一人者になる心づもりがあります。」「私は自分自身の個人的な利益や損得を考えずに、何でも犠牲し、何でも使い果たすことができます。」「私は神に満足していただきたいだけです。」などを偉そうによく話していた自分自身のことを思いました。しかし、現実の状況を目の当たりにし、自分の中のいかなる部分も、神に意識を集中していませんでした。私は自分自身に直接関係する利益のことのみを考え、肉の喜びのために、実に、神に交渉しようとしていたのです。そして、私は自問しました。「これこそが、神にお返ししなければならない愛ではないのか。」神は次のように言いました。「もしあなたが愛しているなら、あなたは喜んで犠牲にし、困難に耐え、わたしに味方するだろう。わたしのためにあなたの家族や、将来や、青春や、結婚などすべてを放棄するだろう。そうでなければ、あなたの愛は全く愛ではなく、欺きで裏切りである。あなたの愛はどんな愛だろうか。それは真の愛だろうか。偽りの愛だろうか。あなたはどれだけ捨てただろうか。どれだけ捧げてきただろうか。わたしはあなたからどれだけ愛を受けただろうか。あなたは知っているだろうか。あなたがたの心は悪と裏切りと欺きで満ちている。」(『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」〔『言葉』第1巻〕)私は神の前で誓いを立てながら、それを守っていませんでした。これは神を騙し、神を欺こうとしているのではないでしょうか。こう考えた時点で、私は神の前にひれ伏し、祈らずにはいられませんでした。「あぁ、全能者である神よ。私は、かつて、いかなる苦難にも愚痴を言わず、何人でも兄弟姉妹を進んで引き受け、それは神への私の愛の表現の1つであると、常に考えていました。しかし、ようやく今となり、いわゆる私の愛は条件付きのものであり、選択的なものであったという事実の現れをはっきりと見ることができました。これは、全て渡しが欲していることを前提としたもので、それは、快適な環境でのみ存在していました。しかし、神が私に肉の苦難を耐え、私自身の関心事を妥協することを求めた時、私の『愛』はさっと消滅しました。このことから、私は実際には神を愛しておらず、真理に対する恩義に対して全く本分を尽くしておらず、神の愛に報いるのに出し渋りさえしており、その上、私が支払った少しばかりの金額を使って、素晴らしい祝福を受けるための交渉をしていました。私は本当に、完全な日和見主義者で、身勝手で、卑劣で心の狭い人間です。私は、神の前で生きるのに適しておらず、神が私の人生にもたらしてくださった全てを受け取るのに適してさえいません!あぁ、神よ。私はもう神を欺いたり、神に反抗したりして、神を傷付けたくありません。私は、自分の個人的な利益を脇に追いやり、神の調整や采配に従い、誓いを守りたいと思います。」
その後、私はあの新築の家を売却するために全力を尽くし、別の土地で二間のアパートを購入しました。前の家とは比べ物になりませんが、電話と暖房設備があり、交通の便が良いものです。このアパートに大変満足しており、そこで、私達は兄弟姉妹を受け入れる本分を再開しました。あっという間に2004年の春になっており、共産党警察は、再び私達に疑いの目を向けるようになっていました彼らは2名のスパイを私達のところへ送り込みました。彼らは、占い師を装って情報を引き出そうとしました。神の啓示とリーダーシップにより、私達は彼らの計画を見破り、神の知恵に頼って、彼らを追い出しました。教会はそのことを知ると、私達の働きを中断させました。私達の環境を守るため、別の仕事を探すように命じました。その時以来、私達は兄弟姉妹とはほとんど連絡を取りませんでした。6ヶ月が経過し、地域の状況は一層厳しくなってきました。ある日、ユダが私達を売ったので、赤い大きな竜の掌中に落ちないようにできるだけ早く引っ越す必要があるいう通知を教会から受け取りました。神の家からのこの采配を目の当たりにし、この時、私は従うことを選択し、赤い大きな竜への憎しみが心の中で燃え上がりました。