肝臓癌になったことから学んだ教訓

2022年7月16日

リ・ヨン 中国

わたしはクリスチャンになったあと、中国共産党によって何度か逮捕されましたが、決して主を裏切りませんでした。数年前に全能神による終わりの日の働きを受け入れ、それからは雨の日も晴れの日も、ひたすら熱心に福音を宣べ伝え、自分の本分を尽くしました。どんな苦難に遭おうと、自分は常に神に忠実だと思っていましたが、命の危険が伴う病気に苦しんで初めて、自分の信仰には祝福を得るという動機があったことを多少認識したのです。

2014年10月のある日、交わりを終えて自宅に戻ろうとしたところ、手足の力が抜け、足元がふらつきました。最初は単なる身体の不調のせいで、薬を飲めば大丈夫だと思い、さほど心配しませんでした。しかししばらくすると、両耳、指、そしてつま先が黒くなり始め、体重も落ち始めたのです。何か深刻なことが起きているのではと思い始めましたが、自分は何年も本分に努力を捧げてきたのだから、神が守ってくださるはずと考えました。自分がひどい目に遭うなんてあり得ない。そのうちよくなるはずだ。しかし驚いたことに、薬を飲んでも一向によくなりません。妻と娘たちに伴われて病院へ行き、そこで検査を受けました。すると検査の結果、わたしは深刻な貧血症とB型肝炎にかかっているとのこと。悪化すれば手の施しようがなくなるそうです。これを聞いて全身から力が抜けました。言われたことを受け入れられず、こんな思いが浮かびます。「自分はもう何年も、多くのことを犠牲にしてきたし、本分を尽くすためにずいぶん苦しんだ。共産党に逮捕され、脅されもしたけれど、決して神を裏切らず、釈放後はすぐ本分に戻った。どうしてこんな病気に? 神はどうして守ってくださらなかったんだ? このままよくならなければ、今までの犠牲はいったい何だったんだ? 自分は神の祝福を受け取ることなく、何年も神を信じてきたのに、いま病気にかかってしまった。必死に本分を尽くすのはもうやめたほうがいいかもしれない。どれだけ苦しもうと何にもならないのだから」。その頃、わたしは依然として本分を尽くしていましたが、熱心さは失っていました。集会のときも、兄弟姉妹が抱える問題を尋ねることはありません。また神の御言葉を読むものの、交わりをしようとは思いませんでした。しばらくすると、病状がますます悪化し始めました。自分で身体を支えることができず、一日中目まいがします。自宅で休養と療養に励めるよう、指導者はわたしに休暇を与えました。兄弟姉妹は幸せそうに元気いっぱい本分を尽くしている。でも自分は? 病気がひどく、本分を尽くすことがまったくできない。神はたぶん、わたしを救わないことにしたのだと思いました。そして、それを考えれば考えるほど悲しみと苦痛がひどくなったので、神の御前に出てこう祈りました。「神よ! わたしは病気に襲われ、弱って苦しんでいます。あなたを責めてはならないことはわかっていますが、あなたの御旨がわかりません。理解できるよう、どうかお導きください」。

祈りのあと、神の御言葉の一節を読みました。「人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する。精錬は人に対する実際の試練の一つであり、実際の鍛錬の一形態であって、精錬のさなかでのみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる(『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉をじっくり考えるうち、わたしが病気になったことにおける神の御旨は、わたしを淘汰することではなく、わたしが心から神を愛し、神に従うことができるよう、わたしの信仰の裏にある不純な動機を認識させ、追求に対する誤った見方を正すことだとわかりました。神はわたしを清め、救おうとなさっているのです。これに気づいたわたしは、自分のことが本当に恥ずかしくなりました。病気に見舞われたのは神の愛。なのに自分は神の御旨を理解しようとせず、それどころか神を誤解し、責めてしまった。あまりに理知がなさすぎる! 否定的になり、苦痛の中で生きるわけにはいかない。服従して真理を求め、自分を反省して自己認識しなければ。

