3. 裁きの奥義を発見する

恩恵 マレーシア

私は恩恵と申します。今年46歳です。現在マレーシアで暮らしており、主を信じて27年になります。2015年10月、私は別の街に引っ越して仕事に就きました。新しい同僚はみんなフェイスブックに夢中で、チャットしたり、新しい友だちを見つけたり、投稿したりするために使っていました。私はフェイスブックのアカウントをもっていなかったのですが、それを知った同僚たちがアカウントを作成してくれたので、徐々にネットのつなぎ方やフェイスブックの使い方を学んでいきました。時間があれば主を信じる兄弟姉妹の投稿を閲覧したり、それをシェアしたりしては楽しんだものです。時には自分も主を讃える記事を投稿し、友達グループの人たちと主のお恵みをシェアすることもありました。毎日が本当に充実していたのです。

2016年2月のある日、フェイスブックの友達のプロフィールを閲覧していたところ、次の投稿が目にとまりました。「現在、私たちのグループは裁きについて話し合っています。みんなそれぞれ意見は異なりますが、おもな点では一致しています。『自分に理解できないことがあっても、いつものくだらないことを言うつもりはない。それは神が将来なさることであって、無闇に憶測してはいけない』と言う人もいれば、『「詩篇」の75篇2節には「定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく」と記されている。神は一人ひとりが行なうすべてのことを記憶なさるのだから、主イエスがお戻りになってすべての人を裁かれるとき、まるで映画を上映するかのごとく、私たちの行ないを万人に明かされる。だから、神の裁きを受けて地獄に落とされないよう、私たちはいつも正直に振る舞わなければならず、絶対に悪事を犯してはいけない』と言う人もいます。また次のように言った人もいます。『「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(ヨハネの黙示録 22:11–12)と記されている。この聖句から、主イエスは終わりの日に再臨なさるとき、空に巨大な卓を置いてその後ろにお座りになり、書物をお開きになることがわかる。そして全人類が地にひざまずく中、主は各人の名前を読み上げ、その行ないに応じて一人ずつ裁かれる。善人は主によって天国へと引き上げていただけるが、悪人は地獄に落とされる』」。

この投稿を読んだあと、私は椅子に座ったまま、人類をお裁きになる主のお姿を心の中で思い描きました。主は玉座につき、人々がみな主の卓の前にひざまずいて自らの罪を残らず白状し、神に裁いていただく中、主はその行ないに応じて、一人ひとりを天国か地獄に送られる。ここで私は、自分が20年以上にわたって忠実な主の信者だったこと、全力で主の教えを実践してきたことを考えました。そして、主は私の敬虔さをご覧になり、きっと天国に引き上げてくださるはずだと信じました。しかしそれをさらに考えるうち、突然あることを思いついたのです。自分はもうインターネットの使い方を知っているんだから、「裁き」について検索して、何が出てくるか確かめてみたらどうだろう。そこでブラウザを立ち上げ、その単語を入力しました。そしてどのリンクをクリックしたかは忘れたのですが、驚いたことに次の一文が画面に現われました。「神の刑罰と裁きは人の救いの光」。この一文にたちまち興味をそそられた私は、もっと読もうとそのサイトに行きました。ページが読み込まれる中、「神の刑罰と裁きは人の救いの光」というタイトルの讃美歌が聞こえたのですが、それは喜びを感じさせると同時に、思考を刺激するものでした。次に挙げるのがその歌詞の一部です。「人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光であり、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)