赤い大きな竜の「市民には宗教の自由があり、市民の正当な権利と関心は守られる」という宣伝文句を聞き、教会があちこちに建設されるのを見た昔のことを思い出しました。私はこれを心から喜び、素晴らしいと思いました。人々の心を掴んだと感じました。しかし、今日、現実に直面し、私はようやく本当にはっきりと、赤い大きな竜の醜い顔を見ました。その謀略を見破ることができました。彼らの宣伝文句や上辺の行動は全て嘘と偽りに過ぎず、全てプレゼンテーションだと知りました。これは全て、人を混乱させ、盲目にするための卑劣な手段であり、汚い手口でした。邪悪で冷酷、狡猾で詐欺的、対抗的で、神に対して反抗的、そして全く反動的なものでした。これは、人々を破滅させ、損害をもたらす悪魔だったのです!受肉した神は神の創造物である人類を救うために地上に降りてきました。これは正しく適切なことでした。これは、極めて喜びに満ちたものでした。しかし、赤い大きな竜は神が人々の中にいることを許さず、人々が神を賛美し、それぞれのいのちにおいて適切な道を歩むことを許しませんでした。それは、キリストを死に物狂いで狩るためにできることは全て行ない、神に選ばれし人々を残酷に迫害し、神の働きを邪魔し、破壊しようとしました。それは、神を追いやり、神に選ばれし人々を根絶し、神の終わりの日の働きを破壊しようとしました。これは、本当に完全に反動的で、天が容認し得ないことです!ちょうどその時、神の言葉が私の心に浮かびました。「宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。…なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。」(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)神の言葉を通して、私は赤い大きな竜の醜い顔をはっきりと見、神への抵抗、神への迫害、そして人々への損害と抑制をはっきりと理解することができました。いかに多くの兄弟姉妹が、抑圧と追及により、家に帰れずにおり、放浪者やホームレスとしての生活を余儀なくされているかを思いました。いかに多くの兄弟姉妹がその非道な拷問による破壊行為に苦しみ、いかに多くの兄弟姉妹が無実の罪で投獄され長く暗い日々を過ごし、神を信じ、本分を尽くしているというためだけに、その後、犬や豚でさえ住めないような独房の中で生きているかを思いました。また、いかに多くの兄弟姉妹が自由なく、全てを監視された状況で暮らしているかを思いました。彼らは本分を尽したり、教会で通常の暮らしをしたりすることさえできないでいます。今日、私達は神を信じ、仲間を迎え入れることは、私達が創造物として本分を尽くしているに過ぎませんでした。私達は責任を果たし、赤い大きな竜の法律や規則に違反したことは一切なかったにもかかわらず、私達は根拠のない非難や抑圧の対象になっていました。私達は、自分たちの本分を尽くすために、場所を変えていくことしかできませんでした。それにもかかわらず、警察は私達への追及を緩めず、私達を罠にかけ、迫害するための証拠を見つけることができると考え、何らかの情報を引き出すために占い師を装うことすらしました。赤い大きな竜は本当に計り知れないほどに邪悪で、不誠実で、卑劣で、悪意に満ちています!これを考え、私は一層強く義憤を感じ、赤い大きな竜に対して心の底からの憎しみで一杯になりました。神のお陰です!神の実際の働きと言葉が、赤い大きな竜の仮面を完全に引き剥がし、威厳の外観を纏った偽善の醜さを完全に露見させました。それまで盲目であった私の目がようやく開きました。私の霊が目覚め、赤い大きな竜は一般市民を騙すことによりその名を確立してきたという真実、そしてその欺瞞性と有害性という真実をはっきりと見ました。ですから、私は、これを断固として見捨て、拒否することに自信と決意を持ちました。何よりも、赤い大きな竜の卑劣な悪と裏暗い汚さと比べ、神がいかに義であり、神聖であり、光であり、善に満ちた存在であるかを一層深く理解しました。私は神の偉大なる救いと私達、堕落した人類への愛を見ました。