刑務所での苦難

2022年7月16日

シャオファン 中国

2004年5月のある日、数名の兄弟姉妹との集会に参加していたところ、20名以上の警官が乱入してきました。彼らは市の国家保安大隊で、過去4ヵ月にわたってわたしの携帯電話を監視していたそうです。また、これは省全体の取り締まり活動の一環であり、全能神の信者多数が逮捕されたとのことでした。警察は尋問すべく、市の共産党学校にわたしを連行しました。建物に入ってすぐ、靴を脱いでしゃがむように命じられました。しばらくすると両脚の感覚がなくなりましたが、姿勢を変えようとするたび、警察官が怒鳴りつけ、筋肉を動かすことは許されていないと言いました。そして尋問が始まるまでの2時間、警察はわたしをしゃがませたままにしたのです。「指導者は誰だ? 教会の金の保管場所は?」。これらの質問に、わたしは何も答えませんでした。すると国家保安大隊の隊長が手錠を持って部屋に入り、激しい口調で言いました。「この女相手に時間を無駄にするな。思い知らせてやれ!」。そしてわたしに向かい、「隣の部屋のあれが聞こえるか?」と訊きました。隣室にいる姉妹の悲鳴が聞こえ、すぐに不安と恐怖を感じました。「警察はあんな風にわたしを尋問するつもりだ。どうして耐えられるかしら?」。そこでわたしは無言で神に祈り、力を授けてくださいとお願いしたうえで、進んで神にすがり、証しをしますと言いました。まさにそのとき、隊長がわたしを床に蹴り飛ばし、後ろ手にして手錠をかけ、それを上下に振りました。そのようにして何度か引きずられたわたしは激しい痛みに襲われ、汗が噴き出ました。尋問者は10分以上もそうしたあと、ようやくわたしを自由にしましたが、この手段ではうまく行かないとわかり、別の方法を試すことにしました。別の地区の警官と、この町の武装警官を何名かずつ連れてきて、グループで尋問にあたらせたのです。各グループは4名から成り、昼夜交代でわたしを見張り、眠りそうになったら目を覚まさせることでわたしを苦しめました。わたしはもう目を開けていられず、眠りに落ちそうになるのですが、警察はわたしの決意を打ち砕き、兄弟姉妹を売って神を裏切らせようと、顔に冷水をかけたり髪を引っ張ったりしました。日を追うごとにわたしの緊張は限界に達し、一瞬でも集中力を切らせば教会の情報を話してしまうのではと不安でした。ひたすら心の中で神に祈り、わたしを導いてこの恐ろしい日々を乗り切らせてくださいと願いました。警察はわたしに恥ずかしい思いもさせました。トイレに行っても、男性警官が外を行き来しているにもかかわらず、扉を閉めることを許さなかったのです。中にはわざわざ覗く人もいましたし、また出入口に警官が立っているので、トイレに入る姿を何度も見られました。このような形で、わたしは12日間にわたって尋問と拷問を受けました。また10日以上も寝ておらず、神経がぼろぼろになっていたので、結局ひどい便秘になりました。体重も拷問のせいで58キロから52キロまで落ち、わずか12日で6キロも減ったのです。