讃美歌が終わったあと、私はこの歌詞をじっくり考えました。それはとても感動的で、このように思い始めました。「神の刑罰と裁きは私たちの救いの光なのだろうか? それは人類の最大のご加護であり、お恵みなのだろうか? 私たちはこれをどう理解すべきだろう? 清められて有意義な人生を送りたいなら、神の刑罰と裁きを受け入れなければならないということなのかしら?」 この歌詞について熟考するうち、数々の疑問が頭の中で渦を巻きました。そして「神が人をお裁きになるのなら、人は断罪されないだろうか? それに、裁きが救いの光になるなんてどういうことだろう?」とも思いました。このようなことはそれまで聞いたことがなかったので、私は好奇心をそそられると同時に興奮しました。この讃美歌で語られている裁きは、私が理解している裁きと違っていましたが、裁きには本当に深い意義があり、人の将来と運命に関係しているという漠然とした感覚は依然残っていました。この讃美歌の出所を調べてみると、制作したのが全能神教会だとわかったので、そのウェブサイトを開きました。すると、ホームページが斬新で美的な心地よさを感じさせるものだっただけでなく、その内容も豊富で種類に富んでいました。聞くもの、読むもの、歌、そして討論など、多彩な内容が揃っています。私はこう思いました。「このウェブサイトをいままで誰も教えてくれなかったなんて、いったいどういうことだろう? とても素晴らしいサイトだけど、誰もまだ見つけていないからシェアしなかったのかしら?」「本」というリンクをクリックして一覧をスクロールすると、『いのちに入ることに関する経験の証し』というタイトルが目にとまりました。それをクリックしたところ、おもに神の裁きに関する証しであることがわかりました。下に挙げるのがその一例です。「神の裁きと刑罰が私を救った」。「神の裁きと刑罰は私にとって大いなる救いだった」。「裁きと刑罰の中に神の愛を見た」。「神の裁きと刑罰が私の罪深い心を目覚めさせた」。「神の裁きと刑罰は私を正しい道に導く」。仕事に出かける時間が近づいていたので、これらの証しのいくつかをざっと読むことしかできませんでした。それらはどれも信者によって書かれたもので、自分の堕落した性質がどのように清められたかを述べるとともに、自分の欠点、堕落、誤った信仰観などに加え、それらが全能神の御言葉を通じていかに変わったかを語っています。このおかげで、私は「神の刑罰と裁きは人の救いの光」という言葉についてさらに好奇心を抱きました。裁きとは断罪されることではない、各人の結末を決めるものではない、ということなのでしょうか。私は心が乱れだし、「神の刑罰と裁きは人の救いの光」という言葉がいったい何のことを言っているのか、その核心に迫らなければならないと悟りました。そして、『いのちに入ることに関する経験の証し』という本がおそらく人の信仰にとって極めて有益であり、それをじっくり読むべきだという結論に至ったのですが、もう時間がなくなったので、コンピュータを切って仕事に出かけました。

その夜、私は眠れないままベッドで寝返りを繰り返しました。全能神教会のウェブサイトのイメージが絶えず頭の中に浮かぶのです。とりわけ「神の刑罰と裁きは人の救いの光」という一文が頭から離れず、「裁き」とは何を意味しているのか心から知りたいと思いました。

翌朝、私は早起きして全能神教会のウェブサイトを開き、「裁き」という単語を検索しました。すると「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」というタイトルの記事が目にとまったのでそれを開き、次の御言葉を読みました。「過去に語られた神の家から始まる裁きにおいて、その言葉における『裁き』は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは線描でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行うのだから、その働きは最大規模のもので、人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう……誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神はずいぶん前より人間のあいだでの裁きの働きを開始したというのに、あなたは惰眠を貪っていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである」。私はこれらの御言葉にすっかり驚きました。人の奥底に潜む考えや、神による終わりの日の働きに対する見方を、とても正確に明らかにしていたのです。同時に、それらは非常に現実的かつ実践的でもありました。私は不思議に思いました。「空で裁きが行なわれるという私が抱いてきた考えは、単なる想像に過ぎなかったのかしら? 人がみな、神による裁きの働きは不思議で超自然的だと想像していることを、この文章は示している。また、裁きの働きがはるか以前に始まり、もうすぐ終わるということも示していて、時間を無駄にせず神の示現を求めるよう、人々に促してもいる。これは神のお声なのかしら?」私はそう考えて心が乱れ、神の裁きとはいったいどういう意味なのか、すぐにはっきりさせたいと思いました。しかし全能神教会のウェブサイトにはあまりに多くのコンテンツがあり、そのときはどこから探し始めたらよいかわからず、そのため教会の信者を探し求め、私が理解するのを助けてくれるかどうか確かめてみることにしました。

私は全能神教会のウェブサイトに備わっているオンラインチャット機能を使い、裁きについてもっと学びたいというメッセージを送信しました。するとすぐに返信があり、全能神教会に所属する劉恵さんと李梅さんという2人の姉妹を紹介してくれました。彼女たちに連絡を取り、やりとりを重ねる中で、この2人が誠実かつ開けた態度の持ち主で、とても率直だということがわかりました。私は2人と心を通わせたチャットをしたいと思い、こう伝えました。「全能神教会のウェブサイト、本当に気に入っています。ありとあらゆる霊の書籍、讃美歌、音楽動画、福音映画、神の御言葉の朗読など、コンテンツが盛りだくさんです。ただ、私にはどうしても、神の裁きがどういう意味かがわからないのです。「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」という記事を読んだばかりなのですが、それによると、神による裁きの働きはすでに始まっていて、天で裁きが行なわれるという考えは人間の観念と想像の産物に過ぎないようです。これは、私が普段理解している裁きとまったく違っています。このことについてあなたたちはどう認識なさっていますか。どうか教えてください」。