その後、御言葉の別の一節を読みました。「人はただ恵みの獲得と平安の享受を信仰の象徴と見なし、祝福を求めることが自分の神への信仰の基礎であると考えている。神を知ることを求め、自分の性質の変化を求める人はごく僅かである。信仰において人が求めるのは、自分に適切な終着点と、自分に必要なあらゆる恵みを神が与えるようにさせ、神を召使にし、神に自分との平和で友好的な関係を維持させ、いかなるときも両者の間に決して対立がないようにさせることである。すなわち、聖書で読んだ『わたしはあなたがたのすべての祈りに耳をかたむける』という言葉通りに、人の神への信仰は、神が人のすべての要求を満たすことを約束し、祈り求めるものは何でも人に与えることを要求するのである。人は神が誰も裁かず、誰も取り扱わないことを期待する。神とはいつも憐れみ深い救い主イエスであり、いつでもどこでも人と良い関係を保つ方だからである。人は次のように神を信じている。いつも臆面もなく神に要求するばかりで、自分が反抗的であろうと従順であろうと、神はなんでも見境なく自分に授けてくれると信じている。絶えず神から『負債を回収』し、神はまったく抵抗せずに『返済』しなければならず、そのうえ二倍の額を払わなければならない。人から何かを得ていようといまいと、神はただ人に操られるだけで、思いのままに人を指揮することはできず、ましてや人の許可なく神が望む時に、長年隠されてきた神の英知や義なる性質を人に現すことはできない。人はただ自分の罪を神に告白し、神はただそれを赦すだけで、そうすることにうんざりもせず、これが永久に続くと信じている。人は神に命令するばかりで、神は自分にただ従うと信じている。なぜなら、神は人間に仕えられるためではなく、仕えるために来たとか、神がここにいるのは人間の召使になるためだなどと聖書に記されているからである。あなたがたはいつもこのように信じてきたのではないのか。神から何か得られないと、あなたがたは必ず逃げたがる。何か理解できないことがあると、ひどく憤慨し、あらゆる種類の悪態を神に浴びせかけさえする。あなたがたは神自身が知恵と不思議を充分に表現することをどうしても許そうとせず、その代わりにただ一時的な気楽さと心地よさを楽しむことを望む。今まで、自分の神への信仰におけるあなたがたの態度は相変わらずの古い見解からなるだけである。神があなたがたにほんの少しでも威厳を見せれば、あなたがたは不機嫌になる。あなたがたにはいま自分の霊的背丈がどれほど低いのか正確にわかっているのか。あなたがたの古い見解は実のところ変化していないのに、自分たちは皆神に忠実だなどと思い込んではいけない。何も自分に降りかからなければ、あなたはすべてが順調に進んでいると考え、神への愛は高まる。しかし、些細なことが起こると黄泉の国にまで落ちる。これは神に忠実であることだろうか(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は、わたしの本当の状態を明らかにしていました。真理を得るために犠牲を払っていたのでなく、神の恵みと祝福を得るためにそうしていたのであり、神を騙し、神と取引しようとしていたのです。万事順調で神の祝福を受けているときは、熱心に本分を尽くしていました。兄弟姉妹がどれだけ離れたところにいようと、自分がどれだけ苦労する必要があろうと、また天気がどうであろうと、いつも喜んで兄弟姉妹を助け、彼らと交わりをしていました。しかし病気になって恵みを受け取っていない今、わたしは悲嘆に暮れ、神に文句を言って責めています。神に逆らい、口論しているのです。特に病状が日々悪化する中、わたしは神への信仰を失い、本分をだらしなく尽くすようになってしまいました。自分は真理やいのちの追求のために神を信じることなく、祝福を求める自分の願望を満たすため、絶えず神を利用している。自分の利益のためにそうしていたのです。神に対するわたしの信仰は誠実でなく、あまりに利己的で不実です! このように神を信じているなら、たとえ物質的な祝福を享受したとしても、いのちの性質が変わらなければきっと神に淘汰されるでしょう。