環境がどれほど過酷であろうと、赤い大きな竜からの抵抗や抑圧がどのようなものであろうと、神は私達を救うことを諦めませんでした。神は神が行わなければならない働きを遂行するためにあらゆる苦しみにまだ耐えています。この汚らわしく卑劣な世界で、私達は神にのみ頼ることができます。神は私達が持つ最も偉大な愛、最も大きな救いであり、それにより、私達は、一生をかけて真理を追求し、キリストに従おうという強い願望と渇望を持ちます。私と分かち合うために、この悲惨な状況の中で私に正しい判断力と洞察が得られるよう、このようなご馳走を並べてくださった神に感謝します。これから、赤い大きな竜との関係を完全に断つことを、私のいのちにかけて誓います。私は彼らの仇敵となります。どのような迫害や追及が起きようとも、私は彼らの専制政治に怯えることはありません。私はしっかりと神のみに従い、神の導きに頼り、その闇の力の抑圧を突破し、神の救いという愛に報いるために、本分を尽くしていきます。
私達がそこに長居することはできない厳しい状況のため、私達は再び急いで別の見知らぬ土地へと引っ越していきました。新しい土地に着くと、神の家の1人の姉が、少数民族が暮らす地域があり、そこならば赤い大きな竜はあまり厳しく取り締まらないと教えてくれました。比較的許容できる環境でした。しかし、私の心は安心しませんでした。私は心の中で次のように考えました。「ここは、今、赤い大きな竜の治世であり、黒い雲が町を覆い尽くそうとしているかのようだ。それは、私達が安心して神を信じることを認めないだろう。」案の定、私達がそこについてたった20日で、赤い大きな竜のスパイが衛生維持費の徴収を装って私達の家にやって来て、私達の家の内外にいる人々を模索し始め、どこから来たのか、彼女の住居登録地はどこか、なぜこの町に来たのかを妻に命令口調で尋ねました。彼らのうちの1人は、いくつかの特徴を上げ、妻の夫はそのような風貌をしていないかと尋ねました。妻が「はい」と答えると、2人は互いに顔を見合わせました。彼らは私の顔を見ずとも私の風貌を知っていたことに、妻はその時気が付きました。私を売り、私の風貌について細かく説明さえしたユダがいたに違いありません。彼らがその場をサルト、私達の後ろの家に行きました。私達の近所の人々は彼らと協力しており、私達を監視していたと、その時気が付きました。私達はこのことを直ちに教会に報告しました。間もなく、教会の1人の姉が私達に次のようなメモを送ってきました。「地域警察があなた方の故郷の警察と連絡を取りました。彼らは、あなた方のように、通告者から名前が出された人々を拘束すると心に決めています。彼らは、予告なしに現場を訪れて状況をまず確認し、あなた方がどのような人物かを見、その後、時期を見計らってあなた方全員を一網打尽にします。あなた方は危険な状況にいます。山東省の故郷に戻り、そこで隠れてください。今すぐ引っ越しをしてください。一刻を争います。もたもたしていたらそこから逃げられなくなるかもしれません!」このメモを見て、私は軽くあしらうことはしませんでした。翌日引っ越すことに決めました。その夜、なかなか寝付けずに寝返りを打っていました。私は赤い大きな竜の狂気の迫害に信じられないほど怒りを感じただけではなく、先行きについて混乱し、やるせない気持ちも感じました。あぁ!当初は、神を信じることは簡単なことだと考えていました。言葉で神を認め、心の中で神を信じ、本分を尽くすために最善を尽くしていれさえいれば、神の称賛を得ることになると考えていました。これまで私が経験したいずれのものよりもこの道が困難になるとは全く想像していませんでした。神を信じることが辛い旅であるため、私が不安と悲しみを感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。本当の信仰を持てば、堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知るようになるだろう。