13日目、警察は市の留置所にわたしを連行したのですが、それから1ヵ月も経たないうちに、監視のため今度は高級ホテルに連れて行きました。すると警察はそこに夫を連れてきて、部屋に二人きりにしました。教会の情報を引き渡すよう、夫がわたしに促すようにさせるためです。わたしは最初弱気になり、一刻も早くこの地獄の穴から夫と一緒に逃げ出したいと思いました。しかしここを離れるには、神を裏切り兄弟姉妹を売らなければなりません。そのとき、神の御言葉が脳裏にひらめきました。「あなたがたは常に目を覚まして待ち、もっとわたしの前で祈らねばならない。サタンのさまざまな企てやずる賢い策略を見極め、霊を認識し、人々を知らなければならず、あらゆる人や出来事や物事を見分けることができなくてはならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十七章」〔『言葉』第1巻〕)。警察はわたしの態度を和らげ、それによって神を裏切らせようとするために夫を連れてきたのだと、御言葉のおかげで思い出すことができました。これはサタンの狡猾な企みであり、わたしは危うくその罠に落ちるところだったのです。警察は尋問中、兄弟姉妹の名前が記されたリストと何枚かの写真をわたしに渡し、知っている人間がいれば指させと言いましたが、わたしは拒みました。また、夫がわたしの信仰を常に支えてくれていたことを思い出し、このチャンスを利用して、それらの兄弟姉妹が地下に潜伏して逮捕を免れるよう、夫から警告してもらおうと考えました。そこで夫の肩に顔をうずめ、泣く振りをしながら自分の計画を耳元でささやいたところ、夫はそうすると言ってくれました。すると驚いたことに、女性警官がすぐに部屋へ飛び込んできて、夫にこう言ったのです。「わたしたちの手助けをしてもらうために、あなたをここへ連れてきたのよ。何を話してたの? 出て行きなさい!」。警察は夫に対し、わたしが情報を売って神を裏切るように仕向けることを望んだのですが、自分たちの企みがうまく行かないとわかった瞬間、この女性警官は激怒し、夫を追い出したのです。警察ときたら、なんと邪悪で悪意に満ちているのでしょう! 神のお導きのおかげで、サタンの狡猾な企みにはまることはありませんでした。

