母が刑に服すとき
母と私が一緒に家を出た時、私は15歳でした。2002年のある深夜に家を出たんです。母が突然声を潜めて、自分を捕まえるために警察が来ているから、この家にはいられない、すぐに逃げようと言いました。必死で身の回りの物を鞄に詰めて、急いで家を出ました。それから、母も私も家には帰っていません。だから私を連れて行かなかったんです。私を親せきの家に預けて、自分は他の町に身を隠しました。母がまだ仕事をしている時に、その親戚たちをかなり助けたのに、私たちが困っていても、自分たちの身の安全を心配して、関わろうとしなかった。私を預かることを渋って、母に冷たくあたる人もいました。家を失い自分の子の面倒も見られなくなったのは、信仰のせいだと。逃げるなら子供も連れて行けと。みんなが母を誤解していて、本当に腹が立ちました。これはどう考えても警察のせいです。母のせいじゃありません。すぐに逃げ出したかった。1分たりともそこにいたくなかった。母に早く迎えに来てほしい、そう思っていました。母と初めて離れた時は、とても大変でした。頼る人が誰もいない気がして、本当に辛かった。私はひとり親の家に育ちました。私がまだ3歳の時に、両親が離婚して、母と2人で生きてきました。離れたことなんてなかった。もう母は私の面倒を見ることができないんだと思うと、涙が溢れました。悲しくて希望を持てない時は、こんなふうに神に祈りました。「神よ! 母は私の面倒を見ることはできません。どうか私を助け、強い心を与えてください」と。祈りの後、こんな御言葉を読みました。「恐れてはならない。万軍の全能神が必ずあなたと共にいる。全能神はあなたがたの後ろに立ち、あなたがたの盾となる」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)。「勇敢に前進しなさい。わたしはあなたの力の岩である。だからわたしに拠り頼みなさい」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉によって心が晴れました。母はもう私のそばにいないけれど、神が私の後ろにいてくださるから、私は神に頼れると。この困難に負けるわけにはいかないし、母に頼るわけにもいかない、強くならなければ。どれほど苦しい状況でも、困難な状況でも、神に頼り耐え忍ぼうと思いました。その後、張姉妹の家で暮らし始めました。家族3人が全員信者なので、血のつながりはなかったけど、とてもよくしてくれて、張姉妹の娘さんは私に御言葉を読み、真理を交わってくれた。母がそばにいないかもしれないけど、寂しくはありませんでした。兄弟姉妹と一緒に居られてうれしかった。
あれは2003年でした。母は別の町で福音を広めていて、ある日、手紙をくれたんです。私に会いたいからと、落ち合う場所と時間が書いてありました。手紙が来たことが、本当にうれしくて、その夜は眠れませんでした。約束の日、私は指定の場所に時間通りに着きました。でも1時間待っても、母は姿を見せません。ポケベルを数回鳴らしても、返事はありません。結局、正午から夜の8時まで待ちましたが、母は現れず、気落ちすると同時に、母に何かあったのではと心配になりました。次の日、指導者に言われたんです。前日に8人の兄弟姉妹が福音を広めている時に逮捕され、その1人が母だと。母との連絡用のポケベルをすぐに廃棄するように指示されました。それを聞いて心配でたまらなくなりました。何度も神に祈りました。母の身の安全を守り、証を立てられるようにお助け下さいと。その間、母のことを思うたびに、涙があふれてとまりませんでした。今頃殴られてるんじゃないかしら、拷問されていないかしら、牢屋で辛い思いをしているに違いないわ。一体いつになったら釈放されるのかしら? そんなふうに心配しすぎたせいか、ある日突然気を失ってしまいました。しばらくして意識が戻り、壁を支えにしてゆっくりと自分の部屋にたどり着くと、ベッドに横たわり、自分の孤独と無力さに涙を流しました。人生のどん底に居た時、私を導いてくれたのは神でした。ちょうど、この賛美歌が頭に浮かんだんです。「私の精錬の間、あなたは私のために心を痛める。あなたの言葉は私に欠けているものを与える。悲しい時、あなたの言葉は私を慰める。……」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の愛が私の心を溶かした」)。これが神のお導きだとはっきりとわかりました。すぐに気づきました。私は一人じゃない、神がそばにいて下さると。赤い大きな竜の迫害のせいで母は私と一緒にいられず、私の面倒を見ることも、なぐさめることもできないけど、神はそばにいて下さる。一番辛かった時、神は私のそばにいて、なぐさめて下さった。神の存在をすぐ近くに感じて、私が心から頼れるのは神だけだとわかりました。そして思った。「神がこのように私を導いてくださるなら、辛いを思いしている母のことも助けて下さるに違いない」って。そう思うと、少しだけ元気が出て、母への心配が少し和らぎ、思いつめることもなくなりました。その後、母に会うことができたんです。4か月も拘留された母は、知人のコネを使ってようやく釈放されました。母に会った時、母は私をとても心配してたくさんのアドバイスをくれ、互いに交わり、励まし合いました。そしてこれから自分たちの身に何が起ころうとも、神に従い本分を尽くすことを、固く約束しました。