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)私は沈黙のまま座り、神の言葉の意味を反芻していました。心の中で、私は徐々に気持ちが明るくなってきました。そうです。神への真の信仰とは、神が全てのことに対する実権を握っているということを信じた上で、神の言葉と働きを経験し、それにより、私達が堕落した性質から逃れ、神の願いを満たし、神を知るようになることだというのは真実でした。このような旅を通してのみ、私達は神を信じしていると言うことができます。これは、私がかつて考えていたように口で神を認め、兄弟姉妹と定期的に集まり、神の言葉を飲食し、自分の本分を尽くしてさえいれば良いというような、簡単なことでは決してありません。かつて私が考えていたような、この種の信仰は、漠然とした宗教的信仰に過ぎず、神を信じることの本質は含まれていません。最期までこのように従っていたとしても、神の心を満たすことも、神からの称賛を得ることも決してなかったでしょう。私は、ペテロのことを思いました。彼は神を信じる中で、神の言葉を経験するために、これ日々の生活に反映させました。何があろうと、ペテロ神の心と神が求めるものを満足させるために努力しました。それが裁きや刑罰であろうと、試練や精錬であろうと、苦境や苦しみ、鍛錬であろうと、彼は必ずそれを受け入れ、従うことができました。そこから、彼は真理を求め、自分自身そして神への理解を深めようとしました。何年にも及ぶ追求により、彼自身の性質が変わっただけではなく、年齢を問わず、他の誰よりも神について理解している存在となりました。ペテロの信仰は、神の心と最も一致しており、最も基準に近いものでした。一方、私は神を信じることがどういうものであるかをあまりにも簡単に考えていました。私は、定期的に兄弟姉妹と集まり、神の言葉を飲食し、自分の本分を尽くし続けてさえいれば、神の称賛を得ることができると考えていました。私の考えと、不信者や宗教的な人々の考えの間にどのような違いがあるでしょう。最終的には、これら全ては無駄なものではないでしょうか。この時になって初めて、私の長年の神への信仰が混乱に溢れたものであることを認識しました。神を信じることの本当の意味さえ知らなかったのです。神の現実的な黙示、神の言葉による啓示や導きがなければ、私は私自身の概念と想像に基づき、今でも神に従っていたことでしょう。未だに、我流で歩む、本当の宗教的信者であることに気が付かないでいたことでしょう。その時、少し怖さを感じずにはいられませんでした。神の働きを経験することや、真理を追求すること、または性質を変えることに意識を集中せずに、混乱した方法で神に従い続けていたら、最終的には、確実に、神から排除されていただろうということに気が付きました。私の危険な状況を見て、私は直ちに神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ!黙示と啓示を与えてくださり、ありがとうございます。これにより、真理を理解し、私の神への信仰が間違っていたと気が付くことができました。神よ!ペテロの行動をモデルにし、彼が歩いた道を追求していきたいと思います。今、私はこの道を選びました。ですから、道がどんなに不安定で、この先どれほど多くの危険が待ち受けていようとも、自身をもって進んでいきたいと思います。神を真に信じ、神を賛美する神の創造物となれるよう、自ら苦しむ意思を持ち、神の設計と采配に従い、神が私に求める通りに神の言葉と働きを真に経験していきたいと思います。」祈りを捧げると私の心はとても落ち着き、神の働きを経験する自身が湧いてきました。