その後、警察は尋問を続けるため、わたしを共産党学校に戻しました。そして「虎の腰掛け」と呼ばれる椅子にわたしを縛りつけたのですが、女性警官が部屋に飛び込んできて、ゴムのスリッパでわたしの顔を殴りだしました。一瞬で視界が暗くなり、わたしは椅子の中でぐったりしました。すると彼女は、わたしがその振りをしているだけだと思い込み、悪態をついたうえ、わたしの髪をぐいと引っ張って再び殴りました。顔面が紫色の卵のように腫れ上がり、目から血が滴り落ちます。そのとき男性警官がやって来て、わたしの拘束を解き、髪を掴んで乱暴に引っ張り、虎の腰掛けの下にわたしを押し込もうとしました。しかしなかなか入らないので、その警官はわたしを蹴って悪態をつき、お前は犬より役立たずだと言いました。そして何名かがわたしを腰掛けの下に押し込み、そこを動くなと言ったうえで、わたしを再び拘束しました。こんな風にひどい暴行と辱めを受けたわたしは激しく動揺し、弱気になり始めて内心こう考えました。「拷問をやめるつもりはないみたい。いったいいつまで続くの?」。極限の苦痛の中、もう死にたいと思い始めましたが、虎の腰掛けに拘束されているとあってそれも無理です。そこで、心の中でひたすら神に祈り続け、主の福音を宣べ伝えたために迫害された歴代の聖者のことを思いました。何頭もの馬に身体を引き裂かれた人もいれば、石を打たれて殺された人、のこぎりで身体をばらばらにされた人もいます。彼らはみな、普通の人には到底耐えられない拷問を受けましたが、生命をかけて神の証しをしました。一方のわたしはこれほど些細な痛みにも耐えられず、逃げるために死にたいとさえ思っている。あまりに弱く、証しなどまったくしていません。そうしたことを考えると後悔と苦悶で一杯になったので、急いで神の御前に出て、祈って悔い改めました。すると、近くの窓にとまる小鳥に気づきました。その羽は灰色で、わたしはその日降っていた弱い雨のことをいまでも思い出します。小鳥はさえずり続けたのですが、わたしの耳にはそのさえずりが、「証しに立ちなさい、証しに立ちなさい」と言っているように聞こえました。小鳥のさえずりはますます早くなり、ついには叫び声のようになりました。そのとき、神はこの小鳥を使ってわたしに注意なさっているのだと気づき、深い感動を覚えました。そして泣きながら神にこう祈ったのです。「神よ、意気地なしや臆病者にはなりたくありません。このように弱り、恐怖に怯えながら死ぬなど嫌です。どうか信仰と力をお授けください。証しに立ってサタンを辱めたいのです」。まさにそのとき、神の御言葉が頭に浮かびました。「あなたがたはみな、この言葉を覚えているだろう。『なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである』。あなたがたはみな、この言葉を以前耳にはしたが、その本当の意味は誰も理解していなかった。今日、あなたがたはこの言葉の真の意義を深く認識している。この言葉は、神によって終わりの日に実現され、また、赤い大きな竜がとぐろを巻く地で、その竜から熾烈な迫害を受けている人たちにおいて成就する。赤い大きな竜は神を迫害し、神の敵であるから、この地において、神を信じる者は辱めと迫害を受け、またその結果として、これらの言葉があなたがた、つまりこの人々の集団において成就する(『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたがたは終わりの日に神への証しをしなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで歩まなければならず、最後の一息になってもなお神に対して忠実であり続け、神に身を委ねなければならない。これだけが真に神を愛するということであり、またこれだけが鳴り響くような強い証しなのである(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉はわたしを慰め、励ましてくれました。中国共産党は悪魔サタンにして神の敵なので、神を信じて本分を尽くす過程において、共産党に迫害され、傷つけられるのは避けられないということを、それは教えてくれました。しかし、神はサタンの狡猾な企みに応じて知恵をふるい、サタンが繰り出す迫害や残酷な拷問を用いてわたしたちの信仰と従順を完全にし、そうする中で勝利者の一団を作られます。わたしは真理を得るために苦しんでいますが、この苦しみは有意義で価値あるものなのです。そのとき、わたしたちを救うべく神ご自身が肉となり、拒絶と中傷に耐え、隠れることもできないまま、共産党に追われて迫害されていることが頭に浮かびました。神がかくも大きな屈辱と苦痛を受けられているのに、堕落した人間であるわたしの些細な苦しみなど、いったい何だというのでしょう? キリストのおそばで苦しめるのは名誉なことなのです。死に向き合ってびくびくしているわけにはいきません。サタンにどう拷問されようと、最後の一息まで証しに立ち、神に満足いただこうと決意しました。その後、国家保安大隊の隊長が、邪悪な笑みを浮かべてこう言いました。「持ちこたえているようだな。こんな風に扱うつもりじゃなかったんだ。何もかも話して協力すれば、すぐに家へ戻れるし、家族とも再会できる。それは保証しよう」。そしてフライドチキンとパンがわたしの前に出されましたが、わたしを誘惑して神を裏切らせようとする新たな策略に過ぎないことはわかっていました。わたしは目の前の食事を見て、きっぱりとこう言いました。「そんなのどうだっていいわ。わたしにかまわないで。どうせまな板の鯉に過ぎないんだから。ここから生きて出られることはないし、その事実はもう受け入れたの。だから好きなようにしなさい。何を訊かれてもわたしは知らないと、すでに言ったわよね!」。すると相手は冷酷な笑みを浮かべて言いました。「そうむきになるな。気楽に考えろ。我々の知りたいことを話してくれれば、家に帰れるんだぞ」。そして背を向け、その場を去りました。その後、警察はわたしを虎の腰掛けに座らせました。それから2週間が経ち、警察はわたしを拘置所に連行しましたが、ひどい怪我を見たそこの職員は受け入れを拒みました。すると国家保安大隊の警官が、これは自分で転んでできた傷だと無理矢理わたしに言わせたので、拘置所の警官はわたしを受け入れざるを得ませんでした。

拘置所で1ヵ月過ごしたあと、警察は再度尋問を行なうべくわたしを共産党学校に連れ戻しました。そこでは1日24時間虎の腰掛けに座らされ、背筋はまっすぐ、両脚も90度にさせられました。これが1ヵ月も続いたのですが、首が耐えがたいほど痛くなり、両脚もひどく腫れました。警察による絶え間ないいじめと侮辱、そして暴行に、わたしは心の中で激怒しました。さらに警官たちは、全能神の信者を大勢逮捕したときの様子を話し、逮捕した人が男性か女性か、老人か若者かを問わず、まずは拷問して恐怖を植えつけ、それから尋問に取りかかるのだと言いました。これが抑え込む手段だというのです。これらの化け物たちが、兄弟姉妹をいかに傷つけているかを興奮した口調で自慢げに語り、野獣のごとく満足げに笑っている様子を見て、わたしは憎しみのあまり歯ぎしりしました。共産党はまさに、人を傷つけて楽しむ悪魔の群れです。わたしは静かに祈り、この化け物たちを呪いました。その後、自分たちの望む情報をわたしから引き出せないことを悟った警察は、わたしをまずは拘置所、次に犯罪者の収容所、そして洗脳を行なう場所へと移送しました。1年3ヵ月にわたって監禁されたあと、わたしはようやく市の拘置所に戻されました。わたしの精神を打ち砕いて神を裏切らせようと、警察はそのようにしたのですが、結局成功しませんでした。その後わたしは、「封建時代の迷信を利用して法の執行を妨げた」罪で有罪となり、禁固4年を言い渡されました。