すると劉恵姉妹がこう返信してくれました。「神を讃えます! 一緒に求めて交わりましょう! 私も以前はそのように考え、神による終わりの日の裁きの働きは天で行なわれると信じていました。しかし全能神の御言葉を読み、兄弟姉妹と交わったあと、それはひとえに自分の観念、自分の想像に過ぎないと気づくようになりました。神による裁きの働きが天で行なわれるか、それとも地上で行なわれるかは、聖書のいくつかの預言の中でとてもはっきり述べられています。たとえば『黙示録』の14章6節から7節にはこうあります。『わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」また『詩篇』96篇13節にはこう記されています。『主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる』。 さらに『ヨハネによる福音書』9章39節では、『わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり』と述べられています。いま挙げた聖書の聖句は。『彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて』、『地をさばくために来られる』、『わたしがこの世にきたのは、さばくためである』ということに触れています。そのことから、終わりの日、神は自らこの世へおいでになり、地上に来られて裁きの働きをなさり、すべての人と国をお裁きになることがわかります。加えて聖書を読むことで、神は人類をお作りになるのに先立ち、私たちに適した生存環境を整えられるべく、天地と万物をお作りになったこともわかります。それから神は人類をお作りになり、私たちが天ではなく地で暮らすよう采配なさったのです。では、私たちはいったいどのようにして天に引き上げていただけるでしょうか? 堕落した人類はここ地上で神の裁きを受け入れるしか選択肢がありません。さらに、ヨハネはパトモス島の空中に大きな白い玉座を見たと、黙示録には記されています。実際のところ、それはヨハネのビジョンの1つに過ぎませんが、これを文字どおり、神は終わりの日に戻られるとき、空中で人を裁かれるのだと解釈する人がいます。これは私たち自身の観念と想像以外の何物でもなく、預言を誤って解釈しているのであって、神の働きの現実などでは決してありません」。

私が自分が耳にしたことに驚きました。姉妹が教えてくれた聖書の聖句は全部読んだことがあるはずなのに、これらの御言葉の本当の意味に気づかなかったなんて、いったいどういうことでしょう。そうです! 神は人類をお作りになって地上に住まわせたのですから、私たちが天に昇るなどどうしてできるでしょう。私の信仰は本当に曖昧さと無知で一杯だったのです!

李梅姉妹はそれからこう教えを説いてくれました。「終わりの日、神は受肉されて地上で裁きの働きをなさっただけでなく、神の働きははるか以前に始まり、もうすぐ終わります。神による裁きの働きは、人々が想像するように天でなされるものではなく、彼らが信じるように人々を直接断罪するものでもありません。実際のところ、神による裁きの働きが終わりを迎える前、神の御前に出る人はみな、神の御言葉による裁き、試練、そして清めを受けられる人たちです。神の裁きを受け入れて清められた人たちは、神によって残らず御国に連れていただけます。しかし、神の御言葉の裁きを受け入れない人について言えば、彼らの罪深い本性が神に裁かれ、清められることはないので、引き続き罪の中で暮らし、絶えず罪を犯し続けることになります。彼らは嘘をつき、騙し、神に逆らい抵抗します。そして自分の罪のために地獄で滅ぼされるのです。これが神の義なる性質の真の表われです。長年主に従ってきた私たちは、信仰のおかげで自分の罪が贖われたことを深く経験してきたものの、自分の罪深い本性という問題は解決されていません。私たちは主に従いながら、同時にしばしば主の教えに反し、肉の欲望のおもむくまま、嘘をついたり、騙したり、たくらみに関わったり、名声や富を求めて争ったりするといった罪を犯します。私たちは空虚な虚栄心を満たそうと必死で、物質世界の悪しき潮流を追いかけます。これだけではありません。特に試練や事故や災害に直面すると、神を誤解して責め、神を裏切りさえします。私たちは絶えず罪を犯してはそれを告白するという状態の中で暮らし、決して自分の罪深い本性の束縛を振り払えないと言えるでしょう。聖書には『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヘブル人への手紙 12:14)と記されています。私たちのような堕落した人々が、どうして神の国に入れるでしょうか? 全能神はこうおっしゃいました。『あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。ゆえに終わりの日、神はご自身の経営計画を遂行し、堕落した人類の必要に応じて人を裁き、罰し、清める段階の働きをなさっているのです。その目的は、私たちをサタンの支配下から完全に救い、私たちの罪深い本性を取り除き、それによって私たちが清められ、救われるようになさるためです。このことから、神による終わりの日の裁きの働きが、ひとえに清めと救いに関するものであることがわかります。それは人々が想像するように、私たちを断罪するものではないのです」。