あれは9月でした。母は違う都市で福音を広めていました。重要な本分を尽くしていた姉妹が逮捕されて、その姉妹と接触した多くの人に危険が迫り、住処を移したと聞いたので、その姉妹とは、一体誰だろうと考えていました。すると指導者からこう言われました。母との連絡に使っていたSIMカードを破棄しなさいと。その時に、逮捕された姉妹というのは母だったと悟りました。神の御言葉の書籍を印刷していたというのが逮捕の理由で、厳しい暴行と拷問を受ける危険がありました。数日の間、とても心配で、夜も眠れませんでした。そしてそれから間もなく、すでに20人以上の兄弟姉妹が逮捕され、全員が拷問を受けたと知りました。この話を聞いて、もっと心配になりました。母もその時に拷問を受けたのかしら? 母は生きているのかしら? 母が命の危険にさらされているのに、私には心配することと焦ることしかできない。本当に辛くて苦しくて、思わずこう考えました。母があんなに危険な本分を尽くしていなければ、逮捕され、拷問をうけることはなかったかも。中国で神を信じることは、本当に難しく、危険です。その時、私は心が弱くなって、雑念にとらわれ、途方に暮れ、何をする気にもなれず、気力もなくなり、本分にも身がはいりませんでした。毎日、ひたすら神に祈り母を守ってくださるようお願いしました。
ある日、この一節を目にしました。「ヨブが山々を埋め尽くすほど多くの家畜や膨大な量の財産を失い、その体が腫物で覆われたのは、彼の信仰のためだった。彼がわたしヤーウェの声を聞き、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰のためだった。ペテロがイエス・キリストに付き従うことができたのは、ペテロの信仰によるものだった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、栄光ある証しとなることができたのも、彼の信仰によるものだった。……人は信仰ゆえに多くのものを受けた。受けるのはいつも祝福だとは限らない。ダビデが感じたような幸せと喜びを受け取らないかもしれず、モーセのようにヤーウェから水を授からないかもしれない。例えば、ヨブは信仰ゆえにヤーウェによって祝福されただけではなく、災いも受けた。祝福されようが、災いを受けようが、どちらも祝福された出来事である。信仰なくして、この征服の働きを受けることはできず、ましてやヤーウェの業が今日、目の前で展開するのを見ることなどできない。見えないであろうし、ましてや受けることなどできはしない」(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。思ったんです。「そうだわ、祝福を得るか、災害に苦しむか、すべては神の手にある。信仰で直面する困難や試練は、神が私たちを高め、試しているということ」。ヨブだってそうです。ヨブが誘惑に乗るか賭けようと神に持ち掛けたサタンは、ヨブの子供たちと家畜を奪い、その体にひどい皮膚病を与えます。神を否定し、捨てるよう仕向けたのです。神はこの状況を使ってヨブを試し、その信仰を完全にしようとしました。ヨブは神を責めなかったばかりか、神を称えてこう言いました。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。ヨブは神の証を立て、神の称賛を得て、神の声を風の中に聞きました。その結果、神への信仰がより真(まこと)のものになり、さらに大きな神の祝福を受けました。そう思うと母が赤い大きな竜に痛めつけられているのは、一見災いのようにみえて、実際は私たちを試し、私たちの信仰を完全にする神の手段、神の昇栄だったのです。そしてその時突然、今まさにサタンが私を見つめていて、神が私の出方を待っているのだと気が付きました。母が逮捕されたことで私が神への信仰を捨て、神を否定し裏切るかどうかが試されていました。その時に思いました。私は神のそばに立ち、神を責めることも、裏切ることもせず、本分を尽くして神を喜ばそうと。神の御心を知ったあとは、母のことを過度に心配したり、不安に思うことを止め、神の采配と取り計らいに従おうと思いました。
労働を通しての再教育2年と言い渡されました。それを知った時はとてもショックでした。2年もの長い時間、環境も劣悪で食事も粗末な刑務所で、毎日労働しなければならない。そんな地獄ような生活と、非人道的な扱いの中で、母は生きのびれるの? もう50すぎの母が、そんな体でこれ以上の拷問に耐えることができるの? そんなある日、この御言葉の一節を読みました。「産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の本分を尽くし始める。あなたは神の計画のため、神の定めのために自分の役割を果たして、人生の旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである」(『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉でわかりました。一人ひとりの人間に生きるうえでの役割と目的があり、人の人生がどうなるかは、はるか昔に神に決められているのだと。母には母が果たすべき役割があり、終わらせるべき使命がある。2年もの刑務所生活は確かに長いけど、それは母がたどるべき道。母の身体がどうなるか、どれほどの苦しみに晒されるかは神次第。母が赤い大きな竜に迫害され、逮捕され、投獄されることを神はお許しになった。それは母を試すため。母は神から証を立てる機会を与えられている。光栄だと思うべきでした。そしてこの状況は私に大切なことを教えてくれました。それは、辛いことがあっても神に恨み言を言ったり、責めたりせず、従順に、本分を尽くす必要があるということです。神の御心を理解した私は、神に祈りました。母は神の手の中にいます、どうか刑務所で証を立てられるよう母をお守りくださいと。