その後、御言葉の別の一節を読みました。「精錬は、神が人を完全にする最良の手段である。精錬と厳しい試練だけが人々の心に神に対する真の愛をもたらすのである。苦難がなければ、人々は神に対する真の愛をもたない。試練によって内側から試されず、真に精錬を受けなければ、人々の心は常に外側を漂い続けるだろう。ある程度まで精錬された後、あなたは自分の弱さと困難を理解し、自分に欠けているものがどれほどあって、遭遇する数多くの問題を乗り越えることができないのか、そして自分の不従順がいかに大きなものかを知るようになる。人が自分の実際の状態を真に認識できるのは試練のあいだだけであり、試練こそが人をよりよく完全にできるのである(『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のおかげで神の御旨がわかりました。わたしが病気になるのをお許しになったのは、わたしの堕落を清める神の手段なのです。わたしは刑務所の中でも神を裏切らず、どんな困難に遭っても決して神を裏切りませんでした。だから自分は神に忠実で、確固たる信仰があると思っていました。この病気に見舞われていなければ、自分の堕落した性質や、祝福を追い求めるという自分の不純な意図は決してわからなかったでしょうし、まして真理を追い求めて変化するなど不可能だったに違いありません。この病気はわたしを救う神の手段、わたしに対する神の愛なのです! これに気づいたわたしは、神を責めて誤解するのをやめました。病状がどうなろうと神の指揮に従い、祝福を得るという自分の意図を捨てよう。その後、わたしは薬を飲んで自分を神に委ねつつ、その間ずっと神の導きを求めました。また本分についても、毎日懸命に努力しました。すると思いがけないことに、いつの間にか病気がよくなっていたのです! 心は神への感謝で一杯でした。

2015年5月、潤しの本分を尽くすことになったわたしは、この本分を心から大事にしました。御言葉をじっくり考えることに時間を費やし、問題を抱えている兄弟姉妹がいれば相談に乗り、支えとなる神の御言葉を探しました。しばらくすると、教会生活は改善していきました。兄弟姉妹もますます熱心に本分を尽くし、困難や圧迫に遭っても証しに立つ信念を持つようになったのです。わたしは高揚しました。本分をより効果的に尽くせるようにすることで、神はわたしを祝福してくださった。これは、神がわたしの頑張りを褒めてくださっている証拠なんだ。

しかしその年の6月5日、集会に出かける準備をしていたところ、突然強いめまいを感じました。地面がぐるぐる回るかのようです。顔も服もたちまち汗まみれになり、ひどい頭痛がしました。最初に病気になったときと同じような感覚ですが、今回のほうがずっとひどく、今にも死にそうでした。わたしは心の中で思いました。「病気が再発したのか? 自分は毎日懸命に本分を尽くしている――神が守ってくださらないのはなぜなんだ? 神への忠誠がまだ十分じゃないのか?」。わたしの状態に気づいた妻と娘たちは、急いでわたしを病院に連れて行きました。やがて検査結果が出たのですが、医師はわたしを避け、娘たちと話をしました。そのとき、癌でなければ別の深刻な何かだと悟りました。そのため動揺し始めたのですが、こう思い直しました。「症状は前回と同じだし、結局最後は回復したじゃないか! 今回も、病気は神の手中にある。今だって本分を尽くしているし、きっと深刻ではないはずだ」。そう考えて落ち着きが戻ってきました。その直後、娘2人が泣きながら姿を見せ、妻にこう言いました。「パパは肝臓癌だってお医者さんから言われたわ……」。それを聞いた妻はショックに陥りました。そして3人は固く抱き合いながら、激しく泣きだしました。

わたしも心が完全に乱れ、押しつぶされるほどの苦痛を覚えました。どうして肝臓癌なんかに? 治療はほぼ不可能だし、いつ死んでもおかしくない。死んでしまえば、妻と娘たちはどうなる? 長年懸命に働き、犠牲を払ってきた結果がこれなのか? 自分は天国の祝福を拒否されたのか? こうした悲しみと絶望を感じていたところ、妻が泣きながらこう言いました。「あなたがこの病気になったのは、神がそれをお許しになったから。神は義でいらっしゃる。だから神を責めたり誤解したりしてはだめ。神の御旨を理解しなきゃ」。妻のおかげで思い出しました。そう、神は義でいらっしゃる。文句など言わず、神の御旨を求めなければ。妻の苦悩を見たわたしも、涙を抑えることができませんでした。そこで目に涙を浮かべつつ、無言で神に祈ったのです。「神よ! あなたは無意味なことをなさりません。御旨を理解できるよう、どうかわたしをお導きください」。祈り終えるとずっと落ち着きました。自分の病気には治療法がないし、家族にこれ以上の経済的負担をかけるのも嫌です。そこでわたしは自宅で療養したいと申し出ました。