次の日、私達は電車に乗り、山東省に向かいました。山東省の故郷で一定期間身を隠し、いくつかの妨げに遭遇した後、聖霊の導きにより、私達はようやく教会と連絡を取ることができ、教会での生活を再開しました。しかし、赤い大きな竜は私達への迫害の手を緩めていませんでした。私達がどこへ行こうとも、私達は常に制限と制約の対象となりました。警察は居住許可を確かめに頻繁にやって来ました。1日に2度やって来て、私達の居住許可は短期的なものであり、私達が自ら移動しなければ、彼らが私達を追い出すと断固と言い張ることさえありました。従って、引っ越しは私達にとって日常茶飯事となりました。その後、私達は教会の兄の息子が借り、この兄が迎え入れてくれた大きなアパートに引っ越しました。しかし、ここで、私達は短期的な居住許可に登録しなければならなかっただけではなく、出入許可も必要となりました。これなしでは、アパートへの出入りはおろか、引っ越すことすらできませんでした。私はこの家の中に隠れ、出かけることができませんでした。それでも、警察は諦めることはありませんでした。彼らは、頻繁に、一戸一戸回り、検査を行ないました。このことから、私達は、無神論の政党が支配するこの専制主義で不誠実な国では、神への信仰は、全ての面で鎮圧され、抑圧されることが分かりました。これは、本当に、静かな憤慨を育てました。特に、2008年のオリンピック開催中、状況は極めて厳しく、過酷なものでした。赤い大きな竜は罠を仕掛け、警察はあちこちに配備されました。一方、そのような状況下で、私達は神の全能さ、知恵、神の偉業、そして、神が全てを設計していることを目の当たりにしました。警察が検査しようとするたび、神の設計により、主門の門番は私達が事前に素早く準備し、隠れられるよう、私達の兄にその旨を教えてくれました。ある時、私達が集会をしているところに警察が抜き打ち検査を実施しました。表で犬が気が狂ったように吠え立てるのが聞こえました。検査官は中庭を乱暴に横切り、電気メーターを確認するようなふりをして、構内を隅々まで歩き回り、私達の兄を探し、捜索し、尋問し、脅しました。彼は、神の知恵を使い、彼らを退去させました。彼らが去った後、私達は全員恐怖を感じました。幸いなことに、うまく全員隠れることができましたが、私達や神の言葉が記載されている本が見つかっていたら、どのようなことになっていたか、想像もつきません。私の心に恐怖が残る中、神の次の言葉が耳の中に聞こえてきました。「あなたがたは、ある事柄が私の旨に則している限り、いかなる者や物事にも左右されること無く、それを私の言葉に従って実践する必要がある。あなたがたは、恐れてはならない。なぜなら、私の手があなたがたを支え、私はあなたがたを確実にあらゆる邪悪な者から守るからである。」(『言葉は肉において現れる』より)「あなたがたは、勇敢に行動する必要があり、うつむいてはならず、恐れてはならない。あなたがたの父である私が、あなたがたを支えているのだから、あなたがたは苦しまないであろう。あなたがたが頻繁に私の前で祈り、願うならば、私はあなたがたに全ての信念を与えるであろう。権力者は、外観が残忍であるかも知れないが、恐れてはならない。なぜなら、それはあなたがたの信念が少ないことが原因だからである。あなたがたの信念が強くなる限り、難しすぎる事は一切無い。あなたがたは、元気を出して、精一杯跳ぶ必要がある。あなたがたの足下には全てがそろっており、全てが私の掌中にある。成し得るか、滅びるかは、私のひと言で決まるのではなかろうか。」(『言葉は肉において現れる』より)神の言葉を読み、私は恥ずかしくなりました。その通りでした。この世の人、出来事、物事は全て、神の設計と采配によるものではなかったでしょうか。神の考えにより、これらは全て状況を変え、刷新され、変化があり、消え去るのではなかったでしょうか。赤い大きな竜も神の掌中にある創造物の1つです。いかに野蛮であろうと、神の支配を逃れることはできません。神が破壊したければ、神がそう言えばいいだけではなかったでしょうか。神はまだこれを破壊していません。神は暫くの間その残忍に振る舞うのを認めています。これは、私達に自信と勇気を持てるようにするためです。これは、私達が経験を通して神の知恵、全能さ、偉業を知ることができるようにするためです。また、これにより、私達は赤い大きな竜が抑圧する際の邪悪で反動的な性質と醜い顔をよりはっきりと認識し、私達がこれを憎み、拒否し、背を向け、心の底から嫌悪できるようになります。