それから1年半後、母が早期出所したと聞いた私は、母に連絡を取りました。警察の追跡と監視を逃れるため、サウナで落ち合うことにしました。その日、私は1時間早く到着しました。期待に胸がふくらみ、心臓がどきどきしました。母に会えるのがうれしくてたまらなかった。入り口から目を離さずにいると、窓越しに、やせこけた中年女性の姿が見えました。彼女が中に入り、娘が待っていると係員に言っているのを聞いて、思いました。「あれはお母さんの声じゃない?」すぐに気づかなかったんです。声を聞かなければ、きっと母だとわからなかったと思います。以前の母は背が高くすらっとして、優雅さがありました。でもその時の母は、かなりやせて背筋も曲がっていました。以前の面影もなかった。私は母の方に走って行って大声で言いました。「母さん!」振り向いた母を見ると、その顔は、本人だとわからないほどにひどくやつれていて、顔色は悪く、憔悴しているように見えました。その目には生気がなく、まるで過度の刺激を与え続けられたようでした。そんな母の姿を見て、崩れ落ちそうになりました。刑務所で想像を絶するようなひどい目に遭ったに違いありません。私には考えることすらできず、涙があふれて止まりませんでした。母は私の隣に座ると私の手を固く握りながらこれまでどうしていたかと私に聞きました。刑務所では私のことが一番気がかりで、よく私のために祈った、私が耐え切れずに神に背いてしまうことが怖かったと言いました。私がまだ神を信じ本分を尽くしていると知って、母は嬉しそうでした。着替えている時、母のやせこけた体を見て、胸が痛みました。振り向いた時に、母の左の鎖骨に傷跡が見えました。傷は黒ずみ、まるで折れているかのように骨の真ん中がくぼんでいました。そんな母の姿をまともに見ることができませんでした。涙に喉を詰まらせながら、聞きました。「この傷跡はどうしたの? 警察に殴られたの? まだ痛い?」と。母は私に心配をかけまいと、大丈夫、もう治ったわと言いました。それから数年して、母が逮捕後にひどい拷問を受けていたこと、訓練を受けた警官が肩を30回も殴ったので、多くの骨が折れて粉々になり、左肩を脱臼し、多くの椎骨がずれてしまったと聞きました。神の御加護のおかげで、母は奇跡的に回復し、折れた骨もすべて元通りになりました。刑務所の医師も、回復の速さに驚いたそうです。
それからすぐまた離れ離れになりました。母は釈放の身でまだ警察が監視をしている可能性があるから、私の安全のため、もう少し離れている必要があったんです。その時は、とても辛かった。母のそばにいて、身の回りの世話をしてあげたかったのに、赤い大きな竜の迫害のせいで、娘としての責任すら果たすことができず、ひどく心が痛みました。家に帰る道すがら、母のやせこけた体や鎖骨の傷が私の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えていきます。その度に、私は新たな苦しみを抱えました。警察がどのように母を拷問したのか、暴行したのか、想像することもできず、腹の底から怒りを感じました。赤い大きな竜は本当に残忍で邪悪です。するとこの御言葉が頭をよぎりました。「肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議ではない。悪魔が残忍非道をはたらく暗黒社会において、眉一つ動かさずに人々を殺す魔王が、愛しく優しく聖い神の存在をどうして容認できようか。どうして魔王が神の到来に喜び喝采を送ることができようか。卑屈な者ども。彼らは恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、良心にすっかり逆らい、純真な人々を誘惑し無分別な状態に陥れる。遠い昔の祖先とは何なのか。愛すべき指導者とは。彼らは皆、神に反抗している。その干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられている。宗教の自由だと。市民の正当な権利と利益だと。そのようなものはどれも罪を隠蔽する手口である」(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)。赤い大きな竜の、残酷で、神に逆らう、悪魔的な本質がはっきりとわかりました。ただ神を信じているというだけで、警察は中年女性にひどい暴行を加えたのです。人の生死など意に介さない。本当に腹が立ちました。人は神が創造されたのだから、神を信じ、崇めるのは当然のこと。でも赤い大きな竜は容赦なく拷問と暴行を行い、人が神を否定し、裏切るよう仕向けている。卑しくて残忍な悪魔です! 以前は政府の高官も警察も、みんな善人だと思っていました。赤い大きな竜の迫害を受けて初めて、市民には法的権利と信仰の自由があるという彼らの言葉は、すべて嘘いつわりだとわかった。気が狂ったかのように信者を逮捕、迫害、拷問、暴行し、全員を殺そうとしているのです。神に逆らう悪魔に他なりません。心の底から憎らしいです。私は自分の心を神に預け、神に従い、本分を尽くしたいです。