2日後、兄弟姉妹が会いに来て、わたしの調子を尋ねました。彼らの姿を目にし、自分の状態がいかに深刻かを考えたわたしは泣いてしまいました。「みんなが一緒にいて、僕を気遣ってくれるのは神の愛だ。でもこんな病気だから、先は長くないだろう。いつものように本分を尽くすのはもう無理だし、神の国が実現するのを見ることもないはずだ」。すると1人の姉妹がわたしを慰め、このように言ってくれました。「この病気も神の愛のひとつですよ。もっと祈って真理を求め、神の御旨を理解し、病気の中で証しに立たなきゃ!」。その後、彼女は神の御言葉を数節読んでくれたのですが、そのうちひとつがわたしに強い印象を残しました。「神への信仰において人が求めるのは将来の祝福を得ることであり、それが信仰における目標です。すべての人にこの意図と望みがありますが、人の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。人が清められていない側面がどれであろうと、その側面において精錬されなければなりません。それが神の采配なのです。あなたが自分の堕落を認識できるよう、神はあなたのために環境を整え、そこでの精錬をあなたに強います。最終的に、あなたは死んで企みや欲望を諦め、神の支配と采配に服従したいと思うまでになります。それゆえ、数年間の精錬を受けず、ある程度の苦難を経なければ、人は自身の考えや心における肉の堕落の束縛を捨て去ることが出来ません。あなたはどの側面においてもいまだサタンに束縛され、自分の欲望と要求を抱いていますが、それらの側面において試練を受けなければなりません。教訓は試練を通じてのみ学べるのであって、それは真理を得て、神の意図を理解できるということを意味します。実際、多くの真理はつらい試練を経験することで理解されます。楽な環境にいるときや状況が好都合なとき、神の考えを理解したり、神の全能性と知恵を認識したり、神の義なる性質を正しく理解したりすることは誰にもできません。そのようなことはありえないでしょう(『終わりの日のキリスト講話集』の「試練のさなかにどう神を満足させるべきか」)。読み終えたあと、わたしは自分を省みました。以前病気になったときは、真理を求めることで服従できた。揺るぎなく立ち、祝福を得るという意図を捨てた。しかし病気が再発し、以前より悪化した今、自分は再び暴かれている。祝福を得るという自分の意図が根深く、自分は神の試験に合格できなかったのだとわかりました。健康がまたも損なわれていなければ、祝福を得るというこの根強い意図と、野放図な願望を見ることはできず、ましてや変化して清められることなど不可能だったでしょう。それと同時に、わたしは神の義にして聖い性質も目の当たりにしました。神は人の心を吟味なさるので、わたしの中にある堕落と不純もご存じです。神は病気を用いることで、わたしが自己反省して真理を求め、堕落した性質を解決するようになさいました。これが神の愛なのです! その後、わたしは自分の振る舞いを反省しつつ、病気になった自分が神を誤解して責めたのはなぜだろうと考えました。自分は今でも神と取引しようと試みているのではないか? 神の祝福を絶えず求めつつ、神がわたしのために用意された物事を受け入れようとしないのではないか? 自分は神と取引しようといつも試みていたが、その原因は何なのか?

しばらくして、わたしは神の御言葉を何節か読みました。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「外面的な変化と性質の変化の違い」)。「人が神にする要求ほど扱いにくいことはありません。神の業がどれも自分の考えに一致せず、神が自分の考えるとおりにしなければ、あなたは反抗しがちになります。それは、人間の本性が神に逆らうことを示しています。この問題は、真理を追求することで認識し、解決しなければなりません。真理がない人は神に多くの要求をしますが、本当に真理を理解する人は何も要求しません。自分は神を十分満足させていない、自分はまだ従順ではないと思うだけなのです。いつも神に要求をするのは、人の堕落した本性の表われです。これを深刻な問題、重要なこととして扱わないなら、あなたの前途には差し迫った危険が潜んでいます。普通の物事は克服できても、自分の運命、前途、終着点となるとおそらく克服できません。そのとき依然として真理がなければ古いやり方に戻ってしまい、滅ぼされる人になります(『終わりの日のキリスト講話集』の「人はあまりに多くを神に要求する」)