神の言葉の導きとリーダーシップにより、私はもはや臆病になったり、恐れたりすることがなくなっただけではなく、神への感謝で一杯になりました。この環境に従順に従い、赤い大きな竜と闘い、神自身による訓練と完璧さを受け入れ、真理をより深く理解したいと思いました。その後数ヶ月、地元警察は私達が準備できないよう、毎月2、3回の抜き打ち検査にやって来ました。しかし、これらの酷い状況にもかかわらず、神の愛と保護により、彼らに見つからずに、何度も逃れることができました。いつももう少しで見つかりそうな状況でしたが、いつも辛うじて逃れることができました。これらの経験の後、心の奥底で、神に真の感謝を感じ、神を讃えずにはいられませんでした。そして、次のように考えました。「あぁ、全能なる神よ!神は本当に、全てのものを支配する万物の主です。神の偉業はあらゆるところにあり、私の実体験を通して、神の全能さと知恵の片鱗を垣間見ることができただけではなく、神が私の最強のサポーターであり、避難所であること、そして、赤い大きな竜は張子の虎に過ぎないことが分かりました。見かけは爪や牙があり、酷く横柄ですが、神に直面すると、とても弱く、無力です。神からの一撃に出さえ耐えることはできません。神の采配と設計に従順に従うことしかできません。自信がある限り、私は全ての闇の力に勝つことができます。神よ!私は、今、悪魔が支配する国にいますが、これからは、いかなる人や出来事、物事にも制約を受けません。闇の抑圧からただただ奮起し、この汚らわしい場所から立ち上がり、神の勝利の証を立てます。」
赤い大きな竜の追及がある酷い状況の中、全能者である神の言葉が次々の試練をくぐり抜けさせ、私がサタンからの試験に何度も勝利する手助けをしてきたという揺るぎない経験があります。今日、私がこうしてここにいるのも、神の偉大なる愛と保護のお陰です。これまでの道程を振り返り、私は赤い大きな竜の抑圧と追及に苦しみ、家に帰れず、転居を余儀なくされ、放浪者の生活をし、世俗的な人々が持つ「温かい我が家」を持つことも、彼らのように気楽にのんびりとした生活を送ることもできませんでした。赤い大きな竜の抑圧により、私の心は大きな苦しみと痛みに耐えてきました。しかし、これらの苦い経験を体験したことにより、私は年齢を問わず他の誰も得ていない、いのちの豊かさを得ました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私自身の身勝手さや卑しい本性を認識することができました。私が本当に神を信じていなかったことや、本当に神を愛していなかったことも分かりました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私は、その不誠実で、卑しく、邪悪な本性を認識しました。試練を通して、神の義、誠実さ、光、善良さをより深く理解することができました。赤い大きな竜の抑圧を経験したことにより、私は自分自身の漠然として不確かな信仰を認識し、神を信仰することの本当の意味とその価値を理解しました。また、抑圧を通して、神の知恵と全能さ、神の偉業についてより深く理解し、神に敵対する赤い大きな竜の残酷で、邪悪で、反動的な本質を見抜くことができました。これが、人々をいかに堕落させ、騙し、傷付けるかをはっきりと見ました。このことから、赤い大きな竜に対する深い憎しみが強くなりました。私は、神の言葉に頼り、サタンの堕落した性質を排除し、赤い大きな竜に完全に背を向け、本物の人間として生き、神の心に満足していただけるようになりたいと思います。このようないのちの豊かなご馳走を個人的に味わうことができたのは、神の現実の働きによるものでした。これは、赤い大きな竜により長い間盲目にされてきた私の心を目覚めさせただけではなく、とても多くのいのちの豊かさを私に理解させました。そして、気付かぬうちに、私は神への信仰の正しい道を歩み始めていました。私は心から感謝し、全能の神を称賛します!
山東省 王君
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