2013年、母はまた警察に逮捕されました。はじめは心配しました。「またひどい拷問を受けることになるのでは? 懲役刑になってしまうかしら? また刑務所暮らしなんて、体は耐えられる?」そう思った時、すぐに気が付いたんです。母の逮捕は神がお許しになったことだから、それに従い神の御心を探るべきだと。この御言葉が思いうかびました。「あなたがたは、自分に与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分たちのためになされた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の勢力の抑圧を打ち破る。あなたがたは、闇のただ中にあっても、自分たちを導く光を絶対に見失いはしない。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の大衆の中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって固く、揺るぎなく立つ。あなたがたは耐え忍ぶ苦しみを通じて、わたしの祝福を相続する。そして必ずや、全宇宙にわたしの栄光を輝かせる」(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十九章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉でわかったのは、母が再び逮捕されたのは神がお許しになったことで、神は私たちの信仰を完全にし、真理を与えるために赤い大きな竜の迫害を利用しているということ。私たちが神の証を立てられるように。そして兄弟姉妹の交わりで、何度も逮捕された信者は、共産党の刑務所に入れられても、サタンの暗黒の力に縛られないと聞きました。何度逮捕されても、神を信じ続け、出所時には本分を尽くし、自由と解放感を感じるそうです。それは神の救いでした。神の御心が分かると、心が落ち着きました。そして母のために神に祈りました。母が赤い大きな竜の力を恐れることなく、神の証を立てられるようにお助け下さいと。今回はどのくらい離れ離れになるかわからなかったけど、心は落ち着いていました。すぐに、本分を尽くすことに集中できたのです。
後で母に言われたのですが、警察が母の前科を確認しようとしたところ、おかしなことに何も記録になかったそうです。母は、過去の2階の逮捕で、神が苦しみの中を導いてくださり、奇跡の御業をなさるとわかっていました。神の全能の統治についてより深く理解し、神への信仰も深まっていました。警察に福音をどうやって広めたのか聞かれた時、母は堂々と神の働きの証を立てました。母の経験を通して、神のすばらしい智慧を知りました。神は赤い大きな竜の迫害を利用して私たちに勇気、知恵、信仰を授けてくださり、私たちの分別を深めてくださる。人が赤い大きな竜の悪魔的な本質を見通し、それを心から憎み、断絶できるように。赤い大きな竜は神の手中にあるひとつの駒にすぎません。神の働きを阻止し、邪魔しようとあらゆる手を使っても、結局、神が選民を完全にするために利用される、はりぼての虎です。神の全能性と智慧を目撃して、神に従い、神の働きを経験することは正しいことだと確信できました。そしてこの御言葉を思いました。「わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きに合わせて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと歩むことに没頭し、全宇宙に『歓声』が響き渡り、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、わたしの支配に従うしかなくなる。わたしの計画のすべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしのしもべである。このように、わたしは竜への『要求』を緩めたことが一度もない。したがって、肉におけるわたしの働きの最終段階は、竜の家の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしは竜に打ち勝ち、計画を完了するのである」(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十九章」〔『言葉』第1巻〕)。
赤い大きな竜の迫害のせいで、私は他の子供より苦しんだかもしれません。でも困難と弱さを乗り越えて、たくましくなりました。これは私にとって本当に貴重な経験でした。この経験があったからこそ、いつも私のそばで支えて下さるのは神だけだと信じることができました。神への信仰をなくさない限り、神は困難の中を導いて下さり、私たちは神の働きの証をすることができます。私はこれからも神に頼りしっかりと神に付き従い、本分を尽くして、神の愛に報います!
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