刑務所に入ったわたしは、生き地獄とはどのようなものかを再び思い知らされました。衣服の生産ラインに配属され、そこでは全員が自分の仕事をしていたのですが、生産ラインに追いつけない人、自分のノルマをこなせなかった人は、午後11時の終業時間後に30分間から1時間立たされます。そのころは食事の時間を除き、作業室で過ごしていました。喉が渇いても水を飲む時間はなく、トイレへの行き来も駆け足です。結局、ひどい便秘になりました。毎日ずっと座って作業し、常に仕事が山ほどあったうえ、かつて警察の手による拷問を受け、あの虎の腰掛けに2ヵ月以上も座らされたこともあって、しまいに首の激痛が蘇り、頭痛や吐き気にもたびたび苦しみました。ある日、わたしはシャワー室で足を滑らせて転んでしまい、床に頭を打ち付けました。また背中が段差にぶつかり、めまいがして動くことがまったくできません。背骨を折ったかのような激痛に襲われました。他の囚人も、この人はもう駄目だとか、全身不随は間違いないなどと言っています。全員が助けを求めて叫び、警報ベルを鳴らしましたが、誰も来ません。結局、囚人が数人がかりでわたしを寝台に運んでくれました。全身が壊れてしまったような感覚で、痛さのあまり涙が止まりません。その夜は激痛のせいで一睡もできませんでした。次の日の午前8時、ようやく看守がわたしの房に現われたのですが、どれくらい痛むのかといらだたしげに訊きました。「背骨が折れたみたいです。まったく動けないし、頭も痛くて仕方ありません」。しかし看守は馬鹿にしたような口調でこう言うだけでした。「大した問題じゃないわ。仕事が山ほどあるんだから、2階に行って作業して。動けないなら、運んでくれる人を見つけなさい。誰も助けてくれないなら、這ってでも行くのよ!」。そして背を向け、立ち去りました。そのためひどい激痛に耐えつつ、ゆっくりベッドから下ろしてもらうよう他の囚人に頼まざるを得ませんでした。起き上がるまで30分から40分もかかり、それから廊下をゆっくり進んで階段を上りました。苦労してなんとか作業室にたどり着いたのですが、何十回試しても、どうしても座ることができません。結局、自分の機械にしがみつき、歯を食いしばって痛みに耐えながら、力を振り絞って椅子に座りました。背骨が折れたかのようで、極限の痛みがわたしを襲います。当直の医師が来るまで我慢するのも本当に大変だったのですが、その医師はわたしにヨードをこすりつけ、サンシチニンジンの錠剤を3錠渡しただけでした。それを飲んで作業に戻りなさいというのです。そのせいで、心身を苛む苦痛にこれ以上耐えるのは無理だと思いました。ここまで非人間的な扱いをする警察が憎くてたまりません。彼らの目から見て、囚人は犬にも劣る存在であり、自分たちのためにお金を生み出す機械なのです。自分の刑期は4年もあるのに、刑務所に来てからまだ1年も経っていないことが頭をよぎりました。これほど長い時間、いったいどうすれば生き延びられるだろう? 生き残れるかどうか、まったくわからない。そう考えて強い孤独と心細さを感じ、いつの間にか自分の好きな神の御言葉の賛美歌を口ずさんでいました。「苦難に直面したときは肉への不安を脇にのけ、神に不満をぶつけずにいられる必要がある。神があなたから隠れているときは、神に付き従う信仰をもち、以前の愛が揺らいだり、消え去ったりすることがないよう維持できなければならない。神が何を行なおうと、あなたは神の意図に従わなければならず、また神に不満をぶつけるのではなく、自らの肉を呪う覚悟をしなければならない。試練に直面した際は、たとえ苦い涙を流したり、愛するものとの訣別が嫌だったりしても、神を満足させなければならない。それだけが真の愛、真の信仰なのである。あなたの実際の霊的背丈がどの程度であろうと、まずは苦難を受ける意志と真の信仰をともに備え、肉を捨てる意志も備えていなければならない。神の旨を満足させるべく、自ら進んで自分の苦難に耐え、個人の利益を失うことを惜しんではならない。また、自分に後悔することもできなければならない。過去、あなたは神を満足させることができなかったが、今では悔いることができる。これらのどの点においても欠けがあってはならない。神はこれらのことを通じてあなたを完全にするのである。これらの基準を満たせなければ、あなたが完全にされることはない(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「完全な者とされるには」より)。静かにこの賛美歌を歌ったのですが、歌えば歌うほど心が動きました。内なる力を感じ始め、自分はいま弱りつつ、この悪魔のねぐらで苦しんでいるけれど、それでも神の言葉がわたしを導き、信仰と力を与えていると思いました。神は決してわたしのもとを離れておらず、神の御言葉があれば孤独ではありません。そう考えると大いに慰められ、苦しみに耐える決意に欠けていたことを後悔しました。わたしはこれらの苦難と試練に遭い、否定的な状態に落ち込んで神の心を傷つけてしまったのです。そして、逮捕後に自分が経験してきたことを考えました。長きにわたって警察に痛めつけられ、拷問されたため、御言葉の導きと神の見守りがなければ、いままでに数度は死んでいたはずです。そしていま、自分はこの非人間的な責め苦に再び苛まれているけれど、神にすがる限りきっと乗り切れるはずだという信念を持ちました。神はこの状況を用いて、わたしの信仰を完全になさろうとしているのです。神をこれ以上傷つけるわけにはいきません。神にすがってたくましくなり、生き続けて神の証しをする必要があります。そう考えると、内心の絶望が徐々に引き始めました。あの期間、サタンによる苦痛と拷問を乗り切らせてくれたのは、神の御言葉の導きでした。やがて刑期も終わり、わたしは生きてこの地上の地獄から出ることができました。