次いで劉恵姉妹が交わりを続けました。「そのとおりですよ、恩恵姉妹。次のことについて考えてみましょう。神による裁きの働きが私たちを断罪して懲罰するものなら、サタンによってみな深く堕落させられてきた私たちは、誰一人救っていただけず、神の国に入れることもないはずです。そうであれば、神による裁きの働きとはいったい何なのでしょうか? 全能神の御言葉は、神が終わりの日に裁きの働きをなさるのはなぜか、その意義は何かを明確に述べています。ここで全能神の御言葉を2節読みましょう。『人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配からどうやって自分を解放すればよいのか分からない。何時の時代も、この秘密を発見してそれを理解した者は稀である。……清められなければ、人はけがれた者である。人が神によって守られておらず、神に顧みられていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。その人がもし裁きや刑罰を受けていないのであれば、その人にはサタンによる闇の影響の弾圧から逃れる術はないであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活していることを証明するには、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な振る舞いだけで十分である。あなたの心や思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在がいまだにサタンの領域に支配されており、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操られ、あなたの存在全てがサタンの手により支配されているのだ(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。『この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。では、私たちは神の御言葉から何を実感できるでしょうか。ある角度から見れば、神の御言葉が極めて実践的であり、私たちの実生活の状況をとてもよく映していることがわかります。別の角度からは、私たちはまず神の裁きと清めを経験し、汚れと堕落を自分から取り除くとともに、サタンの闇の支配から逃れなければならないことがわかります。そうして初めて、神によって御国に連れていただくのにふさわしくなれるのです。神による終わりの日の裁きの働きがなければ、私たちは十分に清められて神の心に従う人にはなれず、神の国に入ることもきっとできません。ひたすら罪を犯して神に抵抗するばかりで、最後は地獄で神に滅ぼされます。事実、全能神教会の兄弟姉妹による実生活の証しから、神の裁きと刑罰は人類の救いの光であることがわかります。私たちは一人残らずサタンによって堕落させられてきましたが、全能神の御前に出て神の御言葉の裁きと刑罰を受けられるので、私たちのいのちの性質は徐々に変わります。反抗と抵抗から抜け出し、受容と服従に向かいます。傲慢かつ独善的で誰にも服従しない状態から抜け出し、進んで自惚れを捨て去るようになり、正しいことに従い、真理に服従するのです。加えて、神による裁きと刑罰の中で表わされることはどれも真理であり、神の義にして聖い性質の表われでもあります。ゆえに神の裁きと刑罰を経験すればするほど、私たちは神を知るようになります。そして神を知れば知るほど、この世の人、物事、出来事をよりはっきり見通せるようになるのです。それとともに、私たちの視点や価値観も様々な度合いで変わっていきます。神への畏れと服従をさらにもつようになるのです。これが、全能神の裁きと刑罰が私たちの中で成し遂げることです。神の御言葉における真理の光の裁きがなければ、私たちはみな暗闇の中で暮らし、罪を犯しては告白し、告白しては罪を犯すという日々を過ごし、決して罪の束縛を捨て去ることができません。それならば、いったいどうして神によって御国へと連れていただけるでしょうか?」

李姉妹と劉姉妹の説く教えを聞いたあと、心の中で明るい光が灯ったように感じました。2人が言ったことは真実です。私の教会の牧師や長老、それに兄弟姉妹はみな罪の束縛から逃れられないでいます。私自身、どうしても罪を犯してしまうことがよくあり、主の御言葉を実践できずにいました。みんな罪を犯しては告白するという状態の中で暮らしており、神がお戻りになって裁きと清めの段階の働きをなさることを本当に必要としているのです。全能神による終わりの日の働きを調べていなければ、これらの真理を理解するようにはならなかったでしょう。私は神のお導きに心から感謝しました。全能神の御言葉を読み、姉妹たちが説く教えに耳を傾けることに加え、神の御言葉の裁きを通じて自分の堕落した性質がどう清められたかを述べている、全能神教会の兄弟姉妹による証しの文章を読むことで、神による終わりの日の裁きの働きについて多少ながら理解するようになったのです。自分の観念はきれいに消え去り、私たちが罪から逃れて清めを得るうえで神の裁きと刑罰が不可欠であることを、私はようやく知りました。