御言葉による啓示のおかげでわかりました。神と取引しようというこれらの試みは、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「利成らずば早起きは無駄」といったサタンの害毒が土台にあったのです。わたしは何をするにも、どうすれば自分が利益と祝福を得られるかを、いつも最初に考えていました。本分を尽くしているときでさえ、絶えず自分の動機と不純を抱えていたのです。自分が歩んできた道を振り返ると、神の働きのためいつも表面的な犠牲を払っていましたが、実際にはそれらのささやかな犠牲と引き換えに大きな祝福を得ようとしていました。神の祝福を得るためなら、どんな苦しみにも価値があると思っていたのです。しかし自分の願望が満たされず、何度も病気になって、このまま死ぬのではと思うまでになると、神への誤解、非難、抵抗、そして裏切りがすべて明るみに出ました。わたしは終着点にたどり着くために本分を尽くし、神を利用して騙し、良心と理知を失っていました。邪悪で卑劣だったのです! 神の指揮によって繰り返し暴かれていなければ、自分がいかに勝手で不実か決してわからなかったでしょう。わたしは祝福の追求を正しいものと見なし、神のお求めなどどこかに忘れていました。自分が何をしても、どのような犠牲を払っても、それは関係ありません――神がそれをお褒めになることは決してないのです。真理を追い求めず、自分のために祝福を得るという意図をいまだ抱いていれば、神はわたしを嫌い、懲罰なさるに違いありません。自分を啓き、この病気を通じて自己認識させ、野放図な要求を捨てさせてくれた神の御言葉に対し、わたしは感謝の念で一杯でした。これはわたしに対する神の愛なのです! それを考えれば考えるほど神の愛の偉大さを実感し、神にこう祈りました。「神よ! わたしが癌になった裏にはあなたの善意があります。わたしの生死はあなたの手中にあります。あなたに従うとともに、満足いただくべく証しに立ってまいります」。

祈りのあと、神の御言葉の一節を読みました。「あなたはヨブの試練を受けると同時に、ペテロの試練も受ける。ヨブは試された際に証しを行ない、最後にヤーウェがヨブに示された。証しを行なった後、ヨブは初めて神の顔を見るのにふさわしい者となったのである。『わたしは汚れた地から隠れ、聖なる国に自分を現わしている』と言われたのはなぜか。それは、聖くなって証しを行なわなければ、神の顔を見る品位は得られない、という意味である。神の証しを行なえなければ、あなたには神の顔を見る品位がない。精錬に直面した際、退いたり、神に不満をぶつけたりして神の証しを行なわず、サタンの笑い者になったとしたら、神の出現を得ることはできない。あなたがヨブのように、試練のただ中で自らの肉を呪い、神に不満をぶつけず、文句を言うことも、自分の言葉で罪を犯すこともなく、自分の肉を忌み嫌うことができれば、あなたは証しを行なっている。ある程度の精錬を受けてなお、ヨブのように神の前で完全に服従し、神にその他の要求をしたり、自身の観念を抱いたりしないのであれば、神はあなたの前に現われる(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は神の聖さと義をわたしに示しました。試練と精錬を受ける中で証しに立つ人の前にのみ、神は姿を現わされます。神がヨブを試されたとき、ヨブの子どもたち、財産、そして幸福は残らずサタンに奪われ、彼の全身は腫れ物で覆われました。しかしヨブは不満を言わず、神を責めることもしませんでした。ひたすら自分を憎み、呪ったのです。この大いなる試練に見舞われたヨブは、それでも神の主権に従い、被造物としての立場から神の御名を称えることができ、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)とさえ言いました。この言葉は、サタンを前にしての美しく鳴り響くような神の証しとなり、最後はヨブの前に神が姿を現わされました。これがヨブの人生の価値だったのです。わたしが病気になったのは、神が特別なお優しさをわたしに示されていたからです。だからわたしもヨブのように、神の指揮に従わなければなりません。癌に押さえこまれてはいけませんし、自分のいのちを神に委ね、サタンの前で鳴り響くような確固たる神の証しをし、神の御心を慰める必要があります。わたしは自分の懸念を脇にのけ、神の主権に我が身を委ねました。すると程なくして、病状が回復したのです。食事をおいしく味わえるようになり、動作も普通に行なえるようになって、全力で本分を尽くすことさえできるようになりました。その後、娘たちに連れられ検査のために病院を訪れたのですが、医者はそれまでの経緯を信じられず、わたしのような患者はまれで、病院で治療を受けずに生き延びたのは奇跡以外の何物でもないと言いました。そのとき、これは神のご加護なのだとわかりました。自分のいのちが神の手中にあるのを感じることができ、万事に対する神の主権をわたしは経験したのです。