帰宅後、わたしが詐欺師だという噂を警察がせっせとまき散らしていることを、わたしは耳にしました。夫はこの噂話を避け、近所の人たちに指を指されなくても済むよう、別の場所で仕事を見つけることを余儀なくされ、わたしに離婚を切り出しました。義母も、わたしが刑務所に入れられたのを深く恥じ入り、わたしのほうを見ようともしません。さらに娘も、教師と同級生に容赦なく馬鹿にされ、村の子どもたちは誰一人、彼女と遊ばなくなってしまいました。何があったのかを知ったわたしは、涙をこらえることができませんでした。あれほど幸せだった家族が、共産党による迫害のせいでこんなことになってしまった。共産党が憎くてたまらない! そのとき、神の御言葉の一節が頭に浮かびました。全能神は言われます。「遠い昔の祖先とは何なのか。愛すべき指導者とは。彼らは皆、神に反抗している。その干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられている。宗教の自由だと。市民の正当な権利と利益だと。そのようなものはどれも罪を隠蔽する手口である。……なぜ、神の働きに対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺くために様々な謀りを用いるのか。真の自由と正当な権利と利益はどこにあるのか。公平さはどこにあるのか。安らぎはどこにあるのか。温もりはどこにあるのか。なぜ偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのか。なぜ力ずくで神が来るのを抑制するのか。なぜ神が創った地の上を神に自由に移動させないのか。なぜ神が枕するところもなくなるまで神を追うのか。人間の温もりはどこにあるのか。人間の歓迎はどこにあるのか。なぜそれほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのか。なぜ神に何度も叫ばせるのか。なぜ神にその愛する子について憂わせるのか。この暗黒社会において、なぜ哀れな番犬は神自らが創った世界を神に自由に行き来させないのか(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉をじっくり考えていると、共産党の醜さが完全にわかりました。表向きは正義を装い、「宗教信仰の自由」、「人民のために法と秩序を守る」、「人民を気遣う」などとまくし立てています。美徳や道徳について立派なことをあれこれ言いますが、その裏ではあらゆる手段を用いて信者を逮捕・迫害して噂を広めており、その結果、無数のクリスチャンが投獄されて家に戻ることもできず、家族が引き裂かれています。わたしもそれまでは共産党の正体がわからず、崇めていました。しかしその迫害を受け、共産党こそが人々を傷つける悪魔の頭だとようやくわかったのです。それは実質的に神と真理の敵であり、最も邪悪で反動的な悪魔の群れなのです。