すると、劉恵姉妹がこう言いました。「全能神の御言葉を2節読みましょう。全能神はこうおっしゃいました。『神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。『キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉から、神は人類の必要に応じてすべての真理を表わし、人を清めて救われるべく、終わりの日に肉となられたことがわかります。神は背くことを許さないご自身の義なる性質を人類に明かされます。そして御言葉を通じ、人の本性と本質、人の堕落の真相を暴かれるのです。全能神が表わされた裁きの御言葉を受け入れることでのみ、私たちは自分のサタン的本性と堕落した性質をなす傲慢さ、狡猾さ、利己心、邪悪さなどを知ることができます。神の裁きと刑罰を受け入れて初めて、神の義なる性質を知り、神を畏れて真に悔い改める心を育めるのです。このようにして、私たちの堕落した性質は変化と清めを得ることができます。これが神の裁きの意義であり、同時に私たちが救いに至る唯一の道でもあります。恩恵姉妹、全能神の御言葉をできるだけ多く真剣に読んでいれば、神による終わりの日の裁きの働きの意義が明らかになり、そのうえ終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を人々に授けられることがわかるのですよ」。

主を讃えます! 私は姉妹たちとの交わりからとてつもなく多くのことを得ました。私はまだ神の裁きと刑罰を経験していませんが、2人との交わりと、『いのちに入ることに関する経験の証し』を読むことを通じ、全能神の裁きと清めは本当に人を変えられると感じるようになりました。また、私が天国へ引き上げていただくのにふさわしくなれるよう、神が裁きと刑罰の段階の働きをなさり、私を変えて清めてくださることが本当に必要だとも思いました。その交わりから数日後、私は神による裁きの働きの意義と、神の御名に関する真理をさらに理解するようになりました。同時に、真のキリストと偽キリスト、本物の教会と偽物の教会を識別する真理も学びました。そして神の受肉にまつわる真理、神の働きと人間の働きの違い、サタンが人類を堕落させる方法、神が私たちをお救いになる方法なども学んだのです。そうして全能神こそまさに再臨された主イエスでいらっしゃるという確固たる結論に至り、全能神による終わりの働きを喜んで受け入れました。神を讃えます! そのとき以来、私は神の御言葉を読むことへの渇望が止まりません。教会生活を送り、兄弟姉妹と真理について交わり、神の御言葉による潤しと糧を受け入れることで、自分の霊が大いに施されていると感じています。そのおかげで、聖書の黙示録にある次の預言が完全に成就するのを目の当たりにできました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)。また、それが自分自身の中で成就するのも感じました。全能神の御言葉は私の心の扉を叩き、私が神のお声を聞き、神による裁きの働きを知り、神のもとに立ち返られるようにしてくれたのです。神に讃美あれ!

前へ: 2. 清めへの道

次へ: 4. 騙された魂の目覚め

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

44. 私は帰ってきました

チュー・キンポウ(マレーシア)私は十年以上前から主を信じており、二年間教会の仕事をしましたが、その後海外での仕事のためにその教会を辞めました。シンガポールなどさまざまな場所に行き、まずまずの収入を得ましたが、私が生きていた弱肉強食の現代社会では力が正義で、誰もが互いを陥れようと画…

9. 違う形の愛

巴西ブラジル2011年、私はある偶然のきっかけで中国からブラジルにやって来ました。到着した当初は新鮮な経験に圧倒されて好奇心で一杯になり、将来についてよい感触を得ていました。しかししばらくすると、この新鮮な感情は遠く離れた異国の地で自分を見つける孤独と苦しみに取って代わられました…

8. 全能神が清めを得る道に私を導いた

剛強アメリカ2007年、私は生計を立てるべく、単身シンガポールに赴きました。シンガポールは本当に一年中暑く、日々大量の汗をかきながら働きました。それは実に惨めで、そのうえ家族や友人もおらず、まったく馴染みのない場所で暮らしていたこともあり、生活が本当につまらなく、退屈なものに感じ…

31. イバラの中で育つ小さな草の葉

イイシン シンガポール2016年11月、私はフェイスブックを通じて全能神教会のリン兄、チャン姉、シャオシャオ姉と知り合いました。三人は聖書の預言を交えたお話しをしてくださり、終わりの日の神の働きを証しされました。こうした交わりと証しから、全能神の御言葉は主イエスがなされた贖いの働…

設定

  • 文章
  • テーマ

単色

テーマ

フォント

文字サイズ

行間

行間

ページ幅

目次

検索する

  • 表示テキスト内検索
  • 全文検索