それからしばらくして、病気が再発しました。妻と娘たちに連れられて病院を訪れたのですが、主任医師はわたしの病状の深刻さを見て、検査のために専門医を呼び寄せました。検査所から結果が帰ってきたあと、その専門医はわたしに対し、自分たちの施設にはわたしの病気に対処できる機器がないので、20万元を支払って省立病院に移ってはどうかと提案しました。そこでなら治療を受けられるかもしれないというのです。すると娘が泣きながら妻にこう言いました。「聞いた、あの言い方? 誰もパパを治せないなんて。ここ数年、わたしたちの村で30人以上が癌になったけれど、みんな死んじゃったわ……」。妻の顔も涙で濡れています。わたしは死刑宣告を受けたかのような気分でした。再び死が迫り来るのを感じつつ、この病気がまたも再発し、今度も深刻なのはどうしてだと、自問せずにはいられません。しかし今回、わたしは自分を責め、神への不従順に自責の念を覚えました。自分が繰り返し死に晒されても、そのたびに神がわたしを守り、生かしてくださったことが頭に浮かんだのです。神の主権をはっきり見たのに、神を真に認識していないのはどういうことでしょう? 生死を左右できるのは神だけであって、医者ではありません。そこで神の御前に出て、こう祈りました。「神よ、わたしは再び死に向き合っていますが、その裏にあなたの善意があることはわかっています。わたしの生死はあなたの手中にあります。あなたに従い、満足いただくべく証しに立ってまいります!」

祈りのあと、神の御言葉を読みました。「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。人間の生死は自分の選択で生じるものなのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。わたしは姿を現して人間にはっきり見られるようにはしないが、多くの人はわたしの顔を見ることを恐れ、わたしが彼らを打ち倒すのではないか、彼らを消し去るのではないかとひどく恐れる。人間はほんとうにわたしを知っているのか、知らないのか。誰一人、確かなことは言えない。そうではないか(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十一章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉には力と権威があり、わたしに自信を与えてくれました。神は創造主であり、すべてを支配なさいます。わたしは被造物として、創造主の主権に従わなければなりません。自分のいのちを大事にして神を責めるなら、それは神に逆らい、神を裏切ることになります。恥ずかしさのあまり神に向き合うことができず、人生に何の意味もなくなるでしょう。これを理解したわたしは、死や病気から解放されたように感じ、妻と娘たちにこう言いました。「悲しんじゃだめだ。医者はわたしに死刑宣告を下したが、自分の生死は神の手中にあるとわたしは信じている。神がなさることはすべて義だ。息が残っている限り、わたしは証しに立って神に満足していただくつもりだ」。その後、わたしは自宅に戻って療養に努めました。毎日神の御前に出て祈り、御言葉を読んでいると、落ち着きと心の平安を感じました。医者からは箱2つ分の血清を注射されましたが、費用はわずか10元足らず。それを1ヵ月にわたって受けたところ、指に色が戻り、食欲も戻ってきました。徐々に力と元気が蘇り、やがて病気になる前と同じ状態に回復しました。再び病院を訪れ検査を受けたところ、こんなに早く回復したのは奇跡だと医者から言われました。しかしわたしには、これはひとえに神のおかげであり、神以外にわたしを救える者はいないとわかっていました。神がこうおっしゃる通りです。「生死に対する力を握っているのは人間でもなければ自然界の生き物でもなく、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかです。人類の生死は自然界の法則の産物ではなく、創造主の権威による統治の結果です(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。わたしは神の主権と権威、そして神の不思議な御業を経験し、神の愛と救いを目の当たりにして、心の底から神に感謝しつつ、神を称えました。村の人たちもわたしを見てみんな大いに驚きました。わたしが回復するとは夢にも思わず、元気な姿を見られるとは想像もしていなかったし、命からがら回復したのは本当に運がいいと言うのです。しかしわたしは心の中でわかっていました。これは運などとは関係なく、神の力と権威なのだと。神がわたしを救ってくださった! それから程なくして、わたしは教会での本分を再開しました。それから5年が過ぎましたが、病気が再発することはありませんでした。これはわたしが望んでいた以上のことであり、心から神に感謝しました。

この病気の中、わたしは御言葉の啓示を受け、事実を突きつけられたことで、自分の誤った信仰観と堕落した性質をいくらか見抜けるようになり、神の主権、義なる性質、そして美しい本質を認識するようになりました。祝福を得るという意図を捨て、最も有意義で価値ある人生を送るにはどうすればよいかを学んだのです。神のお優しさに心から感謝します!

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