わたしの出所後も、警察は決して監視をやめませんでした。地元の警察署の警官が、いまでも神を信じているのかと絶えず訊くので、自宅で神の御言葉を読んでいるときは、玄関の扉にしっかり鍵をかけなくてはなりませんでした。御言葉の本も一番見つかりづらい場所に隠し、集会や伝道に出かけるときはこの上なく気をつける必要がありました。2013年のある日、わたしが担当する教会の指導者と執事2人が逮捕されたため、その教会の職員を別の場所に移し、兄弟姉妹に用心するよう通知すべく、その手配をすぐにとる必要に迫られました。その準備をしていたところ、ある姉妹がこのように言いました。「逮捕された指導者が兄弟姉妹のリストを持っていたので、そのリストはもう警察の手に落ちました」。彼女によると、警察は監視カメラを駆使して怪しい人物を血眼になって探しており、また信者を見つけるために戸別訪問の準備もしているとのこと。さらに、「1人を網から逃すくらいなら、千人を誤認逮捕したほうがましだ!」という脅しまでしたそうです。それを聞いて、わたしは不安と恐怖を覚えました。以前、自分は信仰のために逮捕された。だからわたしのファイルがまだあるはず。警察が顔認証システムを使って探索すれば、わたしはきっと逮捕される。また逮捕されたら生き延びるのは到底無理――警察がそれを許すはずはない。そう考え、できるだけすぐ逃げなくてはと思いました。しかし別の教会へ赴いたところ、心を落ち着かせることができず、良心の咎めを感じました。あの教会にはいますぐ処理しなければならない仕事が多数ある。なのにわたしは自分の命を守ろうと、使命を投げ出してしまった。いま去ったら、神の家の利益を守っていないことになる! わたしの良心と人間性はどこに行ったの? 臆病な意気地なしのように振る舞っているんじゃない? わたしに神への真の信仰はない――わたしの証しはどこにあるの? そうしたことを考えながら、わたしは神の御前に急いで祈りを捧げ、信仰と力をお授けになり、証しに立てるようお守りくださいと願いました。

そして、全能神の御言葉の一節を読みました。「人が自らの生命を犠牲にする覚悟がある時、一切がささいなものとなり、彼らをしのぐ者はいなくなる。生命よりも大切なものがあるだろうか。ゆえに、サタンは人の中でこれ以上何も行なえず、人に対してできることはない。『肉体』の定義では、サタンによって堕落させられているものとあるが、人々が自分自身を真になげうち、サタンに振り回されることがないなら、誰も彼らを打ち負かすことはできない(『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第三十六章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉をじっくり考えるうちに、この状況は神による試験であり、霊の領域で戦いが繰り広げられているのだとわかりました。わたしは神の側に立って命を捧げ、サタンに恥をかかせて神の証しをしなければなりません。この重大なときに尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかないのです! 自分は神の家の働きを守る必要がある――それがまさに、良心と人間性を持つ人がしなければならないこと。わたしは義のために迫害に苦しんでいるのであって、たとえ死んでもその価値はある。卑しい生き方をしてサタンに屈服すれば、身体は生き残っても、歩く死体になってしまう。その考えに、わたしは解放された感覚になりました。そこであの教会に急いで戻り、兄弟姉妹をまとめ上げて御言葉の本を残らず運び出したうえで、身を隠すよう彼ら全員に伝えました。教会の働きはすべて迅速に行なわれ、わたしは神の導きに感謝しました。

全能神を信じて20年以上、共産党の迫害と圧迫に絶えず苦しみ、多少の苦痛を受けましたが、神の御言葉による導きのもと、多少の真理を理解し、正しいことと間違ったこと、義と悪を区別できるようになりました。また、そうした極限の状況を通じて、神にすがることも学びました。神の御言葉の権威を実感するとともに、神への信仰も膨らみました。これはどれも、神の恵みによるものです。全能神に感謝!

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